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【書評】『0円で生きる(新潮社)』 鶴見済


お金がたくさん貰える大企業の正社員になれたから幸せ、
なれなかったから不幸というだけの社会では会社に勤めるのが苦手な人にとっては、はなから幸せになれる選択肢などない。
そんな社会では、そもそもいきたいという意欲が失せてしまう。


なんとも簡潔に現代日本を捉えている文だなと思いました。

外国に住んだことがないのであまりわかりませんが、
たしかに
日本人には、
「金持ち=幸せ」という等式が刷り込まれているように思えます。

最近のコロナショックなんかはまさにそうでしょう。
コロナウイルスの影響でリストラ、もしくは店じまいを余儀なくされた方が
生きる意味を失い命を絶つ。
このような方々は
引用にあるような考え方の持ち主だったと言えるでしょう。

『2ちゃんねる』の創始者として有名なひろゆきさんは、

たとえ職を失ったとしても、死に直結するわけではない。
ベーシックインカムという制度もあるし生きる術はまだまだある。
これくらいリスクの基準を下げておけば、どうにでも生きていける。

というようなことを言っていました。

さらに日本では過労死という言葉がありますが
海外ではそんなもの概念さえ存在しないらしく、
英語でもそのまま「karoshi」と言うそうです。

これらのことはつまり
日本ならではの、生きる=働いてお金を稼ぐ=美徳=それ以外は悪
という思い込みの要因なのでしょう。

もちろん生きるためにはお金が必要で
社会に貢献するために働いて経済を回さなければならないのですが、
その基準が高すぎるのではないかと思います。
その勤勉さが日本人の良さとも言えますが、
生きるために働いているのに、働きすぎて死ぬなんて本末転倒です。



日本には見られないこうした動向は、
やはりこの歴史的・宗教的背景があってこそのものだ。


ここでの「こうした動向」というのは
欧州の大富豪が自分の財産の半分を寄付するという活動やチャリティという語源が「神の人間への愛」と「それにこたえた人間の神と隣人への愛」を意味するcaritasという言葉であるということです。

贈与に限らずやはり宗教というのは力が強いと思います。
いわゆる死生観というものが国や地域によって違うのも、宗教が強く関わっているからであるはずです。

欧州ではキリスト教をはじめ、
根強く多くの宗教が存在しますが、
日本では仏教や神道などが存在するものの、
敬虔な信者は多くありません。

そのため考え方もこれだけ違うわけです。



お金はいらないからどんどん作品を使って広めてほしい
〜中略〜


目先の利益を優先してしまうとたどり着けない発想です。

もちろんここでは
ただ広めて欲しいという一心での表現ですが、
最終的に利益を生み出したい場合は以下のような考え方になります。

以前読んだ『革命のファンファーレ(西野彰廣 著)』でも述べられていましたが、作品を無料提供することで先に知名度や顧客を獲得する。
そうすることで
後に出す作品が売れていくという仕組みです。

目の前の利益だけを追い求めていくと
無料なんてことは絶対にできないでしょう。



現在の先進資本主義国で起きている脱所有の流れは、私有が行きつくところまで行き、物が溢れかえり、人々がこの先もさらに物を生産することに違和感を持つようになった結果だ。


「ミニマリスト」というものが流行り出しているのもこれが要因だと思います。

ぼくも最近少しミニマリストへとスタイルを傾けているのですが、
自分の身の回りの物を合理的に判断していくと
おもしろいくらいに「なんでこんな物持ってるんだろう」とポンポン断捨離していくことができます。

しかも所有というのにはお金がかかります。
この本のタイトルにもあるように0円で生きるためには、当たり前ですが節約するのが前提です。
ですから
お金がかかる所有は自然と選択肢から消えていくのだと思います。



