見出し画像

わたしが死んじゃった日

割引あり

 昨年の11月11日、私はポッキーの日も忘れて、自宅で死のうとしました。それから一年経って、あの時のことをそろそろ言語化できるかな?と思い、noteを開いた次第です。

 昨年の私は社畜でした。でも仕事は割と楽しかったです。好きな仕事だったので。まあそれ以上のストレスもありましたが、なんかがんばれちゃってました。その日は仕事で多少嫌なことがあったものの、まあ、明日も行くかくらいの気持ちで帰ってきていました。
 ルームシェアをお互いの未来のことを考えて、丁度、一度解消し、それぞれ引っ越そうと準備をしておりました。そのことで親とも色々あり、いつもなら流せることが、その日、私は大泣きするほど、電話越しの母に何かを訴えていたことを今でも思い出します。
 でも不思議なことに、次の日のお弁当を作っていたし、私も次の日会社に行くつもりでした。なのに、私は電話を切ったあと、もう死ぬか、とあっさりと決めました。泣いていて、少し思考はぼんやりしていました。お酒は一滴も飲んでおりません。元々うつ病と10年の付き合いはあったものの、私は一度もOD(薬を過剰摂取すること)をしたことはありませんし、OD自体にも否定的でした。そして10年鬱と付き合っていましたが、全く死にたいと思ったことはありませんでした。
 うつの症状は様々あり、私はただただ生きるのが辛いタイプで死にたいという希死念慮はないタイプの人間でした。

 しかし、その日は電話を切って、よし、死ぬかと。一人でスッと決め、もらったばかりの1ヶ月分の薬を、一気に飲み干しました。最初はほんの少し怖い気もしましたが、10袋分ほど飲んだらもう引き返せないし、思ったよりも苦しくなさそうだから、と一気に残りを飲み干しました。ざらざらと喉の奥に薬を流し込むのが、我ながらうまいなと思いました。(絶対に真似しないで下さい)

 意識が混濁してる中、せめても長い付き合いのフォロワーさんに挨拶をと謝罪のツイートをしましたが、全く言葉になっておらず、ここで、異常に気づいてくださった方々から大量に心配の連絡をいただきました。(本当にその節は失礼しました)それから家族仲があまりよくなかったので、家族と、特に疎遠だった姉に、普通に生きられない人生で申し訳なかったこと。普通の娘に、普通の妹になりたかったことを書き綴っていました。所謂遺書です。私の渾身の遺書はなんと同居人がパニクって入院して片付けた際に、他の書類にまとめられて、なんと後日読まれないまま見つかる自体に自分自身で少し恥ずかしくなりました。

 遺書を書いた後、私はクローゼットの角で泣いていました。最後にしておくことはないかなと混濁した意識の中で私は、着替えなければ!と思いました。寝巻きですっぴんのまま、死にたくないという私なりの美意識があったようです。私は一番お気に入りの祖母のアンティークのブラウスをつけて、せめてもの口紅をつけて、そのまま布団に倒れ込みました。

 その日、私が死のうとした日の記憶する限りの出来事です。

ここから先は

1,933字

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?