二宮翁夜話 第二章

第二章 誠の道の巻

九 誠の道は天地の経文にて知れ

 翁曰く、夫れ誠の道は、学ばずしておのずから知り、習わずしておのずから覚え、書籍もなく記録もなく、師匠もなく、而して人々自得して、忘れず。
是れぞ誠の道の本體なる。
渇して飲み飢えて食い、労れていね覚めて起く、皆此の類いなり。
古歌に「水鳥のゆくも帰るも跡たえてされども道は忘れざりけり」といえるが如し。
夫れ記録もなく、書籍もなく、学ばず習わずして、明らかなる道にあらざれば、誠の道にあらざるなり。
夫れ我が教えは書籍を尊まず、故に天地を以て経文とす。
予が歌に、「聲もなくかもなく常に天地は書かざる経をくりかえしつつ」とよめり。
斯の如く日々繰り返し繰り返して示される天地の経文に、誠の道は明らかなり。
かかる尊き天地の経文を外にして、書籍の上に求める学者輩の論説は取らざるなり。
能く能く目を開きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ねるべきなり。
夫れ世界横の平は水面を至れりとす。
竪の直ぐは、垂針を至れりとす。
凡そ此の如き萬古動かぬ物あればこそ、地球の測量も出来るなれ。
是れを外にして測量の術あらむや。
暦道の表を立てて影を測るの法、算術の九九の如き、皆、自然の規にして萬古不易の物なり。
此の物によりてこそ、天文も考うぶく暦法をも算すべけれ。
此の物を外にすれば、いかなる智者といえども、術を施すに方なからん。
夫れ我が道も又然り。
天言いわず而して、四時行われ百物成る處の、不書の経文、不言の教え戒め、即ち米を蒔けば米が生え、麦を蒔けは麦の実法るが如き萬古不易の道理により、誠の道に基づきて、之れを誠にするの勤めをなすべきなり。
 

【本義】

【註解】

十 誠の道はただ一筋なり
 
 翁曰く、世の中の誠の大道は只だ一筋なり。
神といい儒といい佛という、皆同じく大道に入るべき入り口の名なり。
或いは天台といい、眞言といい、法華といい、善意のと云うも、同じく入り口の小路の名なり。
夫れ何の教、何の宗旨というが如きは、譬えば爰に清水あり。
此の水にて藍を解きて染めるを紺屋と云い、此の水にて紫をときて染めるを、紫屋と云うが如し。
其の元は一つの清水なり。
紫屋にては、我が紫の妙なる事、天下の反物染める物として、紫ならざるわ無しと誇り、紺屋にては我が藍の徳たる洪大無邉なり、故に一度此の瓶に入るれば、物として紺とならざるは無しと云うが如し。
夫れが為めに染めに染められたる紺や宗の人は、我が宗の藍より外に、有難き物は無しと思い、紫宗の者は、我が宗の紫ほど尊き物は無しと云うに同じ。
是れ皆所謂三界城内を、躊躇して出る事あたわざる者なり。
夫れ紫も藍も、大地に打ちこぼす時は、又元の如く、紫も藍も皆脱して、本然の清水に帰るなり。
其の如く神儒佛を初め心学性学等枚学に暇あらざるも、皆、大道の入り口の名なり。
此の入り口幾箇あるも至る處は必ず一の誠の道なり。
是れを別々に道ありと思うは迷いなり。
別々なりと教えるは邪説なり。
譬えば不士山に登るが如し。
先達に依って吉田より登るあり、須走より登るあり、須山より登るありといえども、其の登る處の絶頂に至れば一つなり。
斯の如くならざれば眞の大道と云うべからず。
されども誠の道に導くと云いて、誠の道に至らず、無益の枝道に引き入れるを、是れ邪教と云う。
誠の道に入らんとして、邪説に欺かれて、枝道に入り、又、自ら迷いて邪路に陥るも、世の中少なからず。
慎しまずんばあるべからず。

【本義】

【註解】

十一 不書の經文は心眼を以て讀むべし

 翁曰く、夫れ天地の眞理は、不書の經文にあらざれば、見えざる物なり。
此の不書の経文を見るには、肉眼を以て、一度見渡して、而して後、肉眼を閉じ、心眼を開きて能く見るべし。
如何なる微細の理も見えざる事なし。
肉眼の見る處は限りあり。
心眼の見る處は限りなければなりと。
大島勇助曰く、師節實に深遠なり。
おこがましけれど、一首詠めりと云う。
其の歌「眼を閉じて世界の内を能く見れば、晦日の夜にも有明の月」
翁曰く、卿が生涯の上作と云うべし。

