昔話🕯️は時間と場の文芸
知っているようで、知らない昔話。
昔話はなぜ伝えられてきたのか、
民族の知恵といわれるのはなぜなのか。
「本当は怖い・・」とか「大人の・・」とか「昔話裁判」とか、昔話を題材にしたものは多いのに、昔話を伝える、語る努力は見捨てられている現代。
昔話は「昔にあった物語」ではない。
昔話は「今に伝えられてきた生きる知恵」なのだけど、
今のように「あらすじ」や「要約」が隆盛の時代にはなかなか伝わらない。
私もどうやって言葉にすればいいかと思っていたところに、昔話の研究大家の小澤俊夫さんの本がわかりやすく書いてあったのでご紹介。
(小1時間ほどで軽く読めます)
以下、この本を読んでです。
昔話は時間と場の文芸
昔話は語られるもの。
本であれば途中でしおりを挟んで続きを読むこともできるし、
ネット記事であればブックマークを挟んでおくこともできる。
けれど、昔話は「語り」なのでその場、その時、その人との間柄で進んでいく。はじまった話を途中でやめることはできない。やめると別の話になる。
まるで落語の寄席やライブのよう、その場にいる人がつくりあげるもの。
自分が語り始めてわかったことは、同じ文章を覚えて語っているのに、一度として同じ語りができたことはない。
昔話は「あらすじ」ではないところに妙味がある。
昔話は「発句」と「結句」の間にあるファンタジーの世界
「昔あったてんがの」などの発句からはじまり「とっぴんぱらりのぷう」などの結句で終わる間のお話が昔話。
その間で語られることは「本当ではない(現実ではない)」ことが前提の物語。
あったことを「実際にはなかったこと」のように語られる。
伝説がなかったことも「現実にあったこと」のように語られるのとは真逆になる。
昔話は嘘の話なので必要ない?
「嘘の話にしているんです」
本当のことをそのまま語ることはできないから、動物が喋ったり、桃から子どもがうまれたりする。
大事なのは、昔話が困難を乗り越えていくこと。
お話を聞くときは外からお話を見ているのではなく、お話の中の誰かに自分がなって物語の中を冒険していく。
冒険が終わると「とっぴんぱらりのぷう」と結句で現実に戻る。
DVDやTVをみているのとは訳が違う。自分が入り込むのが昔話。
昔話は残酷?大人の感性と子どもの感性は違う
「三匹のこぶた」ではオオカミは死んでこぶたの晩ご飯になる。
「馬方やまんば」では山姥は焼け死んで馬方は宝を手に入れる。
殺してしまうのがかわいそう、昔話は残酷と、こんなことを聞くことがあります。
(昔話のように残酷な話を聞いて育ったら残酷な大人になるとまで。「昔話を知っているあなたは残酷な人間ですか?」と本では返してました)
いやいや、自分を襲いに来る強い悪者がのさばっている方が怖いでしょう。
子どもの世界は小さくて狭いです。
乳児の目の焦点が合うのは30cmぐらいといわれ、抱っこされておっぱいを飲む距離。おっぱいをもらいながらこの人が安心できる人だとわかっていく。何もわからない怖い世界から安心できるものを探っていく。
子どもに「知ってる?」と聞く大人がいますが、子どもは知らないのが当たり前。
周りの大人が教えて、経験をして、知っていく。
怖い思いをさせるオオカミや山姥が死んでいなくなってハッピーエンド。
何もできない小さな存在(自分)がやっつけることができて自信になる。
おはなしの中でする体験が「きっとなんとかなる」という自信をつくっていく。
昔話は体験を共有する時間と場の文芸だから、人から人へをゆっくりと伝わるのみで、フォロワー何万人というような形では広がらない。
だけど昔話は、時間と空間を超えて世界中に広まっている。
どうか、自分が聞いてよかったと思う話をそのまま伝えていってほしい。
大人の感覚で昔話を「つくって」広まることがないように願うばかりです。