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クリームソーダとことばと写真

写真家の幡野広志さんの展示「幡野広志のことばと写真展」で体験したことと、変化した自分の内面について書きました。

今の私は、写真を見て何を感じるだろう。
写真展へ向かう電車の中で、ぼんやりと考えていた。
写真で自分を解放できないものかと、もがき苦しんでいた頃を懐かしく思い出した。

幡野さんの嘘のない言葉を読むたび、そこにある「ほんとうのこと」をそのままの言葉で浮き上がらせて見せてもらえるその感覚を楽しむ。
そして、あらゆる角度から見ると、ものごとは全然違ってみえることを見せてもらいながら、私の視点も一緒になって回転するような面白さを体感する。
心の底から面白さが込み上げてくる。

私には写真のことは結局よくわからないままだった、という苦い感覚も、時間の経過で生々しさはなくなっている。
私が写真で唯一感じられたのは、自分の内面が動くときの心の感触や温度のようなものだけだった。

自分の心が動く場面の瞬間をカメラで捕える。
そのことに夢中になって、シャッターを切りまくるのはとても楽しかったし、面白かった。
でもそれを人に向けて発信していく強さが、私には決定的に欠けていて、心がくじけてしまう情けなさとともに、また殻の中にうずくまる自分は結局、うじ虫のままだと苦々しく感じた。

心が動いた瞬間を写真で切り取る楽しみだけは、時々、ひそかに続けた。
スマホのカメラで。
自分だけのために。

写真展を観て、その写真に心が動いて面白ければ面白いほど、自分にはできなかったこと、という悔しさのような苦々しい思いも根底には微かに流れていた。
悔しがるほどがんばっていないという恥ずかしさも感じながら、その部分はあまり見ないようにして、面白さ、楽しさ、美しさ、を感じている自分の心の動きに集中した。

併設されたカフェはスルーするつもりだった。
というのは、色々な食事制限で、カフェインや砂糖や乳製品を摂らない生活が当たり前になっていたから。
私が常時飲むのは、ミネラルウォーターか炭酸水くらいで、そこに何の葛藤も起こらないほど当たり前になっていた。

でも、会場にいるたくさんの人たちが、クリームソーダを楽しそうに手にしているのを見ると、私もその気分を体験してみたくなった。

展示を観て気分が高揚している勢いのまま、私は何も考えずにクリームソーダを注文した。

壁際のスペースを確保して、一人でクリームソーダを口にした。
緑色のシュワシュワの液体の上に浮かぶバニラアイスは、ほどよくやわらかくてクリーミーで、そのおいしさは想像を超えてきた。
そして気づいた。
私はクリームソーダを飲んだ(食べた?)のは初めてだ!
そんなことってある?と自分でびっくりした。
何度も見たことがあるから、その味を知っているつもりでいたけれど、それは想像したことがあるだけだった。
緑色のシュワシュワの液体をおそるおそるストローで吸い込んだ。
これも想像していた味と違って美味しくてびっくりした。
メロンシロップと炭酸だけの味ではないように感じた。
アイスと一緒に食べたり、溶かして混ぜたところを飲んだりもできる!
そんな、いろんな楽しみ方ができるなんて。
なんてワクワクする飲み物なんだ!と感動した。
美味しくて楽しくてうれしい。
こんなに楽しめる飲み物だったなんて!

そんなことを一人でかみしめながら、展示を楽しんでいる人々の様子を眺めていた。
たくさんの人で混雑している中で、幡野さんが仲間らしき人たちと楽しそうに話している様子も見えた。
幡野さんがいる。
この写真やことばを生み出した人を私は間近で見ることができて、なんてしあわせな空間なんだろう、と浸っていた。
話しかけてみたい、と、一瞬頭をよぎった。
でも邪魔になるような気がして、勇気が出なかった。

そんなことを感じながら、ぼーっと幡野さんを眺めていると、本を持った幡野さんともう一人の人が歩いてきた。

もしやサイン!?
そう思ったのは私だけではなかった。
あとをついて列ができはじめていた。
私は居ても立ってもいられず、自動的にその列に並んでいた。
並んだ途端、緊張で心臓がバクバクと暴れ出した。
何を話したらいいのかパニックになって、逃げたくなる。
でも逃げたら絶対に後悔する!と踏みとどまった。
こういう時、気楽に話ができたらいいのに。
私は極度に緊張してしまって、挙動不審になっていた。
私の順番が来た。
「おねがいします」と言う自分の声が、か細く上ずっていることに自分で驚く。
そんなに!?
幡野さんの言葉が好きってことだけ伝えよう。
写真が本業の幡野さんに?
そこまで頭が回らなかった。
私が言葉にできたのは、言葉の断片だけだった。
幡野さんの言葉が好き。
「嘘のない言葉」と言ったそのとき、一滴の水が湖面に波紋を描くように私の言葉が届いたように感じた。

