【🆗/R15】 ごっこあそび

　吉岡健一の『イヤな予感』はよく当たる。
　特に妻の路海については、なお当たる。

　悪い意味ではない。
　事故や怪我、病気の類でもない。気持ちの振れ幅が大きく、心の位置に上下のある女性だが、ここ最近は落ち着いて、そこそこ元気にしている。調子の良い日はあれそれと興味を示して、うろうろちょろちょろ、楽しそうに暮らしている。
　なによりだ。
　ねえねえ吉岡、あれはなに、これはなに、あそこ行ってみたい、あれ食べてみたい、それ欲しい、あれやりたい……ついつい、甘やかしてしまう。叶えられることは、なんだって叶えてやりたい。かわいいロミ子。

　ただしかし、いや『しかし』とすべきではないかもしれないが、知りたがるのは夫婦生活の仔細、要するに性的なことであるパターンもある。
　吉岡健一の、かわいいロミ子についての『イヤな予感』が当たるのはこの点だ。

　不遇な生育環境にいたせいで、正しい知識や経験を得られないまま大人になった。基礎の矯正には根気が必要だった。優しく頼もしい年上の女性たちの協力を得て、この頃やっと、必要であればためらわず婦人科にかかることは正しい判断で、恥ずかしいことでもなんでもないと理解し、ようやく月経や『女性であること』を憎悪しなくなった。そのくらいには基礎知識が不足していた。

　だからなんでも知りたがる。
　地道な努力の甲斐あって、路海は夫を、性的な意味を含めて信頼するようになった。懐いてなんでも聞いてくる。断っておくが決してそういうプレイではない。
　隠語でも猥語でも知りたいならば構わない。体位だって別にいい。知りたきゃいくらでもやってやる。
　困るのは……

「ねえ吉岡、ねえ見て！　すごい、ネットにね、すごいのあった。ほらこれみて、すごい、『奴隷誓約書』っていうのがあった！」

　……こういう時だ。

　人間本当に困った時、自然に頭を抱えるように出来ているらしい。
　大きな目をきらきらさせて部屋に乗り込んできたかと思ったらこれだ。ご丁寧にプリントアウトまでしている。仕事ができる。いやそうではない。違う、ロミ子、そうじゃないんだ。

「……。」

「吉岡、こういうの好き？」

　インターネットのどこの海辺で拾ってきたのかは分からないが、大げさな一枚だ。世の中は広く、SM愛好家たちの中には書面を絶対とする者もある。吉岡自身、ある程度市民権を持つ表現をすれば確かに sadist 、正しい表現をすれば圧倒的な dominant の男性ではあるが、この手の書類には拘泥しない。書類など、意味がない。支配被支配の間柄においては、支配する側が全てなのだ。それをいちいち紙にしてやる義理もない……と、こういった具合である。
　もちろん妻に対して彼の性癖をぶつけることもない。それはそれ、これはこれだ。だからこそ吉岡健一の沈黙は長かった。

「……。そうね……分かった。ちょっと待って。そう……ちょっと違うな、ロミ子。ちょっと違うんだよ。おまえね、どこで拾ってきたのこんなの。え？　変なサイト見ちゃだめだよ。変なことしか書いてねえんだから。」

「でもこれ吉岡好きかと思ったの。SMのお店だった。」

　なるほど、コア層向け風俗店のホームページを見たようだ。ひと回りほど年下ではあるものの、路海は妻であって娘ではない。何を見ても構わないといえば構わないが、時々危なっかしいことをする。気が気でない。

「すごいの書いてる。『性奴隷〇〇ふにゃふにゃ、以下奴隷はご主人様に対していかなる場合も奴隷として絶対忠誠を誓うものである。』だって。ワア……」

「よせ、もう。変なもん持ってきやがって。ロミ子、俺な、別にこういうのは好きじゃないよ。」

　やれ人権を破棄するだの、主人の前では首輪だけをつけて裸で生活することを誓うだの、体を自由に使われることを望むだの、めちゃくちゃな文言が並ぶ紙を取り上げる。好きでやっているカップルが好きに取り交わす分には好きにすれば良いものだが、路海が真剣に読む必要はない。変な想像をしてひどく落ち込むに決まっているのだから。
　現に、既に『叱られた』と思い込んでしょぼくれている。ちょっと小突けば泣き出すだろう。光の入り方によっては時々鮮やかな緑色にチカッと輝く珍しい瞳に涙がいっぱい満ちて揺れ、そうされてしまうと、吉岡はどうにもまったく弱かった。

