夏休みの皆さんへ
夕方ごろになると、すっかり空気の感じが和らいだように感じます。
日中はまだまだ令和とかいう元号のスットコドッコイ野郎が気温調節を覚えないばっかりにアホほど暑いとは存じますが、皆様どうお過ごしでしょうか。
何、ああ、お盆、夏休みですか。
そうですか……。
さて私のnoteは原則R25としておりますから、学生さんが読むことは想定しておりませんが、どうにも、夏休みだからという理由なのか、想定を超えたずいぶんお若い方がチラッとお見えになったように思います。十代の学生さんが読んで面白いものは書いていないので、大人になったらまたきて欲しいのですが、まあ来ちゃったもんは仕方ありませんから、夏休みの宿題の話でもします?
そういえば今の子の宿題事情ってどうなってるの?
姪っ子と甥っ子が宿題やってる気配感じないけど宿題あんの?
ちなみにミズノさんはお育ちとおつむの出来がアホボケカスのハッピーセットなので、小学校・中学校の夏休みの宿題は美術と自由研究しか提出しなかった上にそもそも週に3日くらいしか学校行ってませんでした。別に法に触れるような悪事は働いておりませんが、友だちと川の様子とかを見にいったりモグラの巣がいくつあるのか一緒に数える方が楽しかった。あと引退した小学校の先生が飼ってるよくわかんねえ雑種の犬の散歩をするのが楽しかった。多分私より頭のいい犬だった。あいつ絶対ひらがな読めたもんな。
⬇️ モグラの巣を数えていた頃の様子
そういった感じで夏を過ごした結果がこういったザマ仕上がりよ。
おすすめはしません。
無理する必要は全くありませんがたまには学校にも行ってみましょう。もし楽しければ毎日行っても誰にも怒られません。現状毎日楽しく行ってる子はその調子です。暑いから気をつけてね。
無理なら全然行かなくても友だちはできますし、大人にもなれますし、就職もできますし、納税もできますし、奨学金の漬物にもなれますから心配ありません。日本ゆとり教育に対する敗北の申し子、アイアムミズノさんでもなんとかなっています。なってる、全然なってる、全然大丈夫、超全然なんとかなってる、いけてる。ギャルのマインドを失わず乗り切ってる社会人10回目の夏のお盆は全滅ですが全然大丈夫です。
なんだっけ、宿題、そうですね、覚えている限りでは他に読書感想文とか主要科目のドリルとかがあったような、なかったような。お子さんがいるフォロワーさんの記事を拝読する限り、大体の学校で主要科目のドリルはあるようです。
もうそれすら曖昧なくらいですから、如何に夏休みの間そのへんをプラプラほっつき歩いてたか推して知るべし的アレなのですが、そういえば、作文コンクール的なものはあるのかな?