捨てられたゴミからまだ使えるものを貰ってきて有効に使うことは、
先進国、途上国を問わず世界中で行われている人々の大切な営みだ。


筆者の鶴見さんも日本人だし、
例として挙げられている場所も日本ではありますが、
日本では、
「ゴミを拾う」ということに抵抗があると思います。

合理的に判断すれば、
まだ使えるゴミを再利用するということはとても環境に良いことです。
しかし
我々日本人は、どこか倫理的な作用がはたらき
否応なしに「汚い」、「みっともない」と結びつけてしまいます。

さらに
ゴミを無断で持ち去ることが条例で禁止されていたり、飲食物の場合「衛生上の問題どうのこうの」と言われたりと
社会的にも「ゴミを拾う」、「ゴミを貰う」というのは容易なことではありません。

ただやはり文中にも後にも述べられていましたが、ゴミを有効活用することは本来咎められるような行いではありません。



ワークエクスチェンジ


ワークエクスチェンジとは
家事や家業を手伝う代わりに、寝床や食事を提供してもらうという
交換システムのことです。

価値の交換として、一つおもしろいアイデアだなと思いました。



〜中略〜心の悩みは、聞いてもらえるだけで随分助かるものだ。


まさにその通りだと思います。

ぼくも以前心の悩みを抱えている時期がありました。
しかし言葉数が少なく、話下手ということもあってずっと一人で抱え込んでいました。

そんな時に
大学のゼミの担当教授に話す機会があったのですが、
解決とまでは至らなかったものの、そこで話しただけで少し憂さが晴れた気がしたのです。

人の悩みは案外聞いてもらえるだけでもスッキリします。
それを、聞く側が積極的に機会を設けるというのも大きな助けになると思います。



〜中略〜
お金を使うことは、人間関係の省略
〜中略〜


この文の前にも述べてありましたが、
無料で何かをするされるというのには通常よりも濃い人間関係が必要とされます。
またそれが初対面の人とのものでも、
その後の関係は多少密になります。

このことから裏を返せば、
お金を介在させるということは
その人間関係を抜きにして考えることになるので省略と言えるのだと思います。

さて、上のような言い方をすれば
せっかくの人との関わりをみすみす逃すので、
お金を使うことが悪いようにも聞こえます。

しかし必ずしもそうではありません。

あえてお金を介在させることで
関わりたくない人との関係をあらかじめ断つ
という考え方もできます。

現代では、
時間を作るためにお金を使うという行為が流行っているように思えますが
それこそがここで述べられていることのようにも思えます。



まとめ

0円できるためのあらゆる方法が紹介されていて、
改めて公共施設の活用や廃棄物の収集、作物の自作の大切さを感じました。

ただこれらは、
本当に全てが0円で済むというわけではありません。
もちろん
格安ではありますが、0円ではないものもありました。

このことから
やはり現代では、生きるためにはどうしてもお金がかかってしまうのだなと改めて感じました。

良くも悪くもこれが発達した社会なのだと思います。


また筆者は
「脱資本主義」というものを掲げていました。
お金でものごとを考えるのではなく、
古来から行われていた「贈与」を基本とした考えです。

これについてはぼくも考えたことがあります。

たしかに
これだけお金に左右されるような社会に生きていると、
反対にお金を抜きにした生き方ができないものかと思い、社会主義や共産主義的な形態を思いつきます。

しかしこれらは歴史も証明しているように
打開策とは言い切れません。
しかも
より良い暮らしを追求した結果が今のような形であるはずなので
今更どうこうできないでしょう。

このような結論を出したぼくは、
「資本主義を見直す」という考えについては少し警戒してしまうようになりました。
ですからここでの「脱資本主義」というのにも斜に構えていました。
しかし
ここでの「脱資本主義」というのは
あくまでもお金儲け至上主義からの脱却であって、
社会主義や共産主義を推し進めるものではありませんでした。


もちろん皆が皆このような生き方をしてしまうと
社会は成り立たなくなってしまうので、
十人十色の生き方としてこのような「脱資本主義」の考えがあってもいいのかなと思いました。





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