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徒然書いたので徒然読むのが良いかと思います。|小澤南穂子

いいへんじの小澤です。
終演note書こう書こうと思いながら、思えば思うほど本当に書きたいことを書けなくなってしまった挙句諦めた状態から始まっています。
諦めないことは時に大事。
引き際も肝心。
最近カイジを読んでいます。
徒然書いたので徒然読むとよいかと思います。

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なんかそろそろいいへんじの終演noteをかかないといけないなぁと思ってメモをひらく。

冨岡英香(Aチームの真壁)さんのnoteが日記なんだけど徒然ですごいよくてカッコつけた文章書かなくていいかと安心したので、書くことにする。

ちゃんと書かないと、みたいなことを思うとどうしても呼吸が浅くなって、結局大した内容を書けない。

から、わたしも徒然することにする。

本番が終わって、4月も三周目に入った。
割と良きほどに過ごせた。
なんでもなーく日々が通り過ぎていくことにどうしても焦ってしまって何か面白いことをしないとと思ってしまう癖が治らないが、友達と会ったり面白い演劇や映画に出会ったりたくさん働いたりした。自炊もした。タコライスとたまご丼で2週間夜を暮した。

最近は友達に会うことが楽しい。
佐吉祭の後夜祭あたりから、飲みに行こう集まろう会おうと言ってちゃんと会うようになった。
人の話を聞くのも、自分の話をするのも、なんか楽しくて、変にソワソワする。

その日自分が聞いた言葉を反芻しつつ、相手に伝えてしまった言葉を少し反省したりする。伝えきれなかったことや受け取りきれなかったこともある。
しかし総じて楽しい。人と仲良くするのは楽しい。

吉村さん、友達初級って感じだけど、自分も意外と、飲み茶しばき初級。1人で晩酌をすることも覚えました。

なるべく常に陽気でいたい。

しかし心がシュンとしているなら体もシュンとさせないとバランスがおかしくなる感じがする。くだらないことを考えすぎるなと自分に言い聞かせていたけど、考えてしまうのはくだらないことじゃないからかもしれない。自分にとっては。他人や社会や世間はその軸と関係ないと思うこともときにはありかも。無視するわけではないから。区別するだけだから。

友達は仲良くするのが楽しい人となればいい。
「友達100人できるかな」の聞こえ方がかわった。
友達が多い方が勝ち、みたいな価値観に晒されがち。焦ってニコニコ友達作りがち。それなりに楽しいが重荷。そもそも、勝ち負けなんて考え方をした時点で、負け。結局勝ちたいとは思っている。

生活に愛するものやことがあることの幸せを考える。
演劇を続けたいと思うこと、身を置きたい場所があること、それを守るために頑張る意志や心や健康な体やその術と必要な場合の扶助があることは、とても恵まれていると最近感じる。

そう言った恵みに背を向けられないように、
誠実にいたい。私の側は。どれくらい耐えられるのだろう、「我慢」になってしまうのはむしろ傲慢なのかも。正直さが、私が今最も手に入れるべきお宝。

5月は父親と初めて2人で飲みに行くみたいだ。正直、おこられるんじゃないかと、おもって、こわい。
60を超えた親が私の話に耳を傾けてくれる有り難さを忘れるな。母は私のために少しずつ変わってくれる。まじありがとうな。おれもがんばる。自分のことばかり可愛がっていないで、可愛がってくれる外の人々を愛せよ?(煽)

近頃のホットワード、「尊重の距離」

最近推しができたが飲みにいくくらい知っている人なので待ち受けにするのは憚られる。

また息が浅くなってきた。
特に話すことも書くこともない。

そういう理由で「人とゆっくり会う」機会から逃げ続けていた。緊張するし、もしかしたら傷つけてしまったり、傷つけられたり、それで疎遠になることも、割とザラにあることも知って、「人とゆっくり会う」「人の話を聞く」「人を知る」という、あまりにもプレシャスな時間の、扱いが難しくなってしまった。

人と会うことがギャンブルになる。

カイジが沁みる。

意図的に傷つけないことは、正直、全世界の前提であってほしい。とはいえ、通じない話は通じない。
電車で我先にと降車する人の波をつくりだしてるときはみんな優しいなんて概念すら忘れる。

そういうもんというのと、そういうもんであって欲しくないという気持ちがたたかう。

とりあえず、自分の送ったことのない人生を闇雲に否定しないということに気をつけることに決めた。

幸せであることと恵まれていることはちがうけど、自分はあまりにも恵まれている。自分の人生を気に入って、それを続けるためにどうしようかと考えられることは、実はとてもすごいことなんじゃないかと思い始める。

でもそういうポジティブさは、パンクしそうな時忘れやすい。絶対にパンクしないひとは少ない。

そんなことを考えてきたのは、「友達じゃない」をやって、人と人との関係性や、その続き方、あるいは続くことの信じ方が、人によって違うのだということを目の当たりにしたから。

見に来てくれた友人と、「友達じゃない」の話をしていて、相手の望む答えが想像できるのに、私はそれに賛同できないままで、友達相手に接待トークをしてしまったことがショックだった。

"気持ちはわかるけど違う考えをしているよ"

というのを、偉そうじゃなくフラットに言う術を私は知らない。同意できること以外のボールをキャッチしたり投げたりすることが、いつかできるようになるのだろうか。

「友達じゃない」で、わたしが作品から受け取って観てくれるひとたちと共有したかったのは、コミュニケーションはまず取ることを大切して良いということで、

相手の立場や気持ちや、人生を想像しきれずに苦しんで、想像をすることすら傲慢な、もはや自分の作り出した妄想なんじゃないか、むしろそれこそ相手を傷つけているんじゃないかと思ってしまうときに、(ありますか?そんなこと。私はあるんですけど)

それで怖くなって口をつぐまなくてもいいんじゃなきか、ということでした。

むかし、精神疾患を抱えた友達になにも言えなかったことがあって、そのまま疎遠になってしまった。その人は苦しんだだろうし、私も実は私なりにかなしくてもう5年も経ったけどそのことを忘れられない。少しずつ整理はついたけど街中で会っても、
「私に会っても嫌だろうな」と思って知らないふりをすると思う。

自分だって現実はそうなんですけど、もしそこに関わる両者が、コミュニケーションなんて間違えちゃうことの方が多くて、けど取ってくれることがわりかしナイスなことじゃん、とかカジュアルに思てたら、なんか変わるんじゃないかって祈ってしまう。

そういう想いに私をさせた「友達じゃない」私は5年忘れてない友達と同じように忘れないでいようと思っている。

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あと7日!!!

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