テーマを絞って書くタイプのやつ。
そもそも400字詰の原稿用紙に書く型式も残ってるのかな。wordで提出とかタブレット授業が進んでデータで提出になってるのかな? もしそうならスタイリッシュでいいですね☺️
テーマ、たとえば『夏休み』とか『海』とか『将来の夢』とかそういう類の。
この国は今から80年くらい前のこのごろくらいに敗戦しているので、『戦争』とか『平和』がテーマになったり、まだしてるのでしょうか。
まだ、つまり、私が義務教育を受けていた頃にもありました。
多分こればっかりは自治体によるかとは思いますし、ウクライナとロシアがまだやってるので、逆に何らかの配慮によってそういったテーマは取り扱わないかもしれませんが、少なくとも私の頃にはありました。15年以上前のことです。もう少し年嵩の世代のフォロワーさんたちの頃はメジャーだったかもしれません。
◇ ◆ ◇
私自身の思想や価値観として、原爆やら敗戦やら憲法やら、そういったワードには全然ピンとこないし、特にどうといった思いもありません。興味がないといってしまうと冷たすぎるかもしれないし、日本に住む以上無関心ではいけないよとお叱りを受ける可能性もあるけれど、うるせえ知るかボケほっといてくれが本音です。
なぜか。
知らないことだから。
実際に体験したことでなければ、私は主張したい意見に骨格を持たせることが出来ないから。全くの他人事になってしまうから。
薄っぺらい話はしたくないし、聞きたくもない。
セレモニーのたびに、実に沈鬱なしたり顔でなんらかの政党の批判や思想の批判をする人々の、ペラッペラのツラを拝むのは、時間の無駄だから。
あの手合いは、自分の頭で考えて生きられないから、どうにも薄くて軽い。
多分食べたら砂の味がする。
自分の頭で考えられない人間の瞳は薄い。
スカスカの野菜みたいなボンクラが、さも自分は戦争を体験しましたとばかりに『戦争反対』と交通の妨げをしながら喚いている。みんな同じ顔をしているから、見てみると良いです。スケッチをするのも一手だと思います。分かりやすいから。
孤独な人は悲劇に群がるのが好きなのだと体感できると思いますよ。
あの人々は、悲劇が大きければ大きいほど喜ぶ。
唇の下がった、誇りのない下品な横顔をして。
私が連中のやり口で気に入らないのは、もうヨボヨボの、本当に戦争を体験した超高齢者を引きずり出して、主張のダシにしていること。
クソ暑い中、右も左もわかっていないような小学生くらいのガキに、親が吹き込んだであろう政党の批判をさせていること。
バカが。
考えろ、自分の頭で。
戦うなら、自分達で戦え。
年寄りと子どもなんかを使うな。
卑怯者ども。
どっちも涼しい部屋においてアイスでも食わせておけよ。
巻き込むな、バカが。
子どもから考える機会を奪うな。おもちゃにするな。マスコットにするな。
ただ、難しい点があって、誤解をして欲しくないのが、何らかの主張をすることについての批判をしたり、反戦運動自体の否定をしたいわけではないということ。
たとえば自分の親族に、戦争を体験した人がいて、話を聞いて、他人事ではないぞと感じて、自分の頭で考えて自分の意思で『今こそ平和について考えなくてはいけない』や『憲法のあり方を見直したほうがいい』や『国際社会に訴えかけなくては』などの主張にたどり着いて、それで行動を起こしたりすること自体は、すごいことだと思うのです。
私にはできない。
誰かを慮ることを原動力にした主張ができる人は、すごいと思う。
自分の意見に骨格を持つ人は、変な行進や交通阻害、ヤジ飛ばしなどの明らかに誰かの迷惑になるような運動はしない。自分の意見がまだ未発達な子どもや、超高齢者を巻き込んだりもしない。正しく、きちんと、正面突破で伝えるべきところに意見している。ディベートで一番敵にしたくないタイプの頭のいい人たちとすれば伝わりやすいでしょうか。
すなわち、舌鋒が抜群の人々。
意見が違う人、主張が異なる人がいたとして、でも、その人自身のことを嫌いになるとか、付き合いを辞めるとか、それとこれとは違うのです。
価値観が違ったって、性別が違ったって、信じるものが違ったって、生まれた国が違ったって、自分で考えて選んで生きている人とは友だちになれる。場合によっては、運が良ければ、生涯付き合うことになるかもしれない。
