価値|小澤南穂子【ヒコウキグモ】
わたしは、この「思索と試作」をやることが決まってから、稽古期間、小屋入り期間、通してずっと、その「試作と思索」から何が得られるのか、それをどう活かせるのか、それに「意味」を見出そうとしていました。
コロナの影響で色んな出ようとしていた公演も見ようとしていた公演も、中止か延期になって、ずっと警報機が鳴り続けていて、鳴り続けまくり過ぎるからもう音が鳴ってるのか鳴ってないのか、わからなくなってしまっていたような頃。「伝統」にも「変化」にも「改新」にも「適応」にも触れないで、ゆらゆらしているように見えたコロナ禍演劇運動。私はそれをそれはそれは遠くでみていました。腹立たしいし、気持ちが悪いし、なんか恐ろしいしだったそれを、実際どんなもんなのか、急に、自分の目でみてみたくなりました。それはわたしの心を揺らしてきやがりました。「意味はわからないけど面白そうかもしれなくないか」と思ってしまった。
あくまで、上演をする時のための、なにかしら、に、したくて、ずっと空気を観察して、心を観察して、状態を探って、言葉にしようとしていました、無理矢理。
でもどうしても、コントロールの効かないわたしの脳味噌と体と心とそのほか色んなものは、まったく私の手元に収まらず、ずっとすっと、砂を掴んで指の間から逃していくような気持ちでした。めくるめくつくり出される声が、全部嘘に聞こえて、自分の身体が自分のものじゃないみたいに思えた。すごく遠い惑星にある探査機に身体だけ置かれてしまって、応答しないその探査機をずっと動かそうと力一杯ハンドルを回しているようだった。地球上で。
とても声にはならなかった。前輪がうまく方向を誘導していかない下手な運転をずっと繰り返して、検定を何度も落ちるような。
つまり、暗中模索。
自分も、役も、作品も、そのすべての立ち位置も、その居場所も。
そんな中迎えた小屋入り最終日。
全部終わった後、片付けられて壁と天井と床しかなくなったどらま館で、キャストと演出家と途中からドラマトゥルクが、「思索と試作」の間のことを車座になって話した。
↓心の声(かなり必死)
「ここでそういう感じになるの、マジで違うよなー。なるべく爽やかに、またやるんだから、なるべく爽やかに。いい感じに、一度、とりあえず、区切りっだっあ!!!!」
なのに、人の話を聞いてたら、聞いてる人たちの顔を見たら、なぜだか急に泣けてきてしまったでごわす。マジ最悪!笑
↓心の声(とても大きい声で)
「いや、なんだよこれーーーー!
なんだよこれーーーーー!
なんなんだよ、なんなんだよこれーーーー!」
マジパニック。
↓心の声(すごく態度が悪い感じで)
「なんか、変なの。
なんか、これ、なにやってんの。
なんか、みんな、めっちゃ、考えてるじゃん
なんか、みんな、めっちゃ、居るじゃん
なんか、みんな、めっちゃ、みんなじゃん
なんか、なんか、なんか、すげーじゃん
感動とか別にしたくなかったのに!
心と動くなよマインドオン!オン!…あれ?オンンンンン!なんか、だめだ、最悪だあ!」
今やっと伝わる言葉に変えれば、
それは、わたしにとって、あまりにも特別で、求めていた何かしらだった。
この何かしらを名前で呼べないことが口惜しくもあり、嬉しくもある。
あまりにも明らかに、確かに、かたい、どこにも広がっていくはずのなさが、つまりお客さんのいなさが、目に見える名のつく価値の見出せなさが、わたしには酷く、酷く、酷く、大切なものだった。
名付けられないからこそ、その価値が絶対で、いつの日も、誰にとっても、相対評価の手の届かない、社会の手の届かない、場所にある、黒い天井と壁と床に囲まれた、それ。
これは私の身体が、記憶するほか記録の方法がない。誰も知る由がない。それが嬉しすぎた。
わたしにとっては、その絶対的価値を持つそれが、探していた「意味」だった。
社会的に、金銭的に、相対的に、価値のなくなってしまう大切なもののことを考えていた。
本当に本当に、本っ当ーーーーーに大事なのに、なんで、承認されないのだろう。
私は今就職活動をしていて、映画とか、ドラマとか、ラジオとか、出来たらいいなーと、割と、強く、思っている。
でも引っかかる。
やってることは、何かを、つくるってことは、その過程だって、思いだって、結果だって、それらは私が大事にしている演劇と親和性高いはずなのに、なんで、観る人の数、チケットの額、発生する収支で、金銭的価値で、社会的地位が、相対的に、こんなにも変わってしまうのか。
辛い。割と辛い。ほんと、辛い。やだ。
(基本的に、社会的地位が高い=ママが喜んで認めてくれる進路、社会的地位が低い=ママが認めてくれそうにない進路という軸で話は進んでいます。)
だから、そこから、そのカオスなパーティーを抜け出すように浮かび上がったあの黒い天井と壁と床に囲まれた空間が、酷く特別に思えて、揺るがない何かしらをみた気がして、涙しか出なかった。ずっと殺してきた感情だけしか、ほんとそれだけしか、表象されなかった。
作品づくりに関わった人しか出入りしない劇場で約1週間。
出来上がった何かしら。
多分、「みられる」ことはなく、すなわち、「何かになる」ことはなかった。
ただあって、ただ起こって、誰にも触れなかった何か。
でもだからこそ、そこに確かにあったことを、ものを、私が知っているということに価値があると思った。そしてそれは、誰も知る由のない、誰も、何も言えない、マジ絶対的価値だと思った。
それは、今まで通り演劇やってたら、多分まったく気づかなかった、創作の価値、芸術の価値だと思う。
なんか、それが、ほんと、すごかったわ。
という話でした。
まあ、すごい感動したみたいに言ってるけど、明日になったらそんなにそこまで思ってないかも。いまはそれ信じらんないけど。
お知らせ
2020年10月に予定していた『器』の上演を、無期延期とさせていただくことになりました。詳細はこちら。
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