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英霊の言の葉 3 抜粋
靖国に祀られている英霊が遺した言葉を、一部抜粋して月替わりでご紹介。
表記は皆さまが読みやすいように、すべてかな及び漢字表記に変換し記載します。
弟に宛てた最後の手紙-靖国神社で待っている-
陸軍軍曹 大森 利秋 二十五歳 命
昭和十三年八月五日 中支・江西省金家山附近にて戦死
時候とは申せ暑いね。
かう毎日暑くちゃ、実際やり切れぬ。
どうだ、元気か。
毎日一生懸命働いている事と思ふ。
お前が働いているのが目にちらつく。
仕事も大事だが充分身体に気をつけてやれよ。
学校終へてすぐだからあまり無理すりゃ、毒だからなぁ。
兄さんもこちらに来てから一度病気にかかったが、又元の身体になった。
来る漢口の総攻撃には参加するので、部隊の全員非常に喜んでいる有様だ。
敵弾に倒れるのも男子の本懐だ。
喜んで死ぬる事が出来る。
お前達とも永久に会へることはないかも知れぬ。
俺達は東京の靖国神社が待ってくれているのだ。
二、三日中には〇〇に向かって出発する。
大分不便な所らしい。
無事にいても手紙等出されさうもない所だ。
この次の便りは名誉の戦死報か、漢口入城後だね。
吉報を待っていろよ。
利秋
七月十三日 中支にて
愛する弟へ
(この手紙の二十三日後に戦死、この手紙を受けた令弟も昭和十九年十一月戦死す。)
父の霊魂は九段坂の上から
陸軍歩兵曹長 久保田 武 三十三歳 命
昭和十三年七月二十二日 中支・双渓橋付近にて戦死
和子よ、父は君国のため喜んで戦場の露と消えました。
父は笑って死にました。
父がこの世に残す思ひは、唯々お前のことだけなのですよ。
父なき後は、母の教へに従ひ、立派な女性となり、若くしてその夫を失へる不幸な母を、幸福にして上げなければいけません。
父の肉体はすでに無く、父の顔は永遠に見られぬけれど、父の霊魂は九段坂の上から、いつまでもいつまでもお前とお前の母の幸福を祈って守ってをります。
お前の三歳の姿を、私の魂は抱き続けています。
再びいふ、母の訓えに従ひてよき女性となり、幸うすかりし汝の母への孝養を、汝の任務と知れ。
和子チャン
父
(徐州会戦にのぞまんとする時わが幼き児へ)
妹へ
海軍少尉 宮崎 勝 十九歳 命
昭和二十年五月四日 沖縄にて戦死
ヤスコチャン、トッコウタイノニイサンハ
シラナイダラウ。
ニイサンモ ヤスコチャンハ シラナイヨ。
マイニチ、クウシュウデ コワイダラウ。
ニイサンガ カタキヲ ウッテヤルカラ、デカイボカンニタイアタリスルヨ。
ソノトキハ フミコチャント、ゴウチンゴウチンヲウタッテ、ニイサンヲヨロコバセテヨ。
家族への訣別
従軍看護婦 錦織 美代子 十九歳 命
昭和二十年六月十六日 中支・武昌陸軍病院にて戦病死
お父様、お母様たちはもう老いさき短いですから、あまり無理をされないで楽しい余生をおくってください。
春子さんには随分心配かけました。
1番私の心残りになるのは姉さんのことです。
でもこれからはきっと良いことも続くでせうから、立派に元気を出して暮らして下さい。
浩ちゃんも、どうか立派な人になって下さい。
一生懸命勉強するんですよ、健ちゃんも、邦夫は今頃どうしているやら、生きて帰っても逢へないかもわからない。
いつかはきっと靖国神社で兄様といっしょに逢ふかも知れません。
どうか元気で戦って下さい。
お父様、お母様、姉さま、邦夫、健ちゃん、浩ちゃん、みんなさやうなら。
(遺書)
一輪の花
陸軍中尉 加藤 出雲 二十九歳 命
昭和十五年十月十七日 中支・獅子嶺にて戦死
一方は畑で他方は傾斜していて泥が深い。
道は悪い。
その畑を通っていたのだが、きれいな花が一輪泥の上に美しい顔を見せていた。
兵の将校がその花をよけて横の泥深い処を迂回して歩いていた。
花の上を踏んで歩く方が泥も少なく近道でもあるのだが、花をふみくだくに忍びなかったのだ。
次を歩いている男もそれにならって花をよけて通った。
次々に兵隊はわざわざ泥の道を遠廻りして歩いた。
部隊が通りすぎた後にはきれいな花が泥の上に浮かんでほのぼのとした美しさを見せていた。
行軍に疲れた時、実際ぬかるみ道は倍疲れる。
そんな時にさへも、たった一輪の花もふまずに通って行った兵隊の心情が嬉しいものだ。
(手紙の一節)
書き遺す言の葉
陸軍大尉 堀本 武男 三十五歳 命
昭和二十二年四月二十一日 広東流花橋にて法務死
物質と精神は後者を尊しとす。
今次大戦は、物質に破れたりと考へらるるも物質のみにあらず。
我が国は物質乏しきが上に、愛国心の崩壊しかけた国民はなかりしや、疑ふなり。
如何に物量多くとも、精神のともなはざるは恰も人造人間の如し、之に反して物量に加へて精神さへそなはれば鬼に金棒と云ふべし。
人の和も亦、物質によりて結ばれしものは弱く、心と心の結びは強し。
物質上の結合は物質なくなる時は解け易く、心と心の結合は、例へ物質を欠くとも解ける事なし。
此の事拘置所に来りてより、全く金もなくなりて後に於いて、心と心の結合せし人の和の強き事つくづく感じたり。
心の誠といふことは、最も大切なるを知る。
二十二年三月三十日
明治と昭和
陸軍中将 河村 参郎 五十二歳 命
昭和二十六年六月二十六日 シンガポールにて法務死
十月三十日(水)〔昭和二十一年〕
今日は教育勅語下賜の記念日である。
明治日本の隆昌と、昭和日本の敗北とを比較して見ると、聖帝の下に補佐の臣は皆、維新の艱難に耐へ抜いた熟達の士であり、忍ぶべきは忍び、立つべくして立つを誤らなかった事が、国家興隆の原動力であり、その後三台目にして夜郎自大、世界の大勢を洞察するの達眼なく、苦労知らずの坊ちゃん育ちが逆に国を誤ったのである。
将来の日本再建に於いては再三再四反省を要する点である。
今は英雄を待望するのではなく、民衆全部の修養を向上しなければならぬ。
国民全部が反省し、徒に政府のみに頼ることなく、自らを戒め、自らを充実することが先決とならねばならぬ。
その為には、国民教育が大切な事は勿論であるが、家庭的にも、社会的にも、個人の徳操を向上するために、一大国民運動を展開すべきではなからうか。
-以上 英霊の言の葉 3より-