「人間的」とは何か?
こんばんは。連続投稿って大変ですね。私は学生時代は不勉強でした。
実際に学業成績は非常悪かったです。
大人になってからもっと勉強すれば良かったと何度も後悔したものです。
そんな私でも少し時間が経ってしまいましたが、夏休みに子供から宿題を手伝ってくれと頼まれる無い頭を必死に絞って、課題を解こうと試みます。
それで見た国語の課題で非常に興味深い文章に接することができたので、共有したいと思います。
その文章はペンネーム なだいなだ(本名 堀内 秀)さんの文章です。
1929(昭和4)年~2013(平成25)年 の東京都生まれで精神科医・作家・評論家です。慶応義塾大学医学部卒業後、精神科医として勤務する傍ら文筆活動を始めたそうです。日本のアルコール依存症研究の先駆者です。
この文章は「人間、この非人間的なもの」(1985年刊・ちくま文庫)によるものです。
「人間は人間的であるか?」
と筆者は問います。何の変哲もないものです。
きむきむ、そんな当たり前な質問聞いて大丈夫!?
「そんなの当たり前だろう」
と思うかもしれません。
人間が変化すれば、人間的という言葉の持つ意味も無限に膨らんでいくわけです。
「これでも本当に人間なのか」
という人間離れした人間が現れ、それでも彼が人間
だということになれば、彼のやることも人間的だとなります。
メジャーリーグベースボールで「トリプル150」(150安打・投球回数150回・150奪三振)をした大谷翔平選手などもその例かもしれません。
ところがちょっと話を変えてみましょう。
例えばリンゴのような「ホッペタ」とは何色のホッペタを思い浮かべるでしょうか?
恐らくほとんどの人が「赤色」を思い浮かべるかもしれません。
でも、実際に八百屋さんやスーパーにある林檎は何色でしょうか?
筆者は言います。
筆者は言います。
「バラとバラ色についても言えるでしょう。
最近のバラはバラ色のものが少なくなりました」
(恐らくここで述べているのは百貨店の高島屋の包装紙のようなピンクと白でしょう)
筆者は言います。
ここで私はハッと思いました。「人間らしい」と言った「○○らしい」と言った言葉を使うことがありますが、それは自分自身の中で勝手に固定観念作ってしまってそこで考えてしまっていることなのだと。だから
「これって『人間的』にどうなの?」
と思うことも実は「人間的」と言う言葉とは人間から切り離されているのかもしれません。
筆者は言います。
皆さんにとって人間とは何だと感じますか?
筆者にとってはテレンチウスという古代ローマ時代の劇作家のラテン語の言葉が問いかけさせました。
「ニヒル・フマニ・ア・メ・アリエヌム・プトー」(人間的なことで、私の関心をひかぬものは、なにもないと思う)
筆者が学んだことに私もすごく同意で、ついつい私は人のやることに善悪をつけてしまいます。
人間の悪を非人間的と呼んで、人間から切り離し、自分を人間的と呼び無縁と見做します。
しかし結局、親切にしたり、優しくしたり、積極的だったりと言った前も向きな面も、不貞を働いたり、暴言を働いたり、公衆道徳を破るような良くない面も全て含めて
「人間的」
なのです。
人間的という枠は無限に広がります。
人間は「人間的と言う言葉」の主人なのです。
そして、人間は未完なのです。
そして筆者は言います。
「『人間的』とよばれるものは、私たちを呪縛するためにあるものではなく、忠たちの人間の認識の深さを示すためだけにある。
これを読んで、私は自分の認識の浅さに少し気づいたとともに、人間は未完であると再認識したのでした。
この文章の全文は下記リンクからの詠めますので、ご関心ある方は読んでみては如何でしょうか?
もっと若いうちにこのような良い文章を読むべきだったなと思いました。
そしてこのような文章を多くの人が読み気づきがあれば、誹謗中傷が減り二極化や対立も軽減するのではないかとも思いました。
本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今回は「人」をイメージする画像をAdobeStockから使用させていただきました。
いつもありがとうございます!
それでは、また次回の記事で会いましょう!