【本義】

【註解】

十二 天地の大道は水の如く、書籍は氷の如し

 翁曰く、大道は譬えば水の如し。
善く世の中を潤沢して、滞らざる物なり。
然る尊き大道も書に筆して書物と為す時は、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし。
譬えば水の氷りたるが如し。
元水には相違なしといえども、少しも潤沢せず、水の用はなさぬなり。
而して書物の注釈と云う物は又、氷柱の下りたるが如く、氷の解けて又氷柱と成りしに同じ。
世の中を潤沢せず。
水の用を為さぬは、矢張同様なり。
扨此氷となりたる經書を、世上の用にたてんには胸中の温氣を以て、能く解かして、元の水として用いざれば世の潤沢にはならず。
實に無益の物なり。
氷を解かしべき温氣胸中になくして、氷の儘にして用いて水の用をなす物と思うは愚の至りなり。
世の中神儒佛の学者有って世の中の用に立たぬは是れが為なり。
能く思うべし。
故に我が教えは實行を尊む。
夫れ經文と云い經書と云う、其の經と云うは、元機の竪糸の事なり。
されば、竪糸ばかりにては用をなさず。
横に日々實行を織り込みて、初めて用をなす物なり。
横に實行を織らず、ただ竪糸のみにしては益なき事、辯を待たずして明らかなり。

【本義】

【註解】

十三 米蒔きて米の實るは神道の加護なり

 某曰く、予薄運か、神明加護なきか、為す事成らず、思う事齟齬すと。
翁諭して曰く、汝過てり、薄運なるにあらず、神明加護なきにあらず、是れ則ち神明の加護にして則ち厚運なるなり。
只だ願う所と為る所と違えばなり。
夫れ汝が願う所は瓜を植えて茄子を欲し、麦を蒔きて米を欲するなり。
願う事ならざるに非ず、成らざる事を願えばなり。
然して神明加護なしといい、又、薄運と云う。
過ちにあらずや。
夫れ瓜を蒔きて瓜の熟り、米を蒔きて米の實法るは、天地日月の加護なり。
然らば則ち悪をなして刑罰来たり、不善をなして禍い来るは、天地神明の加護、米を蒔きて米を得ると同じ。
然るに神明加護なしと云う過ちならずや。
 

【本義】

【註解】

十四 翁畢世の覺悟を吐露す

 翁曰く、親の子における、農の田畑に於ける、我が道に同じ。
親の子を育てる無頼となるといえども、養育料を如何せん。
農の田を作る、凶歳なれば、肥代も仕付料も皆損なり。
夫れ此の道を行わんと欲する者は此の理を辨ふべし。
吾れ始めて小田原より下野の物井の陣屋に至る。
己れが家を潰して、四千石の興復一途に身を委ねたり。
是れ則ち此の道理を基ずけるなり。
夫れ釋氏は、生者必滅の理を悟り、此の理を拡充して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日の如き道を弘めたり。
只だ此の一理を悟るのみ。
夫れ人、生れ出でたる以上は、死する事のあるは必定なり。
長生きといえども百年を越えるは稀なり。
限りのしれたる事なり。
夭と云うも壽と云うも、實は毛弗の論なり。
譬えば蝋燭に大中小あるに同じ。
大蠟といえども、火の付きたる以上は、四時間か五時間なるべし。
然れば人と生まれ出でたるうえは、必ず死する物と覚悟する時は、一日活きれば則ち一日の儲け、一年活きれば一年の益なり。
故に本来我が身もなき物、我が家もなき物と覚悟すれば、跡は百事百般皆儲けなり。
予が歌に、「かりの身を元のあるじに貸し渡し民安かれと願う此の身ぞ」夫れ此の世は、我人ともに僅の間の仮の世なれば、此の身は、かりの身なる事明らかなり。
元のあるじとは天を云う。
このかりの身を我が身と思わず生涯一途に、世のため人のためのみを思い、國のため天下の為めに益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免れ富有になり、土地開け道橋整い安穏に渡世の出来るようにと、夫れのみを日々の勤めとし、朝夕願い祈りて、おこたらざる我が此の身である、という心にてよめる也。是れ我れ畢生の覚悟なり。
我が道を行わんと思う者は知らずんばあるべからず。

【本義】

【註解】

十五 我が生涯の業は荒蕪を開くにあり

 翁曰く、予が生涯の業は、總べて荒蕪を開くを以て勤めとす。
然して荒蕪に數種あり。
田畝の荒れたるあり。
是れは國家の荒地なり。
又負債多くして家禄を利足の為めに取られ、禄ありて禄なきに至るあり。
是れ國家の為めに生地にして、其の人の為に荒地なり。
又、薄地麁田、公租と村費丈けの取穀あって作無き田畑あり。
是れは上の為めに生地にして、下の為めに荒地なり。
又、身體強壮にして怠情に日を送る者あり。
是れ自他の為めに荒地なり。
資産あり金力ありながら、國家の為めになることを為さず、徒らに驕奢に耽り、財實を費やすあり。
是れ世上大なる荒蕪なり。
又、智あり才ありて遊藝を事とし、琴棋書晝などをもて遊びて世の為めを思わず、生涯を送るあり。
是れも世の中の荒蕪なり。
是れ等數種の荒蕪は、其の元心田荒蕪を開きて後は、田畑の荒蕪に及びて此の數種の荒蕪は、其の元心田荒蕪よしする物なれば、我が道は先づ心田の荒蕪を開くを先とすべし。
心田の荒蕪を開きて後は、田畑の荒蕪に及びて此の數種の荒蕪を開きて熟田となさば、國の富強は掌を運らすが如くなるべきなり。

【本義】

【註解】

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