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精一杯のはなむけを。

私にとって、彼女という人間を端的に表現する言葉は「憧憬」である。

(この文章は、かつての戦友であり永遠のソウルメイト(と思いたい)へ精一杯のエールを込めて書く、エゴ要素強めの自己完結モノです。己の気持ちを残しておきたいため記します。数年後読み返してみたらまた気持ちが変わっているかもですね。大体そんなものでしょう。)


さて。
彼女と初めて話したのは小学5年生であろうか。
お互いが所属する男子サッカーチームでの試合会場のトイレですれ違ったのが始まりだと記憶している。

常にチームメイトからの叱責に怯え、情けないけどどうしようもない、と日々に絶望していた私(過去記事「【不登校】吃音症で障害者手帳を取得することを決意するまでの記録②(10~15歳)」にも記載)は、彼女のプレーを初めて観たとき、自分との違いに心底驚いたのを覚えている。

積極的にドリブルを仕掛け、積極的にボールを呼び込む。
PKのチャンスがあればキッカーに名乗り出る。

それだけではない。
彼女がとてもチームメイトから信頼されているように当時の私の目には映った。
完全に私とは正反対の「格好良い」選手であった。
我がチームの監督やチームメイトも絶賛していたのを記憶している。


そんな出会いから約15年。
正直に書くのであれば、私は彼女に対し、畏敬の念を抱き続けている。

出会った時から常に「完全なる負け」と「それ故の憧れの気持ち」を抱いており、「尊敬」「憧れ」「恐怖」「緊張」といった「近寄りたいけど近寄りたくない」という、何とも捻くれた感情を持ち続けているのである。

要するに、私にとって彼女のプレーを観ることは、自分のウィークポイントを自覚することを意味し、落ち込んだり、素直に尊敬したり、時には「よし、私も頑張るぞ」とやる気になったり、「彼女に見られて恥ずかしくない人間でいよう」と自分を引き締めたり、感情や思考の変化が起こる「きっかけ」になる、のである。

ところで、
私から観た彼女は、「なぜ上手いのか分からない。でも絶対に負けない選手。」であった。

失礼極まりないが、パッと見ストロングポイントが見えないのである。
どちらかというと足は後からヌッと出てくる印象であるし、キック・ドリブル・テクニック・シュート・体格…等々の分かりやすい特徴がある訳でもなさそうに見える。

しかし、絶対に負けないのである。
競り合いになったとしても、最終的には彼女がボールを手にしているのである。

具体的に言うのであれば、ボールを奪われることが極端に少ない。
例えミスがあったとしても、絶対に続かないのである。
故に、チームメイトや指導者からの信頼が厚い。

だから私は、彼女以上に「隙がない」人間を知らない。

それはサッカーだけの話ではない。
人間性もそうである。
とにかく「隙がない」若しくは「隙がないように見える」のである。
尊敬心が生まれない訳がない、のである。


幸か不幸か、直接対決は数える程しかない。
だが、27歳になった現在でも色褪せることなく映像記憶として私の中で再生され続けている場面がひとつある。

中学校3年生の県リーグ。
お互いボランチでプレーしていた、と思う。


彼女がシュートモーションを止め、切り返して逆足でのシュートフォームに入る。
私は足を出してギリギリ止める。


ほんの数秒程度のプレーである。
恐らく、観ている側からしてみれば「惜しかった」若しくは「よく防いだ」程度の場面である。

だが、【この場面があったから】私はその後も数年間サッカーに取り組むことができたのである。
ずばり「唯一、彼女と渡り合えた一コマ」であったからである。
「唯一、負けなかった場面」と言ってもよい。

私を勇気付け、鼓舞してくれ、「まだまだやれるかもしれない」と思わせてくれた宝物の記憶である。



己のことをつらつらと書き、また、彼女のことを知ったように書いているが、恐らく私は彼女のことを1割程度しか知らないのであろうと思う。
一定の距離を保ち続けてきたのであるから、当然の報いである。

彼女には彼女の思う「己のレベル」があるであろうし、それ相応の努力や苦悩・物語があるはずである。

彼女がこれを読めば「全く違うぞ」と怒られてしまうかもしれない。
しかし、それでも私は「貴方のことを尊敬している」と伝えたい。

それと同時に「尊敬の気持ちが故に、いや、尊敬と同居する緊張感故に一定の距離を保っていることへの懺悔」も可能であれば伝えたい。
もしかすると私はその言い訳がしたくて、先ほどからキーボードを叩いているのかもしれない。


