【回想録】1994パリ~ダカール~パリ for note パジェロへの惜別に代えて
自動車という商品として宣伝、営業、モータースポーツが連動してマーケティング上も稀有な成功例を残した「三菱パジェロ」。消費者の志向の変化と厳しい経済状況から歴史に幕を下ろすことになりました。その時代を三菱自動車で過ごした者として寂しさは隠せません。ましてその、「宣伝、営業、モータースポーツ」のすべてで関わりを持ったともなれば・・・。
本稿は2020年12月から2021年1月にかけてインターネットスポーツメディアSPREAD( spread-sports.jp )で連載した「パリダカ回想録 (1994パリ~ダカール~パリ)」を掲載にあたりカットせざるを得なかった部分を復元し、更に大幅加筆したものです。
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★一本の電話
1993年12月28日早朝、私はパリ・エッフェル塔を間近に臨むトロカデロ広場にいた。未明にホテルで簡素な朝食を済ませ「冒険者たち」を見送るためにここに来た。パリからアフリカ・セネガルの首都ダカールで折り返し、再びパリに帰るクロスカントリー・レイド「1994パリ~ダカール~パリ」のスタート会場である。
1986年に三菱自動車に入社した私だが、国内営業部門の一社員でしかなかった。そんな私がなぜパリダカの現場にいるのか。まずはそこから語らねばならないだろう。
地方の販売会社に派遣されていた私は、日常業務のかたわら趣味としてモータースポーツ(当然三菱車)を楽しみながら、それを販促活動にも活用していた。それが三菱自動車のモータースポーツ事業会社、株式会社ラリーアートの目に留まり、同社の企画に協力したり商品販促イベントに活用するため協力を仰いだりと(まさにラリーアート社は三菱車販促貢献のための組織でもあったわけだが)、さまざまな協同作業を創出していた。
当時の三菱自動車はパリダカはもちろん、ランサー・エボリューションをWRC(世界ラリー選手権)に投入するなど勢いは現在の比ではなかった。個人的にもそんな「海外でのラリーを一度は見ておきたい」という願望は当然持っていたが、それは三菱自動車が1993年に復活した「香港~北京ラリー」で応援ツアー参加者を募集したことでかなうことになる。私は休暇を取って香港に向かうことにし、その日を一日千秋の思いで待っていた。
そんなある日、ラリーアート社の社長・近藤 昭氏(故人)からの電話を受ける。香港に行くなら少しばかり力を貸してほしいと。用件はこうだ。競技車両のカラーリングやプロダクトのデザインを委託している関連会社のデザイナーを勉強のために香港に送るので、ラリーのこと、モータースポーツのことを教えてやってくれと。(本来現地でプロモーション活動に当たる担当マネージャーの急病での渡航キャンセルがあったのは帰国後に知る)
ツアーを主催する関連会社からの参加者名簿に私の名前をみつけた近藤社長の提案に、そのときは何も深いことは考えずに個人的な旅行気分でいたが、現地では依頼された以上の仕事(?)が次々発生した。それらひとつひとつは省くが、その中で後日の私のパリダカ行きに影響を与えたのは大して気にも留めていなかった現地での「おせっかい」だった。
応援ツアーには、ある青年漫画誌のプレゼントで当選した読者特派員が加わっていた。モータースポーツメディアとは違う企画であるがゆえに応援ツアーのスケジュール内でラリーの取材をし、誌面でレポートを掲載するというものだった。読者特派員の皆は旅行に浮かれて取材をおろそかにすることもなく過ごしていたが、それゆえに観光スケジュールを優先したい他の参加者からは厄介者のように扱われることもあった。
翌日にスタートを控えた三菱チームの壮行会の会場でも、ツアー参加者からの叱責を受けていた彼ら読者特派員のテーブルが沈んでいるように感じた私は、ラリーのこと、出場車両であるランサーエボリューションのこと、何でも聞いてくれと彼らの中に飛び込んでいた。
香港から帰国してしばらく、再びラリーアート近藤社長からの電話が入る。パリに行ってほしいと。本来内外のラリーを取材し現地行事のコーディネイトも担当していた須賀健太郎シニアマネージャーが急病で長期療養となったことは聞いていたが、「それで何で私がパリに!?」と、すぐには事情が飲み込めないでいた私に近藤社長が語ったのが香港での例の読者特派員への対応だった。
雑誌社から香港で大変助けられたと、三菱自動車の宣伝部に丁寧なお礼があったが宣伝部には思い当たる人物がいない。ではラリーアートが派遣したスタッフだろうかとの問い合わせを受けたのだと。近藤社長は続ける。パリダカでも応援ツアーを募集するので、現地で香港同様に参加者の世話役を療養中の須賀シニアマネージャーに代わってやってほしいのだと。異例の対応だったろう。それほど急を要したのだと思う。近藤社長は私の負担を少なくし正規の業務出張とできるよう、一時的に私の出向先を自社ラリーアートにできないかと人事部に相談までしたのだと後に聞く。
