【お報せ】『硫酸ピッチ!~バンドマンになったエスパーなおれの初カノジョの正体が、実は〇〇〇だった話~』連載終了しました【あとがきに代えて】
■「おれとお前は友達」で済まされるような関係なんてない
先週末、年明けまで六本木で開催されている『カードキャプターさくら展』に友人とふたりで行ってきた。
幼稚園の時分から慣れ親しんできた作品なので、貴重な原画や漫画誌に掲載当時の誌面などが美しいレイアウトで所狭しと並ぶ様子に感動したのは言うまでもないが、会場を出た後の僕の記憶に最も強い印象を残したのは、実は展示の一角に記されていた、このメッセージだった。
皆さんご存知天下のドラァグクイーン、ミッツ・マングローブさんのコメントである。
『カードキャプターさくら』の作中には、様々な「好き」と言う感情のかたちが登場する。僕のようなアニメ視聴者や読者の間で「優しい世界」と形容される事が多い『さくら』の世界観だが、その秘密は多分そこにあって、男女や年齢、種族の壁にすらとらわれず、“友情”や“愛情”、“恋愛感情”と言ったわかりやすいカテゴライズにもとらわれない、「ひと同士」の間にある言語化し難い「好き」の全てが、否定される事なく優しい眼差しで描かれているのだ。
「好き」と言う言葉で表される感情には、無限のグラデーションが存在する。それは誰にも否定しようのない事実で、だけれど僕達は普段それを意識しない。「友達同士だからこうだろう」「恋人同士だからこうだろう」「男同士だから」「女同士だから」、そんな四角四面のカテゴライズに従って、無意識下で断定している。
一緒にさくら展に行った友人は可愛い女の子で、互いに四歳の頃から一緒にいる幼馴染みだ。年の瀬の渋谷の沖縄料理屋で差し向かいになり、ふっくらとした頬をマンゴーサワーのアルコールで赤く染めた彼女を眺めていて、なんだか感慨深い気持ちになった。
僕と同じくお酒に弱い彼女は、少しご機嫌になって素面なら絶対にしないようなうち明け話なんかをしてくれる。何をそんなに急ぐ必要があるのか、十二月の真っ黒な空の下を、急ぎ足で歩く人波。見知らぬ外国人とぶつかりそうになった彼女の肩を、僕は思わず抱き寄せる。
行動だけ書き出してみると、「よく出来たカレシ」みたいでちょっと自分が気持ち悪い。でも彼女と一緒にいると自然と飛び出してくる行動だけに、自分自身の素直な気持ちから出てくる思いやり的な何かなのかもしれないなあ、とも思う。彼女は僕の人生に関わってくれたひと達の中でも特に、大切な“友達”だからだ。
だけれど、いや、だからこそ、だ。僕が彼女に向ける感情の中に、言わゆる一般的な“友情”以上の感情が、一切ないと言いきれるのだろうか、とも思った。
そもそも、“一般的な友情”って、一体全体どんな感情なのだろうか。そいつは本当に、実在するものなのだろうか。
■平清澄と言う“最重要人物”
先日、小説投稿サイト「カクヨム」にて掲載中のオリジナル小説『硫酸ピッチ!』を完結させた。詳細に関してはこちらの記事を参照して頂きたいが、簡単にあらすじを紹介すれば、「ヒトならざる存在である、または一般人には持ちえない超能力などを有している青年四人がロックバンドを組んでおり、そんな彼等が青春してToLOVEるして涼宮ハルヒの憂鬱するジュブナイル・オカルト・コメディ」と言った趣きの物語だ。何を言っているのかわからねえと思うが僕も長い年月をかけて本編を書き上げ、数ヶ月かけて推敲を繰り返しネットにアップし続けてもちょっとよくわからねえ物語だったりするのでそれで良い。
閑話休題。この物語の中に登場する架空のロックバンド「HAUSNAILS(ハウスネイルズ)」のメンバーの中に、平清澄(たいら きよすみ)と言う登場人物がいる。ギターボーカルである主人公の仲間でありながらライバルとして生み出された、十九歳のうら若きベースボーカルだ。渾名は「キヨちゃん」。
