昔の美徳と近代性の使い分けのたちの悪さ
勉強は一心不乱に、目標に向かって、感謝の気持ちを忘れずに苦労してやるものという美徳が、日本には顕著にある。
他の国にも勿論あるが、日本はこの傾向が強い。
そして、不思議なことにこの国の人々は、いくら結果が出ようとも、必死に楽しんで習得したものは激しく軽蔑する。
国民性なのだろうか。
痛い思いをしながら頑張って結果が出ない人、もしくは羽生選手のように苦労を乗り越えてようやく出した結果が大好きなのである。
しかし、考えてみよう。
自分がレストランのお客になって5000円のコースを奮発して注文したとしよう。
30年修行して、苦労に苦労を重ねてもらっても、残念ながら5000円の価値がない味と判断すれば、そこにいくことは多分ないであろう。
しかし、3年修行したシェフの料理でが8000円の味であれば、7000円出しても得した気分になりもう一度行く気になる。
シェフの人生に関してはシェフの問題なのであり、お客は料理とサービスを味わいにレストランへお金を支払っているのである。
オーケー。何歩か譲って、苦労している人を育て応援しようというという店があっても悪くはない。
では、その周りにいる人がその人をどうフォローをするかを観るのも客にとっては面白いものである。
石の上にも三年である。見守ってあげよう。
そういう野球チームをお客が育てるようなお店があっても面白いではないか。
日本において問題なのは、結果至上主義とプロセス至上主義を自分の都合によって使い分ける方針の無い経営者である。
困っているのはよく分かる。
しかし、常に長い目で見よう。
この長い目に対するセンスが圧倒的に欠けている。
これが我々の人生を混乱の多いものにし、難しいものにしている。
我々はまだ原始時代の人間と同じレベルの発達の人間である。
農耕、漁業で生きてきた自然と生きてきた人間がギリギリなのである。
これ以上、スピードを速めるとどんどん人間が壊れていくことは当たり前である。
全体を見る人は数字を見るのを一度止めて、その先に人間がいることをしってから多くのことを判断してほしい。