私のサッカー人生の転落は、中学3年生である。
逆に言うと、私のサッカー人生の最高期は中学1年生であったと思う。
心から、楽しかった。
大人と対等にやり合えることが。
技術のある先輩と経験のある大人に囲まれていたことが。
中学2年生で目に見える周囲との技術力の差に目を背けなんとかナショトレに選出されたものの、翌年は予備人員であった。

そこからだ、と思う。
事実というのは分かりやすい。
彼女と対等な立場でいる権利が無くなった、と思った瞬間であった。

それから先も彼女の背中は遠ざかる一方であった。

彼女はサッカーを続け、私はサッカーを辞めた。
彼女の本音は分からない。だが、私は第一志望の大学には行けなかった。
彼女の夢は分からない。だが、私は第一志望の機関には就職できなかった。

そして私は今、心の奥底にある夢とは違う仕事をしている。

どうだろうか。
書けば書くほど虚しくなる。
自分が如何に平凡な人間で、特筆すべき事項がない人生を歩んでいるかがありありと伝わってくるのである。

昔、彼女と同じ土俵に立っていた自分が、気付けば二軍に落ち、もがききれずに三軍に転落していくような気持ちだ。

彼女から距離を取るようになっていったのは、自己防衛だろう。
ダメな自分を見られたくないという、プライドだろう。

ここ数年そのような状態であった。
そのような状態の中で、彼女の引退を知ったのである。

「もったいない」とか、そんな気持ちは湧かなかった。
ここ数年彼女のプレーを見ていないのだから、「もったいない」と言える立場に無い。
オリンピックでしか観たことない選手の引退を知って「早くない?」と言うようなものだ。
無責任で、他人事だ。

でも、彼女が何を考えているのかは気になった。
今までのこと、今のこと、これからのこと。


そして、本当に情けなくて書くのも憚られるほどだが、プレイヤーではなくなった彼女になら会えるかもしれない、と思ったのだ。
なんとも自分勝手だ。
だが、サッカーという繋がりを除いても、自分は彼女を求めているのだということを改めて痛感した。

私は彼女のことが嫌いなわけではない。
彼女に見られても構わない自分、がいないことが嫌なのだ。
彼女に会ったら呆れられて嫌われてしまうかもしれない。
それが嫌だ。
これが私がずっと抱えていた気持ちであろう。

大好きではないか。余りにも大好きではないか。
プライドというのはどうしようもなく、めんどうくさいシロモノだと改めて思う。
だが、人間、プライドが無くなったら終わりだ。
向上心が無くなる。

私はこれから、彼女にとって情けなくない自分で居たい。
あえて定期的に会うのも刺激になって良いかもしれない。

昔のような目に見える仲良しにはならないかもしれない。
だけど、彼女の選択を私が「間違っている」と思うことは有り得ないし、彼女がやりたいことをできていたら嬉しいと思う。

これはいつも遠くから彼女を見ていた私の心中だ。

彼女が適当な選択をすることは有り得ない。
彼女が適当な人生を歩むことは有り得ない。
だからこそ、途中経過は聞かなくても良い。
結論だけ聞いて、あとは全力で応援する。

願わくば、願わくば「あいつも頑張ってるっぽいしな」と時々思い出してもらうような存在になれたら幸せこの上ない。
私は、彼女の再出発を全力で見守り、自分の再構築も図りたい。

まずは、今まで最前線で戦い続けてきた彼女の精神的強さと、輝かしい実績にありったけの拍手を送りたい。
試合を観に行かなかったのは、私の弱さである。
本当に、本当に申し訳ない。
再度、自己防衛だったという言い訳をさせてほしい。

そして、己で己の道を決め再度歩み始めたことも。
目に見える形での応援は減るかもしれない。
実績も目に見えるものではなくなってくるかもしれない。

だからこそ義務と己の気持との狭間で悩むことが沢山あるのではないかと思う。
でも貴方なら大丈夫である。
築いてきた信頼は、必ず貴方の力になる。
プレイヤーとしての経験は、必ず貴方の思考の手助けをする。
これまで得た実績は、必ず貴方を支える。

次会うときに、今より良い自分に。
今より誇れる自分に。
貴方の背中を追いかけ続けてきた私が言うのはおこがましいですが、お互い頑張っていきましょう。

長い長い選手人生、お疲れ様でした。
貴方の未来に、幸溢れますように。
花束でも包みでもなく、エールの言葉を送ります。

腐らずいきましょう。
良い人生を!!!!!!




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