言葉なんていらないなぁ。 言葉では完璧に伝わることなんてないんだから、必死に伝える必要もなかった。 何もする必要のない安心感。 3次元の世界の楽しみ方はいろいろ
始めは「出来事を変えたい」や「思い通りにしたい」を叶える方法を探し出す。そして引き寄せの法則を知って言われたことをやってみる。物事がスムーズに流れて叶ったように見えるんだけどなんか違う。 実はそういうのじゃなかった。何もいらない。安心感がある。現実に戻されてもただ安心感がある。
人に迷惑をかけないようにしようと心がけていても、思いもよらず迷惑をかけてしまうことがある。 例えばレジの列に並んだつもりが実は横入りになっちゃってたとき。 後ろの人にごめんなさいと言って場所をかわろうとすると「いいですよ🙂」と言ってもらえたり。 私も大らかになろうと決心する。
日常を生きていることこそが「全体」の現れならば、もう追い求めるものがなくなってしまった。。。 とは言ってもうっかりストーリーにマインドに引きこまれてしまうから、忘れないようにくり返しメッセージに触れたい。
*くり返し触れたいメッセージ*完 私たちが生きているようすそのものが「無」「静寂」 条件ぬきの幸せ。すべてが完璧に満たされている。 ものがなくたって幸せ。悩みだらけでも幸せ。いろいろうまくいっていなくたって幸せ。 もう一つ大切なこと、この幸せを感じているのは「個」ではない。
*くり返し触れたいメッセージ* 鏡みたいに生きる。つねに移り変わっていくようすが鏡に映るっていうただそれだけのことがもうすでに「満ち足りちゃっている」 それが自然の摂理にかなったこと。本来の生き方。 これこそが「全体」と一つになった生き方。 『バタ足ノンデュアリティ』
*くり返し触れたいメッセージ* ただ見えていること、それが完璧にそのまんまに映っていることを「満ち足りている」という。 ここでいう「満ち足りている」というのは私たちが勝手に想像する自分の都合が満たされることではない。すべてが完璧に起きているということ。
*くり返し触れたいメッセージ* どこまでいっても満足に達しない。なぜかというと「私」が望みをかなえる云々という世界は、ものが二つあって、つねにそれを比較している世界だから。 絶対に満ち足りることのない世界で、いつか満ち足りることを夢見てる。 『バタ足ノンデュアリティ』
*くり返し触れたいメッセージ* 私たちは徹底的に受け身。それが最高に心地いい。なぜならそれがもう奇跡のように完璧だから。 思考も何もかもが自然に起きている。 『バタ足ノンデュアリティ』
不用品の処分が苦手だ。それを持ち続けなくてもいいのに、ただ面倒なだけ。 「物を捨てないと開運がやって来ないよ」にはもう惑わされない。やりたくなったらやる。どっちでもいい。 そろそろ冷蔵庫の掃除をしないとなと思っていると、水をぶちまけて掃除をする羽目になることはよくある。不思議。
*くり返し触れたいメッセージ* 物体があるとかないとかはすべてあなたの中に湧きあがったときのみ存在する。 見えた、聞こえた、におった、味わえた、触れた、思った、そのときにのみ存在する。それなのに、人はわざわざ「記憶」を使ってそれがあるように錯覚する。『バタ足ノンデュアリティ』
*くり返し触れたいメッセージ* 「対象」はどこにもない。「向こう」はない。ぜんぶあなたの中。こっちだけ。 ぜんぶあなたの中で起きている出来事。あなたの五感が感じ取った“感覚”。だからあなたがこの場でいきなり眠ってしまえば、その瞬間にすべては消える。『バタ足ノンデュアリティ』
*くり返し触れたいメッセージ* すべてはただ起きている。そしてすべてが非の打ちどころもないほどに完璧である もともと「自分」なんてどこにもなくて、体は「全体」といつも一体となってただそのように活動しているのに満足できない。『バタ足ノンデュアリティ』
今年の初めに金森将さんを知って、真実の追求より大事なものがやっとわかりました。 『バタ足メッセージ』金森将 大事なのは、「知っている」ことではなく、それが、あなたのなかに「しみこんでいる」かどうかです。「しみ込み」に欠かせないのが、メッセージに「くり返し触れる」ということです。