でも、自分の頭で考えて、自分で生きない人は好きでない。
いつでも誰かのせいにしたがる人ほど下劣な存在は他にない。
私の人生のどのパートにも必要がない無価値そのものに、関わりたくはない。
私だって、戦争はよくないものだと思います。
しないならもちろんしないほうがいい。
現代のこの快適な生活が送れなくなるなんてごめん被る。このクソ暑い中、冷房の効かない焼け野原で暮らすことになるなんてやなこった。
私は甘くて冷たいスイカが好きですから、それが食べられなくなるのも嫌。
戦争なんかごめんです。
これが私の『戦争はよくない』の理由です。
スッカスカでしょう。自分のことしか考えていません。
自分のことしかわからないから。
でも、もうちょっとまともに『戦争反対』と言える人はたくさんいるはず。
それなのに世界各地で戦争とまではいかなくともあっちこっちで小競り合いをしているのはなぜなのか。今で言えば、ロシアが巨悪のように報じられたりもするけど、ウクライナが全く一遍の曇りなき白なのか。Zelenskyy 氏は残念ながら信頼に足る人間だとは思えない。Putin 氏に肩入れする気もないけれど。
本当の部分なんかは何も分からない。
私たちは現場にいない。小さな島国で、小さな画面から、燃える大陸の様子を『まだ燃えてる』と見ているだけ。
日本人ならヒロシマ・ナガサキを忘れるなと言われたこともあるけれど、それなら Remember Pearl Harbor だってそう。1941年、戦艦アリゾナの撃沈で1177人が亡くなったことを、日本人はあまり話題にしない。そりゃ、アメリカだって怒る。いや平和式典には暑いけど一応来いよ、とは思ったけども。
今年の4月に、Louis Anthony Conter(日本語読みをすると、多分ルー・アントニー・コンターさん)が102歳で亡くなったけれど、彼を知っている人がどれだけいるのか。反戦カードを掲げる人に問いたい。
あの場にいた人が、実際に体験した人が、国内外を問わずどんどん亡くなっていく。死んだら終わりです。生きている間に、聞けるだけ話を聞くべきだった。
せっかく戦争が終わったんだから。
私なんか第二次世界大戦時にバチクソにやりあった国の連中にデスクを取り囲まれて、とんでもない爆弾2発も落としやがった国と、世界中と確執のある国の言語を使ってヘラヘラしながら『あつまれどうぶつの森』の話してる。
戦争の話と宗教の話は会社ではもちろんしないけど、でも、爆弾落とされて死んだ私の遠い親戚たちがこの光景を見たらどう思うんだろう。
時代は、随分変わったんです。
絶対に、良い方向に。
私は1993年生まれ、元号にすれば平成5年生まれですから、終戦してからですら大体50年くらい経過した世界です。
私にとって身近なものは、戦争よりも、阪神淡路大震災と東日本大震災。
広島に落ちた原爆で跡形もなくなったという会ったこともない親類や家のことはどうとも思わないけれど、震災に係る話は苦しいというか、なんというか、適切な日本語を見つけられないまま考え中の状態でいます。
これら災害についてのなんらかの主張をせよという課題に対してであれば、私は真正面から立ち向かって意見を論ずることができる。実体験を根拠に、具体的な主張ができる。
それで、前向きな話をしたい。
前向きに、技術の話をしたい。
夏休みの作文課題に、もし『戦争』の他、『災害』というテーマが与えられているのだとしたら、私は、そちらを選びたい。それで、被害の規模や亡くなった人々への追悼よりも何よりも、技術の話がしたい。
自衛隊の救助技術についてもそう、道路修復技術についてもそう、原発についてもそう、処理水についてもそう、福島の美味しい桃やお米についてもそう、地震の予測アラートについてもそう。ありとあらゆる種類のボンクラから死ぬくらい叩かれて、表立って称賛してくれる報道なんかないのに、立ち向かった技術班や人間がいる。
その人たちの話をしたい。
その人たちが、きっと、未来のために一所懸命に取り組んだ技術の話がしたい。
私はその人たちの味方であり続けたいから。
今もなお、南海トラフ大地震に係り、プレートのひずみの監視が行われていて、臨時情報も発表されました。(⬇️は気象庁の公式ホームページ)