彼は異星で開発された人工生命体の血を引く子供であり、そのために月に一度だけ女性の身体になってしまう特殊体質の持ち主だ。何を言っているのかわからねえと思うが以下略。
『硫酸ピッチ!』の原案を考えている最中、オトコ四人組のロックバンドを主役とするにおいて、物語がどうしてもヒロイン不在状態になってしまう点に不安があった。拙作は現在天下の角川スニーカー文庫の新人賞コンペティションに参加中なのだが、僕も大好きな「涼宮ハルヒ」シリーズなどをはじめ、角川スニーカーといえば個性豊かな美少女達が美少女と言う“枠”を飛び越えて活躍する姿が魅力的な作品が多い。
しかし拙作には、ヒロインらしいヒロインがひとりも登場しない。ほかの、女性向けのレーベルなどの新人賞も視野には入れたが、女性向けにしてはネタがゲスいしおシモのおネタが多すぎるので百戦錬磨の文学少女達をときめかせられる自信が全くなかった。こいつら絶対モテない。だからと言って、男性向けにしてはやっぱり画面が暗すぎる。
そこで僕は苦肉の策に出た。美形では決してないが元々可愛らしい、中性的な顔立ちをしていたキヨちゃんに、“ヒロイン”になってもらったのだ。みんなが大好きなおっぱいもちゃんとある、立派なヒロインに。
■既存の“ヒロイン”へのアンチテーゼ
そんなくだらない、腹の底から無理矢理引きずり出した難産の登場人物造形だったので、平清澄が人口生命体の子供であるだとか云々は、実は半ば無理矢理感の否めない後付けの設定だった。
しかし、彼にそんなバックボーンが生まれた瞬間、『硫酸ピッチ!』はやっと動き出した
のだった。
僕の友人に、とても素敵なボーイズラブを書く才能豊かな物書きがいる。現在は作品をWeb上などに公開したりはしていないのだが、僕は彼女の書くものにずっと憧れていて、いつプロデビューするのやらと楽しみやら恐ろしいやら、といった気持ちである。
そんな友人は、日頃より受けを「ヒロイン」と呼ぶ。登場人物を「受け」「攻め」と言う装置として扱うのではなく、意志ある「人物」として敬意をもって描いている事が伝わってくる彼女らしい言い回しで、とても素敵だと思った。
本編でも触れている事なのだが、ロックバンドのメンバー同士、と言うものは運命共同体であると僕は常日頃より感じている。メジャーデビューを目指すな尚更、互いの人生を背負い合って心中するぐらいの覚悟が必要なんじゃなかろうか、とも。僕は単なるいち「ロックバンドオタク」でしかないので半ば妄想的な想像をする事しか出来ないが、きっとそこに“一般的な友情”なんかは存在していないだろう。きっと、彼等の間にある関係性は、それを超えている。
親きょうだいよりも憎たらしいかもしれない。恋人よりも愛おしいかもしれない。
フィクションではただ爽やかで美しいだけのものとして描かれがちな“友情”や“仲間の絆”と言う概念。でもそこに、画一的な雛形なんか存在しない。
隣で笑う見慣れたアイツの笑顔に、好きな女子よりドキッとさせられる瞬間があるかもしれない。教室でたまたま隣の席だった根暗そうなソイツに、人生を一変させられる事だってあるかもしれないのだ。
バイ寄りのヘテロであり、性自認は普通の“男子”であるキヨスミを“ヒロイン”として公に扱う事で、僕はそれを表現したかった。“ヒロイン”は女性にしかなれないものじゃないし、必ずしも「主人公と恋に落ちるため」に存在するものでもない。
先述の友人が書くボーイズラブの主人公と“ヒロイン”は、必ずしもまっすぐに恋に落ちるわけではない。しかしそれでも――そこに明確な恋愛感情や性行為の描写がなくても――ヒロインは絶対的に“ヒロイン”として存在し続ける。
僕と同じく邦ロック好きな彼女とふたりでライブに行った帰り、麻布の喫茶店でココアをすすりながら彼女にこの事を告げた。君のあの言葉に僕ははっとさせられたのだ、と。
