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僕の耽美主義について―美意識のバリエーションを抱きしめながら

■有村竜太朗と水野ギイと首藤義勝の容姿が好き

バンドマンの容姿の話って、なんとなくしづらい。
“顔ファン”なんて言葉も存在するぐらい、彼等の顔、ないし見た目はタテマエ上、あまり重視されてはいない。そもそもがモデルさんや役者さんのように、見た目が最も大きな役割を持つ職業でもないわけだし、究極論清潔感ゼロの髭モジャふくよかダンディだってイイ音楽やってりゃカッコよく見えるしいつかは売れる。
でも正直、ミュージシャンにとっても容姿は決して無視出来ない武器ではあると思う。特に最近はYouTubeで音楽を知るひとも多いから、MVの意義が大きくなって、ヴィジュアルイメージも音楽の一部になった。ファッションや髪型含め、見た目とやってる音楽に統一感があれば世界観がキマるし、ルックスと音楽性にギャップがあってもそれはそれで魅力になる。だからまあ、そんな話もたまには良いかな、と言う気持ちでこれを書いている次第だ。

僕は基本的に、容姿にそのひとならではの世界観が溢れているタイプのミュージシャンが好きだ。とは言えまあミュージシャンのアドバンテージは音楽、その作風や歌声なんかに好感を抱けない限りファンになる事はないのは当然だが、中でも作風、歌声、加えてその顔立ちや佇まいまで込みで最高に好きなのがPlastic Treeのギターボーカル、有村竜太朗さんである。

ご覧の通り、彼は大変な美形だ。ヴィジュアル系バンドのボーカルである時点で美形と言うのはアドバンテージのひとつのように思われる事も少なくないが、Vにとって顔は「(メイクなどの力を借りて)作るもの」なので、ノーメイクの時点でこれ程の美しさは実はなかなか稀有。因みに先に載せたお写真はソロ活動時のもので、ほぼノーメイクのお姿だ。現在バンドキャリア25年以上、40代後半に突入した日本人男性だが、最早どこぞの貴婦人の域。そのなんとも言えないペーソス漂う歌声込みで、神が作り給うた最高の芸術作品と言っても過言じゃない。

お人形のように整った容姿にモノトーンカラーの独特のファッション、すらりとした体躯。彼の姿は僕にとって、学生時代から続く永遠の憧れのファッションアイコンだった。もしも今、自分の性来持つ容姿を捨てて誰かの容姿になれと言われたなら、迷わず有村竜太朗になりたいと答えるだろう。

僕には有村さんに並びもうひとり、そのかんばせや佇まいなどを形容する際に「美」と言う文字を使わずには表現出来ないと思っているミュージシャンがいる。ビレッジマンズストアのボーカル、水野ギイさんだ。

彼等の曲自体を聴くようになったのは5年程前からなのだが、その時点で曲の良さだけでなく、彼のルックスにも目を奪われたものだ。なんたってこの眼力の強さ、乙女ゲームの3DCGのようなハイクオリティな顔立ち。加えてバンドのユニフォームであるクセ強の真っ赤なスーツをさらっと着こなすモデルのようなスタイルもあり、未だに実在が信じられない。

(ネバーエンディング股下)

すべてのフォルムが整いすぎててこの『Love Me Fender』と言う曲のMVのサムネイルなんか、イラストレーターの描いた精密な一枚絵みたいになっちゃってる。なんなんだ、サムネ職人とはあなたの事か。

赤いスーツを脱ぎ捨てた私服も革ジャンにバンドT、革のチョーカーに黒スキニーと言う“空想の中のロックンローラー”みたいなファッション。正に歩く世界観である。一体何を食べて育ったら水野ギイになれるんだ?