香港では単に想定外の2、3の事態に対処していただけだったが、モータースポーツに対する知見、対外的な対応力が図らずも評価されて業務の一部代行をとの会社トップ直々の指名、依頼だ。断る理由はない。
パリでは良く知るラリーアート社員の若手2名が先発して待っている。香港から戻ってわずか2か月、私は旅行客でにぎわう年末の成田からパリに向けて飛び発った。
★ パジェロ、砂漠に降り立つ。
本稿をお読みいただいている方の中には30年前のパリダカの熱狂、それに伴って消費者が我も我もとパジェロを求めた時代を知らない方も多いだろうと思う。
三菱自動車はパジェロ発売直後の83年にパリダカに初参戦(ヨーロッパでは未発売の段階)、市販車無改造クラスで優勝。84年は市販車改造クラス優勝、85年にはプロトタイプクラスにエントリー、ポルシェを破り3度めの挑戦で総合優勝を成し遂げた。
しかしこの時点では日本での注目度はそれほど高くはなかった。そこでパリダカの仕掛け人、後にラリーアートの社長となる近藤 昭氏は「やはり日本人が乗らなければ話題にならない」と判断し、ラリードライバーとしての活動を休止していた三菱自動車社員の篠塚建次郎氏を起用する。初出場の1986年こそ市販車無改造クラスで完走がやっとだったが、「早いクルマに乗りたい」という篠塚選手の希望を容れて型落ちながらプロトタイプ車両で出場した87年に総合3位、翌88年には総合2位を獲得。折からのテレビでの競技ハイライトの連日放映もあってパリダカとパジェロ人気に火がついた。パジェロは時代の主役となっていった。
そしてパジェロは91年にフルモデルチェンジする。この2代目パジェロが当時の「RV(レクレーショナルビークル)ブーム」を牽引する。その頃三菱自動車の販売会社の若手で、現在は東日本三菱自動車販売・龍ヶ崎店で店長を務める大浦知己氏は「とにかくパジェロは売れました。パリダカの効果は間違いなくありましたね。お客さまの方からパリダカの話題を切り出され、すんなり商談が進むのですから」と当時を述懐する。
パジェロは宣伝、営業、モータースポーツがすべて機能して商品的に成功した好例である。バブルと言われた時代が去っても90年代なかばまでパジェロを筆頭に三菱車は好調を続け、「元気印の三菱」と言われた。パリダカに出場することは販売促進のみならず、商品の信頼性・耐久性を高めることにも間違いなく貢献した。自動車メーカーがモータースポーツに参加する意義がここにある。アフリカの砂漠と風がパジェロを鍛え、そして磨いていった。
★ 冒険の扉
「私が冒険の扉を示す。開くのは君だ。望むなら連れて行こう」
パリダカールラリー創始者ティエリー・サビーヌの言葉だ。彼は1986年パリダカでコース視察中に搭乗したヘリコプターが墜落、帰らぬ人となった。跡を受け継いだのは父ジルべーヌ。しかしそのとき父ジルベーヌも既に高齢で、やがて運営組織TSO(ティエリー・サビーヌ・オルガニザシオン)をメディア総合企業傘下のASO (アモリ・スポル・オルガニザシオン=自転車競技のツール・ド・フランスなども主催) に譲渡する。そうして運営組織が変わって最初のパリダカが1994年(93年末からの)、第16回「パリ~ダカール~パリ」だった。
年々深刻になる政情不安により従来ルートであったアルジェリアの通過が不可能になり、パリからダカールへと大西洋寄りのルートをたどり、ダカール~再びパリへと戻る総走行距離約14,000kmのルートだ。
ラリーアート社長の命を受け成田を発った私は、ローマを経由しパリに向かった。サッカー世界選抜試合に出場するため同じ機に搭乗していた三浦知良・りさ子夫妻とローマで別れ中型機に乗り換え、パリのシャルル・ド・ゴール空港に到着。三菱自動車が募集した10名ほどの応援ツアーの一行とともにモンパルナスのホテルにチェックインしたのは12月27日に日付の変わった深夜だった。9時間の時差のため、同じ日をリスタートすることになるわけだ。
出迎えてくれたのは先発してパリに入っていたラリーアートの社員二人。一人は三菱自動車の専属プロモーションスタッフだったゆえに旧知の間柄の石川博恵氏。もう一人はラリーアート入社2年目で抜擢された味戸厚二氏。そこに私を含めた3名がフランスで初めての後方業務を分担する。砂漠に出ずとも「我々のパリダカ」だ。夜明けとともに、冒険の扉が開く。
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