碁盤の外には当然何かがある 「囲棋」の構造おぼえがき5
どうも囲碁アートの関です!
明日11月19日(日)は、
平井オープンボックスにてティータイム囲碁体験です!
15:00~16:00 3階で行います!
この見方をすることで、囲碁と現実との距離が大きく縮まり、できることが広がるような感じがします。
囲碁というものを、19路の碁盤のなかだけで完結するものではなく、
当然碁盤の外にも何かがあるね?という前提
で見たいのです。
私の活動の中に、そんな気分で作ってきたものがあるので、今回はそれについてお話ししようと思います。
こんな感じのが多くなってきました。
自分でポチポチと石を置いているわけではなくて、写真をそのまま使っています。
つまり、目の前の光景からカメラが受け取った光を、また碁盤に写し取っていることになります。
しかし、完全にコピーしたわけではなく、範囲をちょと狭めました。
全部入れると、囲碁にしづらい。少なくとも自分の力では、互角にできるかどうか。。。
なんとかいけそうなラインを狙って、切り取り(クロップ)しました。
でも本当は、全部囲碁にしたかったとも思います。
写真というものがそもそも、外があるものです。
一枚におさめて満足いっているか、あるいは全部写したいと思っているかはさておき、空想の風景ではなく現実といえるものを切り取っています。
大きな空間がある中での一部分、ということが言えると思います。
当然に、囲碁アートの外には囲碁にしきれなかったところがあり、
そこも私が囲碁で互角にできなかっただけで、本当は囲碁としても見られうる
少なくとも今の私のセンスで、互角の囲碁として世界を見た風景をあらわしたもの
というつもりでおります。
そこには、当然に外の世界があることが前提されています。
関の囲碁アートといっても色々あります。
小さい碁盤の作品は、碁盤の中にきれいに収まっている、という理想でも作っていました。
それによって「人間が遊べる」という点を評価する考え方で、どちらが良いというわけではなく、別の方針なのかなと思っています。
しかしこれも、囲碁のゲーム性を目指して作っただけでなく、ソフトクリームが垂れてくるような感じを目指して作ったものでもあります。
ある種の現実的な摂理を、囲碁を使って描くことができるのではないか。
囲碁を目的だけではなく手段としても使って、碁盤の外というか囲碁の外の現実と同じにできないか、という方向性です。
私が作ったわけではない、囲碁を通常通りプレーしたものです。
とくに他の何かを描こうとしたわけではなく、勝利や最善手に向かって打たれたものですが、それでも外野は無限に何かを見出すことが可能です。
この形がそのまま道に落ちているわけではないけれど、
微生物の一生がこんな形で進んでいてもおかしくないな、
歴史上のどこかでは、こんな経過の戦が起こったかもな、
とか・・・。
空間的な周囲や、時間的な前後を見出すことができそうです。
そういうところからアイデアをとってきて、自分の納得いくものに近づけていきたいなと思っています。
そんな頭の中を表現できたらいいですね!
記事は以上です!
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