ここまで誰に見せても文句なしの美形を続けて紹介してきたつもりだが、僕にはもうひとり、音楽性だけでなくその容姿が大好きなミュージシャンがいる。それが、KEYTALKのベースボーカルの首藤義勝さんだ。

大変失礼なのを承知で平身低頭恐縮して申し上げるが、彼は決してぱきっと目を引く、目立つタイプの美形とは言えないかもしれない。でも、ライブやMVで垣間見られる彼の立ち居振る舞い、シルエットからは実になんとも言えない、不思議なニュアンス感のある雰囲気が感じられるのだ。
そもそも僕が彼の佇まいに魅力を感じるようになったのは、彼等の代表曲のひとつ『桜花爛漫』のMVだった。

決して長身だったり、スタイルがめちゃめちゃ良いというわけではないけれど、細身でしなやかな体躯にふわっと裾の揺れる衣装を纏い、体格に対して大きく見えるイカツいプレジションベースを抱えて軽やかなステップでくるくる回る彼の姿が、たまらなく美しく見えたのだった。

オーバーサイズの衣装の中で泳ぐ薄い身体に、自重と重たいベースを支えて舞台の上を所狭しと駆け回るためだけに身に着けたような、きゅっと引き締まった筋肉を纏う脚。ボリューム感のある髪型が良く似合う小さな頭。顔立ちもちょっと気だるげで可愛らしい雰囲気もあり、なんとも言えない色気がある。彼は過去に使っている香水の銘柄を聞かれ、「ブルガリです。モテたいので……」と言うような事を公言していたが、香水なんか使わずともシダーウッドやマンダリン、ムスクみたいな良い香りがしそうだ。

多分、人間にはひとそれぞれに「好きな容姿」や「綺麗だと感じる顔」なんかがあるんじゃないかと思う。そのかたちはもしかしたら、十人十色まったく異なるものなのかもしれない。
とりあえず僕は、飲み会の席などで「好きな顔の有名人、誰?」なんて下世話な話題になったなら、迷わず以上の3人の名前を挙げるだろうと思う。尤も、親しい友人たちや同好の士が相手でもなきゃ、怪訝な顔をされかねないチョイスだけれど。

■母は栗山千明を「鷲鼻だね」と言った

いつかの休日、母親とCSテレビで刑事ドラマを観ていた。20年近く前のドラマだったので、今結構なベテランになっているとある女優さんの若かりし日の姿を見る事が出来て、綺麗だね、などと母とぽつぽつ会話をした。
そんななかで、会話のテーマが「顔立ちが綺麗だと思う女優について」になった。たかがいち片田舎の母子如きが見知らぬ美しい女性の顔面を値踏みしようとする時点で些か無礼が過ぎる気も今となってはしてくるのだが、だからと言ってオカンとの平和な会話の時間を変な空気にはしたくない、と言う浅ましい事なかれ思考が働いた僕は、とりあえず回答を提示しておこうと栗山千明氏の名前を出した。90年代前半に生を受け、あの名作青春ホラー『六番目の小夜子』を履修してきた世代としては、彼女は“絶世の美女”の象徴のひとりだったからだ。

母は僕がひねり出した“絶世の美女”の花のかんばせを思い浮かべるようにちょっと間を置いた後、「ああ、あの女優さんか。でも鷲鼻だよね!」と言い放った。

思春期を迎えて以来、母と僕とはオトコの趣味が一切合った試しがなかった。
既にお分かりかもしれないが、僕は性別を問わず、切れ長の瞳や凛とした中性的な顔立ち、それか薄味の純和風な顔立ちが好みだ。一方オカンはと言うと、濃い眉毛、デカい輪郭、男っぽい濃い顔がどうやら好きらしい。さながら日活ニューフェイス。僕からしてみたら正直目ヂカラ強すぎてちょっと退くし、みんな白塗りしてるように見える。
ぶっちゃけオカンが好きなオトコ、栗塚旭さんと昔のジュリーぐらいしか心からカッコイイとは思えない。あなたが「そんなに好きじゃなかった」と一笑に伏した尾崎豊も松田優作も、僕は好きだったよ?

だけど、CSテレビで再放送される名画を観ながら「このひとカッコイイでしょう!?」と無邪気に往年の二枚目俳優を人差し指でさし示しながら同意を求めてくるオカンを前にして、僕はいつも心なく頷いてしまう。何故なら僕は、彼女の美意識を否定したくないからだ。彼女と同じ穴の狢にはなりたくないからだ。彼女に無邪気に否定された僕の美意識が、あの日ちょっとだけ泣いていたからだ。

