『容疑者Xの献身』人を想うとは vol.400
何度か見たことのある映画『容疑者Xの献身』。
改めて見ましたが、何度見ても引き込まれる楽しさがありました。
私自身理科(物理)の教員なので、ガリレオシリーズは好きでしたし何よりも東野圭吾作品が好きなので、楽しく見れました。
ガリレオはガリレオでも、理系感の薄い作品ですので苦手な方でも楽しめるかと思います。
一番印象に残ったのは、人を想うという行為。
これをどこまで追求できるのか。
「どうして、どうして、、、」
この映画、最も印象的なのが最後の石神とやす子の「どうして、、、」という言葉。
やす子からしてみれば、どうして自分の罪を被ってまで献身的な対応をしてくれたのかという疑問。
石神からするとどうなんでしょうか。
「どうして、、、」
ここにはさまざまな考えが予測されます。
一つのアリバイという名の理論で固められた方程式を、崩してしまう愛というものに対しての疑問。
自分の苦しい時になぜいつも現れて手を差し伸べてきてくれるのかという疑問。
なぜ、こんな誰からも愛されない自分を気にかけてくれるのかという疑問。
さまざまな思いが錯綜するからこそ、石神という人物像が見えてくる場面ではないでしょうか。
歯車として生きている
この映画はそんな石神の狂気じみた感情と、一つそれぞれの社会の中での役割や立場、自分の生き方というところに焦点を当てているように感じました。
自分の望むようなことができていなくても、数学を探究していく場所はどこでも良いと言い切る石神。
稼ぎは決して良くないけど夢であった弁当屋を開店するやす子。
何かをするわけではないが規則正しく毎日同じように過ごすホームレス。
さまざまな登場人物がいる中でも、それらは一見すると関わりがないように見えます。
しかし実はそれらの人たちは歯車のように、どこかで噛み合い互いに影響をする瞬間がある。
これこそが、4色問題とともに作者が伝えたかったポイントなのかもしれません。
4色問題、地図に色を塗る時に4色あれば隣が同じ色にはならずに塗ることができる。
実は関わっていたとしても、直接的に互いに関わらなくとも、社会は動き続ける。
そんなことを表しているのではないでしょうか。
誰が幸せだったのか、、、
この事件の真相を暴いたところで誰も幸せにはならない。
石神は確かにそう言いました。
でもしかし、この問題が誰も解かなかったところで全員が幸せになったのでしょうか。
皆目検討もつきませんが、この映画からは私はそうは思いませんでした。
誰もがよく分からない幸せという名の抽象的なものと、理論的に固められたアリバイ。
この2つが錯綜するからこそ、映画に深みが増し読み取り方にいろんな視点が生まれていくのでしょう。