マンガと映画(スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け編)
最初に
この記事には「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」に関するネタバレが含まれています。
「スター・ウォーズ」最新作の何かに引っかかった
スター・ウォーズの3部作×3の最新作にして最終作「スカイウォーカーの夜明け」を観た。
ラストシーンを観た瞬間に思わずホロリと来たが、いや、待てよ……と崩れそうな涙腺が思いとどまった。何かが引っかかる。これは良い終わり方なのか。この映画は良かったのか。どこか納得できない部分があった。
「最後のジェダイ」は2回観た
(※この項においては「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」のネタバレがあります。)
前作「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」のぼくの評価は、こう。
プロットはクソだが、新しい時代を作ろうとする登場人物のキャラクター性、新しいジェダイに世代が交代するというテーマは一貫し野心を感じられる1作。
無駄なシーン、無駄なキャラ、興ざめな行動、あっけない悪役の退場、何も進んでない何も解決していない、あってもなくてもいいエピソード。「最後のジェダイ」を否定する人の言い分は、ぼくもわかる。
実際ぼくも最初観た時、あまりのプロットの粗さに驚き、怒った。
なのにぼくは「最後のジェダイ」を二度観に行った。
この際クソなプロットには目をつむる。レイが、カイロ・レンが、フィンが、ローズが、そしてルークが何を思い、何をしたかったのか。その感情だけを確認したくなったのだ。
すると、見えて来る。
何者でもないレイがフォースに目覚め、カイロ・レンの中のベン・ソロを救いたい気持ち。
父や最高指導者、そしてダース・ベイダーの影さえも振り払い、自分の時代を作りたいカイロ・レンの独立心。
ストームトルーパーであった過去から「自分」という個人を見出したフィンの無鉄砲さ。
そんなフィンを失いたくない、ローズの思い。
新しい世代に時代を託すルークの最後の戦い。
――もう、ルークの時代でも、ましてやアナキンの時代でもなく、これは新しい世代の、新しいスター・ウォーズだというキャラクター達の決意。
だからこそ「最後のジェダイ」のラストシーンでは、ハンガーで掃除をする何者でもない少年が、フォースの片鱗を見せた。
レイは誰の子供でもない、何者でもないただのレイ。
血に関係なく、誰でも人は、フォースを持っている――
「最後のジェダイ」と「男一匹ガキ大将」
このテキストは「マンガと映画」なので、「スカイウォーカーの夜明け」の前にマンガに関しても書いておく。
最近noteを読んでいて気になった記事はこちら。
ぼくは該当の「のぞき見ドキュメント 100カメ」を見ていないのだが、この中にこんな編集者の言葉が現れるらしい。
大体漫画ってファンタジー許されるの1つまで2つ目のファンタジーというご法度を使った上にしかも感情移入のポイントになるモチベーションの所にそれを置いてしまっているから非常に読みづらい 僕はやっぱりキャラクターの女の子のリアクションを見たいし主人公との会話を見たいし女の子との一番いいシーンをしっかりとした感情線と間尺でもって見たい それを直せるのであればラブコメを作っていい
この呪文の解説はネームタンク代表ごとう隼平さんの記事に任せます。
私が注目したいのは「キャラクターの女の子のリアクションを見たいし会話を見たい」「いいシーンをしっかりとした感情線と間尺でもって見たい」という部分。
つまりこれは設定云々よりも、登場人物のキャラクター性と、それによって生まれる他の人物との会話を見たい。それを読者が納得できる一貫とした感情の流れが必要だと言っているんだと思うんですよ。
「最後のジェダイ」はプロットはクソだが、キャラクターは一貫した感情と思いがあった。
これに似た感覚を、ぼくはかつてジャンプマンガの古典「男一匹ガキ大将」で感じたことがある。
万吉一家を率いる主人公・万吉は、周囲の期待や子分達の期待に応え、大きな事を成し遂げなければいけない大事な場面において、よりによって「あゆみ」という女にうつつを抜かし、腑抜けにされ、何もかも捨ててあゆみと駆け落ちしてしまう。
少年マンガにあるまじき、責任放棄。女に逃げるというカッコ悪さ。
もちろんそれは読者だけでなく、子分達も「どういうことだ!?」と困惑する。
その落ちぶれた主人公の姿はけっこう長く続き、ほんと見てられない。
その展開は読んでてクソなんだが、自分の心にウソをつけない万吉の一貫したキャラクター性がゆえのムナクソ展開であり、逆にそのキャラクター性だからこそ、万吉はとある事件を経て、すがりつくあゆみを振り払い、一家の子分達の元に戻ることになる。