■僕のウエストがあと2センチ細かったなら

ひとりっ子で蝶よ花よと育てられた美幼女時代を通り過ぎた頃、僕は生来の大食らいと持病の喘息の薬の副作用で、めちゃめちゃ太った。よくある話だけれど、そのせいで小学生の頃の僕はいわゆるカースト最低層、暗黒の児童期を過ごす事になった。
体育の時間にグラウンドを走れば「地鳴りがするぞ!」と笑いものにされ、クラスメイトの大して好みでもないけれど体形だけは似ていた男子と折に触れてカップル扱いされた。(その男子の名誉のために付け加えておくが、そいつの事を好きではなかったのは単純に好みのタイプじゃなかっただけで、そいつが太っているせいではないし、ロマンチックな意味では好きではなかったが、善いヤツだった。)

色白でおさげの似合う、小枝のような手脚の愛らしい女のコだったひとり娘を世界一可愛いと言ってはばからなかった母親も、ぶくぶくと肉の鎧を身に着けていった娘にうんざりしたんだろう。気がつけば似合わないショートパンツからはみ出した僕の醜い太ももを、執拗にペタペタと平手で叩きながら「大きくなったねぇ~」とからかってくる始末だった。

その後、僕は皮肉にもその時のいじめによるストレスで激痩せし、成長ホルモンの作用かタッパもぐんぐん伸びて平均体重に落ち着いた。今やBMI標準より少し低め、最近若干下っ腹が気になるようにはなってきたがいわゆる痩せぎす体形だ。紆余曲折ありまくり現在ではサブカル中性的お洒落野郎へと成長し、「お洒落」「カッコイイ」「好きな顔」などとごく少数の友人やフォロワーなどには言ってもらえる程度のChillな雰囲気イケメンとしての容姿を自助努力によって手に入れたわけだが、正直今でも風呂上がりに腹をつまんでは絶望する事が、1日に一度は大体ある。

僕のウエストがあと2センチ細ければ、もしかしたらあの日「キモイデブ〇ね」「走ると地鳴りがするぞ!」なんて口汚く罵られずに済んだかもしれない。
そしたら今だって、もっと人間と上手く話せていたかもしれない。ひとの好意を、ひとの言葉をもっと素直に信じる事が出来ていたかもしれない。

ここらでびっくり豆知識のお時間なのだが、なんと先にお話したあの絶世の美男子の水野ギイさんも、実は僕と同じような事で悩んだ経験があるのだそうだ。
どうやら彼はかつて30キロ以上ものダイエットに成功し、あの美貌を手に入れたのだと言う。なんとも健気でストイックな逸話だが、そんな彼も、未だに「鏡の前に立つと太ってる気がする時がある」と話す。美しい彼もまた、根深い呪縛に囚われているのだ。ドリアン・グレイかよ。

そう言えばだけれど、ビレッジマンズストアのキャッチフレーズ(?)は「焦燥と劣等感をもって焦燥と劣等感をぶち壊す、名古屋が生んだロックバンド」だ。彼等は結成以来15年以上、インディーズでのセルフプロデュースを貫いている。この勇ましいキャッチフレーズも他所の大きいオトナ達からお仕着せられたものではなく、彼等自身の考えた活動指針みたいなものなんだろう。そして、多分その精神的支柱を担っているのは、フロントマンであり楽曲の作詞も担当しているギイさんなんじゃないかと思う。
今の彼等の魅力の何割かは、彼を縛る呪縛によって構築されているのかもしれない。その後ろ暗さやコンプレックスが彼の哲学を育て、コンプレックスを胸に秘めながら佇む美しさに色気が宿る。

よしかつさんもかつてSNSで心無い言葉を投げられていた時期があったし、有村さん……は、流石に容姿をどうこう言われたという話を耳にした事はないが、「中学生の頃の卒業文集を卒業式の後にドブに捨てた」と言うファンの間では有名すぎる逸話から察するに、決して明るいばかりの過去を生きてきたひとではない事はわかる。今の彼等の美しさを作り上げたのは、きっとかつての彼等が味わった、劣等感やコンプレックス、今でも尾を引く呪縛の味なんだろう。美しい彼等に並ぶのもおこがましいが、僕だってぽっちゃり小学生だったあの頃の経験がなければ、今この文章を読んでくれているあなたにも出会えなかった。