私の中の何かが満たされた。
ありがとうございます、と言って本を受け取り、その場を去った。

反対の壁に向かって歩いていたら、急に熱いものが込み上げてきた。
涙が溢れてくることに自分で驚いていた。
これは何の涙?
全てが温かさで包まれるような不思議な感覚だった。

さっきまで、楽しんで見ているだけだった写真やことばが目に入るだけで、涙が溢れてきてどうしようもなくなった。
全てが幡野さんの世界に包まれている。
急に次元が切りかわったかのようだった。

私は自分が感じていることをもっと言葉で伝えてみたくなった。

葉っぱが重なり合うように、みんなが書いたメッセージが壁一面に貼られている。
私もそこにメッセージを残した。

クリームソーダを注文したこと、突然に出現したサインを求める列に並んだこと、自分の感じていることをメッセージとして残したこと、どれも想定外の出来事だった。

私はいつも自分の存在を消すように生きている。
透明のように生きている。
自分がもともと存在していなかったかのように、この世から消えることができたら、どんなにいいだろう、と夢見るように憧れていた時期がある。
自分が消えることを想像すると、少し呼吸がしやすくなって救われる感覚になる。
それは現実逃避だと言われそうだから、自分の中で密かに思いながら、生き延びた。
表面では普通に見えるように振舞いながら。
本当はバレているという感覚に怯えながら。

大勢の人の中にいても、誰も私のことを知らないことが私にとっては安全で、自由に動き回ることができる。

その日も、誰からも認識されないまま、自分の中の楽しみだけで自由に動き回り、その日を無事に終わる予定だった。

なのに気づけば、クリームソーダなんて目立つものを注文していた。
突然現れたサインの列に並んで、憧れる人と言葉を交わし、サインまでしてもらった。

そして極めつきは、わざわざ自分の想いを言葉にして書いて、メッセージまで残していること。
自分の想いを伝えたいという強い気持ちが湧いてきて、その想いに突き動かされるようにそのまま行動していた。

嘘のない言葉で語られる幡野さんの文章が、どれほどの安心感を感じさせてくれるか、そういう言葉をどれほど求めてきて、私にとってどれほど大切なものか。

自分の中の嘘の混じらない言葉をずっと探し続けて生きてきたことと重なって、その徒労のような人生の中で、大切なものを見つけられたように感じた。

幡野さんの写真とことばの中に美しさを感じることができてうれしかった。

私が求めてきたことは、こんなにも美しいことだったのだ。

クリームソーダの中には、美味しさだけではなくて、楽しさやうれしさまで含まれていた。
ただの飲み物ではなかった。

幼少期からの刷り込みによって私の中には、楽しさとセットになって罪悪感が埋め込まれていた。
友だちと楽しく遊んで帰ってくると、必ず不機嫌に私に当たる母親がいた。
まるで私が友だちと楽しく遊ぶことは、悪いことだと言われているかのような態度を毎回とられた。

市販のお菓子は、体に悪いと言われた。
面白い仕掛けがついたお菓子は、くだらないと一蹴された。

私はコソコソと隠れて、遊んだり楽しんだりするようになった。
それでも罪悪感はどこまでもつきまとってきた。
そしてやがて、遊ぶことも楽しむこともしなくなった。

クリームソーダを口にする機会は、これまでいくらでもあったはずだ。
でも、人がそれを注文しているのを見ても、自分とは無縁なもの、自分は口にしてはいけないものという風に自分から遠ざかり、別の世界の出来事を眺めているようだった。

それが急にグッと近づいてきて、何も考えることなく、口に運ばれた。

その瞬間、私は今まで、こんなにも美味しくて楽しくてうれしくなるものから遠ざけられてきたのだと気がついた。
そう、体に悪いとか、くだらないとか、遊びは悪いこととか、罪悪感を埋め込む言葉は、自由に楽しく生きることから遠ざけるための嘘だったのだ。

遊びを楽しむことは、私にとって何か特別で難しいことのように感じていたけれど、それは身近なところにあって、いつでも手を伸ばせば届くところにあった。

そう、クリームソーダを口にするだけでよかったのだ。
ついてきたおみくじには、こう書かれていた。

「ウソというのは、おもってもいないことを書くことです。」

はい。守ってます。


(おわり)


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