読者も子分達もよかったよかったと胸をなでおろす――
マンガの読者は、まず一番にキャラクターを感じ、楽しんでいる。展開や設定は二の次。一貫したキャラクターの感情をベースとして、その場その場のシチュエーションを楽しんでいる。
ここで話を「スター・ウォーズ」に戻す。
「最後のジェダイ」は、その場その場の状況(プロットの流れ)がクソでも、その場におけるレイ達、フィン達の行動や感情には揺らぎがなかった。
世代を超えて、自分達の時代を作る。もう、スター・ウォーズをスカイウォーカー一家の話から解放しよう。
ジェダイは、フォースは、何者でもない誰かに、等しくある可能性なのだから――
さて、「スカイウォーカーの夜明け」はどうだったか。
小さくきれいにまとめた最終章
(※この項は「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」のネタバレがあります。)
もうスカイウォーカーの時代じゃない。そういうテーマを宣言したはずの「最後のジェダイ」だったが、今回の「スカイウォーカーの夜明け」は、「スター・ウォーズはスカイウォーカー家の話でした!まだまだスカイウォーカー家の話、続きます!」という意味に取れるエンディングだった。
(というかサブタイトルからして、それを予感させる書き方だ。)
これまでシリーズを通して観て来たファンが「こうあって欲しい」と願うシーンのオンパレード。ハン・ソロの登場、パルパティーンの再来、キャリー・フィッシャーの出演、勝利、凱旋、そしてルークの故郷・タトゥイーンの情景――
そりゃあファンはうれしい。これまでの集大成だ。長い長い歴史の出発点に戻ってきて、話は終わる。そんなシチュエーション、見たら涙腺が崩壊しかける。
でも、ふと考える。「スカイウォーカーでもない、何者でもない誰か」に等しく、フォースはあるはずじゃなかったのか。
それこそフィンもフォースを感じるようになった。もうスカイウォーカーだけの話じゃない。スター・ウォーズは何者でもない誰かが、ジェダイを継いで行く――そうだったはずの話のエンディングに、「私はレイ。レイ・スカイウォーカー」って何!? 結局そこに落ち着いちゃうの!?
これはもはや、スター・ウォーズシリーズの呪いだ。
若干のダイジェスト感はいなめないが、「スカイウォーカーの夜明け」の物語(プロット)はうまくまとまっている。伏線を回収し、これまでシリーズを観てきたファンがグッと来てしっかり泣けるシーンを用意して、シリーズの原点であるタトゥイーンで終わる。
こんなキレイな終わり方、当然合格点だ。
しかし逆にキャラクターに目を向けると、前作で提示されたキャラクター性やテーマがぼやけ、新たな時代を切り開くべきレイがスカイウォーカーのファミリーネームを名乗り、せっかくフォースに目覚めたはずのフィンが宙ぶらりんになってしまうという逆戻り。
結局、スター・ウォーズシリーズ3部作×新・旧・続、9本の映画は、パルパティーンに翻弄されるスカイウォーカー家の話だった。
続(Episode7〜9)は、「最後のジェダイ」でその家系の話から飛び出て新たな神話を紡がれる可能性があったのに、「スカイウォーカーの夜明け」によってその可能性を潰された。
このシリーズはパルパティーンとスカイウォーカー家の話なので、それはそれで正しい終わり方だが、新たな時代を作ろうというテーマを与えられたはずのレイが、結局パルパティーンとスカイウォーカー一家物語に組み伏せられてしまったというように見え、「最後のジェダイ」のテーマにグッと来た身としては、スカされた気分になった。これが「スカイウォーカーの夜明け」に引っかかった理由だ。
「スカイウォーカーの夜明け」を観て「最後のジェダイ」の評価が変わった
プロットはクソだが、キャラクターとテーマは一貫していた「最後のジェダイ」。
プロットは正解だが、キャラクターとテーマがブレた「スカイウォーカーの夜明け」。
ぼくにとっては、どちらも傑作とは言い難い。ただ、キャラクター性を重視する傾向にあるマンガ畑の人間としては、「スカイウォーカーの夜明け」を観た結果、大きな欠点がいくつもありつつも「最後のジェダイ」は良い映画だったと評価が上がった。それが最終的な結論になる。
「スカイウォーカーの夜明け」に関しては、少なくとも、少なくともだ。
「私の名はレイ。ファミリーネームはない、ただのレイ」
レイが最後、そう言ったなら。少なくともそのセリフさえあったなら、「スカイウォーカーの夜明け」を傑作と呼び、ぼくは最後泣けたかもしれない。
といったところで、漫画原作者の猪原賽でした。
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