つまり、対策が具体的に取れるようになってきたということなのです。
必ずしも『今から正確に5分40秒後〇〇に最大震度7の揺れが発生します』ということはできません。その技術はまだ私たちの世界にはない。そこに向かって日々積み重ねている人々がいることは確かだけど、まだ、きっと、もう少し未来。
この国は戦争をしないと掲げている以上、心配をして備えを取るべきは、必ず起こる震災についてのはず。
一生をかけて技術と研究の積み重ねをしている人たちが、未来のその日に間に合うかどうかは、誰にも分かりません。
誰にも分からないけれど、そういう人たちがいて、なぜか公に報道されることがほとんどないことは事実であって、誤解を招く話ばかりが一人歩きをしてしまう。
なぜか。
何度も何度も書いているけれど、自分の頭で考えられない人がいるから。
おかしいな、どうしてだろう、から先を、自分から明らかにしていかないと、瞳はどんどん薄くなる。悪い誰かに食い散らかされてしまう。
幸いなことに、今はちょっとスマホの検索マークにワードを入れたなら、いくらでも情報が出てくるようになりました。
何が本当で、何が嘘なのか。
取捨選択をするためには、訓練が必要です。可能な限り若い頃から。
夏休み中の若い人々、課題に取り組む際、確かな情報を得ようとする際、まさか個人のブログや出典が不明瞭な情報ばかり書いているベンチャー企業のサイトなどはご覧になっていないでしょう。
まさか、査読システムのない雑誌に投稿されたような、どうにも怪しい論文なんかを根拠にして、何かの感想文や効果効能を書いたりなどしていないでしょう。万が一にでも、どきっとしたら、どきっとしている内に引き返しましょう。そのまま進んでもいいことはありません。
公的に発表されているものが必ずしも絶対の正確性を持っているとは言いきりませんが、少なくとも学生の課題として与えられる限りの範囲についてであれば、まず、公的機関が発表している情報を根拠にしましょう。出典もあります。書いた人の名前、所属も確認しましょう。
職業名や卒業校はその人を構成する要素に過ぎませんから、信じる根拠にしてはいけません。時々、異様に肩書を盲信する人を見かけますが、その人の瞳は薄いどころか無色透明なのでしょう。網膜が透けて見えらい。
どんなに立派な大学を出ていても、どんなに立派な職業に就いている人であっても、その人の瞳は極めて薄いかもしれません。でも、肩書きだけでは分からない。
具体的に言いましょうか。
東大首席だろうが京大首席だろうがハーバード大首席だろうが医者だろうが弁護士だろうが教師だろうが、どうしようもないボンクラもいるんです。
だから、妄信はしないで、怯まないで、自分の頭で考える習慣をつけて。
自分の頭で考えて、自分の意思で選んで、できれば体験をして。
あなたの瞳を、今よりももっと、どんどん色濃く美しいものにして。
私の世代は、言葉を選ばずに表現すれば『踏み台』です。
今は近代史稀に見る、急激な時代の変化の過渡期だから、信じられない速度でみるみる価値観が変わっていく。あと30年もすればあらかた落ち着いて、今みんなが悩んだりモヤモヤしていることがいくつかは解決しているはず。でも、その頃、令和の現役世代は宙ぶらりんになっている。まあ宙ぶらりんというのも遊園地のアトラクションみたいで楽しそうで結構なことですから、いいのですが。無理は言わないけど出来れば安全バーはくれよ。
現在は小学校生活大満喫中の姪っ子や甥っ子と同じく、美しい瞳をした人々をたくさんみかけます。新しい価値観の中ではきっと、自分自身に軸を根差すことこそがマストなのでしょう。
だからこそ、そういう人々が、これからどんどん知識や体験を積み重ねて、自分自身の選択を積み重ねて、いつか必ず、夏休みの作文課題に『戦争』も『原発』も『災害』も掲げられない未来に辿り着いてくれることを信じています。
どうか、よい夏休みを。
踏み台ミズノさんは、元気いっぱい、お盆全出勤して納税でもしますから。
20240811_mizuno.
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