「ああ、違う。ロミ子、怒ってないよ。な、違うんだって。」

「好きかと思ったの……」

　ぽろ、と頬に涙が滑る。
　かわいそうに。本人なりにいろいろ気を回したことはよく分かっている。
　ベッドに呼んで抱きしめた体が柔らかい。髪の毛や肌からやさしい匂いがする。たとえばこの体を全く好きに蹂躙して構わないと言われたならば、喜ぶ男の方が多いだろうが、吉岡にとって路海はそういう粗末な存在ではないのだ。

「俺の趣味じゃないけど、ごっこ遊びくらいならちょうどいいと思うよ、ああいうのは。」

　路海がちらりと視線を遣すから背中を撫でてやる。目は口ほどに物を言う、を彼女にさせると分かりやすい。長い睫毛の影が落ちる大きな瞳の色は明るくて、心の深くにそっと隠し込んでいることも、しばしばあっさり浮かんでしまうから。路海は masochist でも submissive でもないが、明らかな腕力差を楽しんだり、膝の上で軽く尻を叩かれてみたり、その程度の被虐なら好むことを知っている。その延長で、ごっこ遊びをする口実が欲しかったのかもしれない。

（かわいいやつ）

　セックスをする前のいつもの癖で、枕をいそいそ抱えこんでうっとりする路海のパジャマを脱がせてやろうとし、どうせなら、と思った。

「おいロミ子、ごっこ遊び、するか？」

「んー……」

「どっち？」

「いいよ」

「よし、じゃあ自分で『全部脱げ』。そこに立って」

　枕を取り上げ、ベッドから追い出して立たせ、吉岡自身は寝そべったまま眺める。路海は少しおろおろしたものの素直で、紺色のズボンをするりと脱いだ。綺麗な足。丸い小さな膝頭。太ももがつるつるしていて若いなあと思う。今日はオレンジ色のショーツだ。見覚えがある。先日買って帰って、嬉しそうに見せてくれた。リボンは緑なの、みかんみたいで、かわいいでしょ、とかなんとか。一番可愛いのはおまえだよ、ロミ子。

「上も……？」

　可愛いと思いながら意地悪をする罪悪感こそあるが、脱げという指示はもう出した。二度言ってやる必要はない。
　沈黙で応えると路海は悲しげに上着のボタンを外して脱ぎ、左胸を抑えた。過去に暴行を受けた際、靭帯を損なっている。ブラジャーをしていないと、右胸に比較して明らかにだらりと垂れ、彼女はそれをひどく気にしていた。
　どうしても抑えていたいのだろう。吉岡だってもうこのあたりでやめてやりたいが、中途半端だ。一瞬迷った間に、路海は片手で大儀そうにショーツを脱ぐ。かわいいでしょ、と自慢げだった繊細な布一枚が取り払われる。すっかり脱毛されて何もない、ふかふかした股間が綺麗だ。肌が白いから、性器まわりの色素の濃さが目立ち、非常に艶かしい。今日は緊張してほのかに赤い。路海は体質的にとても濡れやすく、指でそっと広げれば、漏れ出すくらいになっているに違いなかった。あたたかい太ももの内側に、透明な体液がとろりと伝い出して流れる様子を、間近で何度も見た。何度見ても、かわいいなと思った。

「脱いだ……」

「……」

　残念、まだ残っている。
　左手の薬指に輝く結婚指輪。
　吉岡は『全部脱げ』と言ったのだが、言うことを聞く様子がない。

「遅いな」

　路海は困惑した様子だった。ごっこ遊びなのだから胸を抑えていることくらいは言及せず、大目に見てやることにしたが、指示に従えないというのはいけない。

「時間切れ。さて……なんて書いてあったかな。『万一、ご主人様の意に反するようなことがあった場合、どのような懲罰も頂戴いたします』、なるほど。書いてあるなら仕方ないよな。鞭でもするか。靴べらあったろ、持ってこいよ」