だからといって、あの日僕をいじめたアイツらやお気に入りの短パンを穿いた僕の太ももを無邪気に叩いた母親を許せるかと言うと、ふざけんな馬鹿野郎と言う気持ちなわけだが。

■美意識には無限のバリエーションがあり、美しさもまた無限である

結果論である。コンプレックスや劣等感から美しさが生まれると言うのは。
容姿と言う生まれ持ったらどうしようもないものを引き合いに出し、好き勝手にひとを貶めるような言葉や行為をぶん投げやがる事は、決して正当化されない。もしも言われた方がその5年後10年後、人気ロックバンドのイケメンボーカルに変身したとしても、だ。

でも、その経験を経た今のあなたは、どんなにコンプレックスがあっても、トラウマがあっても、劣等感まみれでも、きっと美しいのだ、と思う。
コンプレックスから色気や哲学、そのひとなりの魅力のようなものが生まれるのは、コンプレックスや劣等感を抱いた時点で、そのひとには理想に思う姿、その人なりの美意識があると言う事になるからだ。理想の姿があると言う事は、その姿を目指して努力すると言う事だ。努力、なんて大袈裟な言葉を使ったけれど、そんなに張り切ったものじゃなくて充分だ。毎日スクワットするとか、憧れの女優さんと同じ洋服を買うために働いて貯金するとか、そんなんで充分だ。あなたが努力する姿には美が宿り、そのひと特有の美しさが更に磨きあげられるんじゃないか、と思う。誰かによって押し付けられた美意識に抗い、自分の美意識を貫き通す過程の中で、そのひと特有のニュアンスが、そのひと特有の雰囲気が、そのひと特有の色気が生まれる。僕が憧れる彼らの美しさもきっと、自らの努力によって形作られたものだ。

極端な話だが、あなたがもしも、叶姉妹のような爆裂ナイスバディに憧れていたとする。あなたのカレシは「今のCカップの君の方がいいよ、揉み心地が丁度良いし♡」と言うかもしれない――今これ書いてるだけで、正直サブイボ立つ程薄気味悪いワードチョイスで大変申し訳ないが――けれど、別にあなたがカレシのその意見を採用する必要は、一切ない。
だって、あなたが憧れているのは、ダイナマイトみたいな爆裂ナイスバディなのだから。
整形を助長する気は毛頭ないけれど、豊胸手術だろうが矯正下着だろうが使える手段は(合法的で自分を痛めつけない方法ならば)何だって使って、理想のナイスバディを手に入れればいい。あなたの信じた美しさに向かって努力し、堂々と好きな色の好きなデザインのドレスを着て街を闊歩するあなたの方が、余程美しいしセクシーだと思う。

たとえあなたを赤ん坊の時分から熟知している家族や親しい友人や、命の次に大切に思える恋人であったとしても、必ずしもあなたと同じものを「美しい」と思えるわけではない。何故なら美意識はひとの数だけバリエーションがあり、美しさのかたちもまた、美意識の数だけあるからだ。隣で同じ花を見ているひとの目に、あなたと同じようにその花の色やかたちが見えているとは限らない。

だから、あなたが「美しい」と思うものやあなた自身の容姿が、もしも誰かに「美しい」と言ってもらえなかったとしても、「自分の方が間違ってるのかな」なんて、疑ったり自分を責めたり卑下したり、必要以上に自分を痛めつけてまで相手の「美しさ」に合わせてやったりなんか、絶対しないでほしい。

一度でも自分が思う「美しい」を疑ってしまったり、自分の生来の容姿を貶められたひとにとっては、イマドキ流行りの「ありのままのあなたが美しい」なんて論調は、多分綺麗事に聞こえるんじゃないかと思う。少なくとも、僕はそうだ。
多分、「ありのままのあなた」が美しいんじゃない。「あなた自身が信じた美しさ、を貫くあなた」こそが美しいのだ。だから、僕は声を大にして言いたい。誰になんと言われようと、身近な誰にも理解してもらえなかろうと、今のあなたは美しい。ブレんじゃねえぞ、って。

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イガラシ/五十嵐文章
かねてより構想しておりました本やZINEの制作、そして日々のおやつ代などに活かしたいと思います。ライターとしてのお仕事の依頼などもTwitterのDMより頂けますと、光の魔法であなたを照らします。 →https://twitter.com/igaigausagi