彼女は少し目を白黒させた後、「そんなもの、単なる既存のボーイズラブへのアンチテーゼだよ」と照れくさそうに笑った。
■おれ達の旅はまだまだ続く
『硫酸ピッチ!』は、僕が小説を書く意味を見失いそうだった時期に書き始めた物語だ。
大好きな邦ロックをメインに、音楽ライターとして微額ではあるがお金を頂きながら責任をもって文章を書く、と言う事をし始めた時期でもあった。
そして、派遣社員としてフルタイムで働き始め、更には自分が元々志していたクリエイティビティを求められるような業務とは全く違う部署に配属されてしまった時期でもあった。
向いていないとしか思えない単純かつ神経をすり減らす業務についていくだけでやっとで、毎日の労働に疲弊していた。小説を書く元気が足りなかったのかもしれない。元々虚弱で精神も強くないメンヘラ体質なので今でも大差はないかもしれないが、常に体調が悪く職場のトイレの中で何回も泣いた。
生きるだけで精一杯だ。僕が生きていくために、別に「小説を書く」と言う手段をとる必要があるだろうか。ただでさえ最近はエンタメ文学と純文学の溝が深まり、僕みたいな中途半端にエモい物語しか書けないような輩は受け入れられにくくなっている。やれ異世界転生だ、やれハーレムだ、やれ俺TUEEEEEだ、そんな流行りモノは僕には書けない。もっと上手いひとに任せればいいんじゃないか?
書く事、書かざる事、その不毛な丁字路の前で道に迷いまくった僕は、生きる意味すら見失いそうになっていた。
小説を書く事をやめる前に、試しに何も考えずに書いてみよう。ある日、特にきっかけもなく不意に思った。
自分の頭の中の荒唐無稽な妄想をとりあえず文章にしてみよう。日頃から胸に秘め続けていたロックバンドへのフェティシズムやイカれた趣味を盛り盛りにして、最後の悪足掻きをいっちょキメてやろう。
小説を書く意味なんて、生きる意味なんてどうでもいいのだ。プロットもろくに書かずに書き始め、幾度かの小休止を挟みながらも気がついたら書き上げていた。短編を書くつもりだったのが、途中からキヨちゃんや主人公、HAUSNAILSの四人が意志を持ったかのように言うことを聞かなくなってしまった。結果十万字を超えるなかなかの長編になってしまった。
伝えたいメッセージやテーマなんか何もなかった。でも、気がつけばなんとなくだが、テーマ性めいたものがそこに込められるようになっていた。
何も考えずに書いたからこそ、なのかもしれない。何も考えなかったから、自分の人生に一番密接な「ロックバンド」と「友情」と言うテーマが自ずと湧いてきたのかも。もしかしたらこの稚拙で気の狂った「ロックンロール・ジュブナイル・オカルト・ギャグ」は、僕の人生そのものが投影された物語なのかもしれない。
僕の人生が続く限り、HAUSNAILSのバンド人生も続いていくだろう。彼等は最早「うちの子」なんかではなく、作者・イガラシ文章とは別の人格として生き始めた。
今も下北沢の街の何処かで飲んだくれてクダを巻いたり、ライブハウスで手売りしても全然売れないCDをせっせと手作りしているのかもしれない。
僕は今、彼等の人生を終わらせないために、もっと長く生きたいと思っている。HAUSNAILSは僕の生きる意味のひとつとして、今日も楽しげに憎たらしい笑顔を浮かべて南口商店街を駆け抜けていく。僕はほんのりとした悔しさと微笑ましさを噛み締めながら、そのギターケースやベースケースを背負った背中を見守り続ける。
イガラシ
かねてより構想しておりました本やZINEの制作、そして日々のおやつ代などに活かしたいと思います。ライターとしてのお仕事の依頼などもTwitterのDMより頂けますと、光の魔法であなたを照らします。 →https://twitter.com/igaigausagi