「やめる、やっぱりもうやめる。よしおか……」

　甘えて呼んでくるが無視をする。顔が真っ青だ。ああ、ぞわぞわする。
　路海は泣いている時の方が、慈悲を乞うている時の方が性的だ。だから危なっかしい。ずっとそばに置いておきたい。そういうふうに思わせる。おそらく、自分のような変態野郎でなくても、ふと嗜好を傾かせるきっかけになるくらいには、路海のおろおろする姿は危ないのだ。
　両手首をひとまとめにして強く掴み、ぐいっと引き寄せる。

「全部脱げって言ったんだよ、俺は。指輪もそうだろ。これも外せ。どっちがいい？　外すのと、靴べらで打たれるのと、おまえはどっちがいい？」

　小さな石が光る、号も小さな結婚指輪。路海が慌てて左手を隠す。一緒にデザインを決め、内側に入籍日を彫った、大切な指輪だ。

「外さない？　ああそう。」

「……」

　あ、やりすぎた。
　と思った時には大抵もう遅く、今回も見事手遅れだった。路海はしゃがみ込み、肩を震わせて泣いた。胸を隠していた手は、指輪を守って頑なだった。部屋の角に逃げ込み、ぎゅーっと手を握り込んで開かない。

「ロミ子、ロミ子、嘘だよ。バッカおまえ……本気にする奴があるか。ごめんよ、ごめんね、ロミ子。な、取らないよ。つけてていいよ。ごめんな、取らないから。ぶったりもしないよ。な、しないったら……おいで、ロミ子、こっち見て」

　返事もしてくれない。
　吉岡は焦った。うなじや肩、背中にキスをしてご機嫌をとり、頬を撫で、肩を撫で、耳元に何度も『ロミ子』と囁く。　

「とらない……？」

「取らない。取らないよ。」

「おしり、叩かない？」

「叩かない。な、ロミ子、布団おいで。寒いだろ？　変な遊びなんかするもんじゃないなあ。おいで……」

　しょぼしょぼしながら布団に潜り込んでくる妻を抱きしめる。勃つものも勃たない。いや、勃つものは勃ったが萎れてしまった。それどころではない。　

「あんまり面白くなかった……」

「俺は寿命が縮んだ……」

　さっきまでの泣き顔はどこへやら、路海がへらへら笑っている。布団の中でもそもそ体勢を変えようとするから自由にさせると、仰向けになって、自分の胸の下あたりに手を組んで乗せている。左手を下にして。

「指輪、大事だから外したくないの。」

「うん。外さないで。嫌なこと言ってごめんなロミ子」

「ううん」

　じーっと天井の一角を見つめて、何か一生懸命考えている。なだらかな腹を撫でてやる。あたたかい。猫を撫でているときにも、赤ん坊を撫でる時にも、似たように『あたたかい』と思う。人間の女の腹というのは、どうしてこう柔らかく、愛おしいのだろう。男の筋張った、ごつごつした硬さからあまりにも遠い。ふわふわの腹。ちょっと強く押したらどこまでも手が沈み込んでしまいそうで、怖くて、撫でるくらいが精一杯の腹。
　路海は背が高い。極端に華奢な体つきというのでもない。それでも不安になる。

「奴隷の人は大変だね。」

　ぽつんと言う。

「吉岡は、許してくれるからいいけど、そうじゃない人もいるもんね。そしたら、いうこと聞かなかったら、ボコボコにされるんだもんね。おなか、パンチとかされたりもするかもしれないんだもんね……」

「ロミ子、怖いこと考えなくていいよ。そういうのが好きな人同士でやってるんだから、ロミ子が心配することはないからな」

「うん」

　納得したらしく少し笑って、枕を抱いている。

「『ご主人様』って呼ばないと怒られたりもするんだよね、きっと……」

　にこっとした唇の愛らしさといったらない。そういう趣味とはまた違うが、悪くないなと思ったところで吉岡もはた・・と納得した。

「ロミ子、おまえ、正直に答えろよ。さては『ご主人様』って言ってみたかっただけだね？」

　微かに頷いた路海が嬉しそうに、はにかみながら『そうなの』と呟くものだから仕方がない。その晩は呼び方ひとつで大層盛り上がった。

　ちなみに、妻についていかなる誤解も受けたくない堅実な男、吉岡健一は件の誓約書を火で炙って処分したのだが、そんな彼が『ねえ吉岡、ブラットテイマーって何？』と詰め寄られ、無事『イヤな予感』を的中させるのはまた翌月の話である。

（おしまい）

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