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わたしたちが生きているのは練習か、本番か。

先日、カタカナの授業をしながら「これは、練習本番だよ〜」ということばが出てきました。

自分で言っておきながら、「練習本番」ってなかなか味わい深いことばです。

あとから振り返ってみて、これって人生と同じかも?と思えてきました。

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子どもたちが授業で使う(つくる)ノート。

教科書なしの授業を受けているうちの学校の子どもたちにとって、ノートは自分でつくる教科書のようなものです。

できるだけノートにはきれいなものを残せるように、

練習:チラシの裏紙
本番:ノート

こんな使い分けをすることがよくあります。

特に、フォルメン線描など芸術系のテーマに取り組むときは、この使い分けが頻発します。

では、カタカナの授業ではなぜ「練習本番」が出てきたかというと・・・文字を書く準備として、フォルメン線描を使ったからです。

いつもだったら”いきなり”ノートにフォルムを描くことはないけれど、今回はカタカナの授業。「練習本番」として、最初からノートに描くことがゆるされたというわけです。

練習でありながら、同時に本番でもある。

”完成”や”到達”をめざしながら、代わりのない”いま・ここ”も大切にする。

そんな風に練習と本番が微妙に混ざりあっている場面、人生にもたくさんあるよな〜なんて、しみじみと思いました。

たとえば、街の景色。

むかし渋谷で働いていたとき、駅やビルや道のどこかしらが、いつも”工事中”でした。一体、渋谷という街の景色はいつ”完成”するのやら。そもそも、”完成”なんてないんだろうか?と思いました。

ちなみに、地元の博多駅も高校時代の3年間、ずっと”工事中”でした。でも、大学進学で県外に行って、忘れた頃に帰省してみたら・・・いつのまにか”完成”していました。それも見事な”完成”っぷり。こんなパターンもあるんですね。

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家事の進め方もそう。

わたしのパートナーは練習と本番のスイッチをきびきびと切り替えられる人で、わたしは練習本番の意識が強い人のようです。

その違いは、一緒に料理をすれば一目瞭然。

わたしは料理をしながら同時に小掃除もして、できるだけ”目にやさしい”状態をキープしたいのですが(空間がイガイガしていると、心にまで影響してくるので)、相手は「ガーッとつくって、ガーッと片付ける」というタイプ。

散らかさないように、汚さないように、同時並行で細々と注意しているわたしからすると、「あとでまとめてやりゃあいい」と豪快に物事を進める相手が怪獣のようにみえるときがあります(笑)

この違いから、家事の負担や頻度に対する認識も当然ずれてしまっていて、大揉めすることがよくありました。

違いは違いのままに共存できるようになったのは、最近になってやっとのことです。

わたしは「練習本番」ということばから、

練習と本番を同時に意識するのは得意だけれど、メリハリをつけて切り替えるのは苦手。

こんな風に自分のことを理解しました。(それがいいとかわるいとか、ジャッジはいたしません。)

よく考えてみれば、noteで話題にしていることも「練習本番」みがあるような。

みなさんは、どんなタイプですか?

おしまい。

サポートしていただけたら、毛糸を買って何か編みます☆彡