意外性は客観的に導ける
物語をつくるにあたって、今日ちょっと気づいたことがあるので残しておこうかなと。
最近プロットをつくる上で、「なんかありきたりな展開だな」と自分でも思ってしまうという問題が起きていました。
当初、この原因を、「物語を形にするために、既存の物語の型に無意識に当てはめようとしていたため」と考えて、「だったら既存作品のことは一旦忘れて、完全オリジナルのアイデアで発想してみよう」と思って進めていたのですが、これが全然だめでした。結果、全く進まず。
で、今日この問題が解決して、これの真の原因って、
「考えなければならなかったのはありきたりな展開を避けるための”意外性の入れ方”であったのにもかかわらず、既存作品からの影響を極力受けないようにすればありきたりな展開を避けられると勘違いしていた」
からだったんですね。
なので、やるべきは、既存作品の意外性の入れ方を抽象化することだったんです。
で、このことに至らなかった原因をもっと深ぼると、以下のような思い込みがあったためだったなと。
「意外性」は、「市場の作品を分析して得られる法則からつくられるような客観的なもの」ではなく、むしろ「市場の外である自分自身の中から生まれるような主観的なもの」である。(という思い込み)。
ここには、「オリジナリティのあるもの、主観的なものを描かなければ面白く(意外性のあるような)ならない」という、「客観性を作品に用いること」に対するマインドブロックがあったような感覚があります。
これが今日ようやく解けた。よかった・・・。
これに気づいたきっかけは、「フェルマーの料理」という漫画を読んでいたときでした。この作品は、数学の才能にあふれる主人公が料理人を目指す話で、その数学的な構造思考を料理のレシピ開発に転用する才能が見せ場になっています。
作中で、とあるキャラが主人公の料理センスを以下のように形容するシーンがありました。(うろ覚えです)
「数学的思考からレシピを導く客観性と、感情体験から導く主観性の両方の究極のバランスを取れる人」
このセリフで、あっ、と思ったんですね。
客観性と主観性って本来「分けられる」ものだし、「バランスをとれる」ものじゃん、と。
このあたりから、客観性を創作物に入れることのマインドブロックがとれだして、「じゃあ”意外性の入れ方”ってじつは客観的に導けるものなんじゃないか?」「それを担保した上で、主観性が両立できないかを考えればいいんじゃないか?」という思考に着地することができました。
数学の集合論でいうと、
今まで「意外性」の要素が「主観性の集合」にしかほとんど含まれていなかったのが、逆に「客観性の集合」にほとんどが被るような絵になったイメージです。
もっというと、これに気づけたのは、最近そこで躓いていたために、「意外性ってなんだ?面白いってなんだ?」という問いを自分で持ち続けていたから、気づきをキャッチできたんだと思います。
結局、「そのときが訪れるまで考え続けよ」ってことなんだと思いました。