【書評】『贈与論(筑摩書房)』マルセル・モース
全体を通して
主に3地域の部族の慣習を例として贈与論を述べていました。
受け取られ、交換される贈り物が人を義務づけるのは、貰ったものは生命のない物ではないということに由来する。
マオリ族では
もらい物には霊(ハウ)がついているとして、
もらった側はその霊(ハウ)をお返ししなければいけない義務を負うと言います。
その物ではなくそれに値する“何か”です。
このことから
何かを誰かに与えることは自分の一部を与えることになる。
霊(ハウ)というのは
自分の体に一部です。
自分の一部を与えて、そのお返しに相手の一部を受け取る。
これを繰り返して生きていくということです。
まさに支え合いそのものです。
競争、対抗、誇示、権威と利益の追求などが彼らの行為の背後にある動機なのである。
前段で「支え合い」と言いましたが、
『贈与』は
支え合うことだけでなく
自分の力の誇示でもあるそうで、
『与え』なければ
奴隷扱いや権威の降格(※部族による)などもあったそうです。
生活は永遠に「与えることと取ること」に他ならない。
上でも述べたことがまさに文として書かれていました。
与える、もらう、与える、もらう
というのを繰り返して人生が成り立っていくということです。
〜中略〜
パプア語とメラネシア語の二つの言語には、
「買うと売る、貸すと借りるを意味する語が一つしかない」
ことを指摘している。
ここは特におもしろいなと思いました。
つまり主体でしかないということです。
例えば日本語では
AさんからみたAさんの『与える』は『与える』ですが、
AさんからみたBさんの『与える』は『もらう』です。
しかし
上の二つの言語では
AさんからみたBさんの『与える』は
あくまでも〈Bさんの『与える』〉に過ぎないので
『もらう』という概念がないということです。
また
『もらっ』たとしても
それに対する『与える』がセットで考えられているため
『与える』の一語だけなのかもしれません。
このことは要するに
概念さえなかったということです。
概念がなければ、それに匹敵する言葉も作れません。
《バカの壁(著 養老孟司)》で同じようなことが書いてあったのを
覚えています。
〜中略〜
目の前の利益を求めて行われると、厳しい軽蔑の的となる。
『得る』というのはいつだって嬉しいことで、
つい強欲になってしまうこともあります。
しかし
その『得ること』をむき出しにした『与える』という行為は
許されないということです。
あくまでも
『与える』という行為は単純なもので、
『歩く』や『食べる』という日常の何気ない行為と同義であると
捉えられているのでしょう。
〜中略〜
物には金銭的価値に加えて感情的価値がある。
マオリ族で言うところの霊(ハウ)ですね。
経済が発展して多少金銭的な価値が生まれた段階でも
霊的なものが宿ると捉えられていたということでしょう。
===
『贈与』というのは
言うまでもなく他人に何かを与えることです。
しかし
この論述を見ていくと、
最終的には自分のためにしていることなのだということがわかります。
人間も
コミュニティを作り社会を形成させてはいますが、
本能的に
自分をどう成長させるか、自分をどう生かすか
ということが染みついているのではないでしょうか。
これらのことが背景にあると
卑しく感じるかもしれませんが
必ずしも卑しいことではありません。
生物として至極真っ当なことのはずです。
ですから
『贈与』というのは
案外本能の進化の形なのかもしれません。