二宮翁夜話 第十四章

第十四章 青年訓の巻

八十五 先づ瑕のない人となれ

 年若きもの敷名居れり、翁喩して曰く、世の中の人を見よ。
一銭の柿を買うにも、二銭の梨子を買うにも、眞頭の眞直人なる瑕のなきを撰りて、取るにあらずや。
又、茶碗を一つ買うにも、色の好き形の宜きを撰り撫でて見、鳴らして音を聞き、撰りに撰りてとなるなり。
世人皆然り。
柿や梨子は買うといえども、悪しくば捨てて可なり。
夫れさえも此の如し。
然れば人に撰ばれて、聟となり嫁となる者、或は仕官して立身を願う者、己が身に瑕ありては人の取らぬは勿論の事、その瑕多き身を以て、上に得られねば、上に眼のないなどと、上を悪しくいい、人を咎るは大なる間違いなり。
自らかえり見よ。
必ずおのが身に瑕ある故なるべし。
夫れ人身の瑕とは何ぞ。
譬えば酒が好きだとか、酒の上が悪いとか、放蕩だとか、勝負事が好きとか、惰弱だとか、無藝だとか、何か一つ二つの瑕あるべし。
買い手のなき勿論なり。
是れを柿梨子に譬えれば眞頭が曲りて渋そうに見ゆるに同じ。
されば人の買わぬも無理ならず。
能く勘考すべきなり。
古語に内に誠あれば、必ず外に顕らわれるとあり。
瑕なくして眞頭の眞直なる柿の売れぬと云う事あるべからず。
夫れ何ほど艸深き水中に潜伏する鰻、鰌も、必ず人の見付けて捕まえる世の中なり。
されば内に誠有りて、外にあらわれぬ道理あるべからず。
此の道理を能く心得、身に瑕のなき様に心がくべし。

【本義】

【註解】

八十六 若い時の努力と柿の譬へ

 翁曰く、因果の理を此の柿の上にて説かんに、柿の實を見よ人の食となるか、鳥の食となるか、落ちて腐るか、未だ其の將來知れざる以前、枝葉の陰にある時の精力の運びに因り熟するに及んで、市に出し売られる時三厘になり、五厘になり、一銭になるあり。
其の始めは同じ柿にして、熟するに随いて此の如く区々に価値の異なるは、是れ皆過去枝にある時の精力の運び方の因縁に依るなり。
天地間の萬物皆同じ。
隠微の中に生育して、而して人に得られて、其の徳をあらわすなり。
人又此の如し。
親の手元にある時、身を修めて諸芸を学び、能く勤めたる其の徳に依って一生の業は立つなり。
凡そ人小壮の時学べばよかったと後悔心の出るは、柿の市に出でて後に、今少し精氣を運んで、太く甘くなればよかったと思うに同じ。
後悔先きに立たぬものなり。
古人前に悔めと教えたるあり。
若輩者能く思うべし。
故に修行は入るか入らぬか、用に立つか用にたたぬか知れぬ前に、能く学びおくべし。
然せざれば用に立たぬものなり。
柿も枝葉の間にある時太くならざれば、市に出て仕方なきに同じ。
此れ則ち因果の道理なり。

【本義】

【註解】

八十七 青年よ、よく家道を研究せよ

 翁曰く、若輩の者は、能く家道を研究すべし。
家道とは分限に応じて我が家を持つ方法の事なり。
家の持ち方は、安きが如くなれども、至って六つかし。
先づ早く起きより始めて、勤倹に身を馴らすべし。
夫れより農なり、商なり、家業の仕方を能く学ばずして家を相続するは、價將棊に譬ふれば、駒の並べ方を能く知らずして指さんとするが如し。
指す毎に打ちまけて詰まり失敗するは眼前なり。
若し余儀なくこの修業出来ずして相続せば、親類後見人など能き人を師として、一々差図を乞うて、それに随うべし。
是れ将棋を一手毎に教えを受けて指すに同じ。
さすれば間違いなし。
然るに慢氣して人に相談せず、氣儘に金銀を遺わば、忽ち金銀を相手に取られるべし。
譬えば父の拵えたる家を相続するは、将棋の駒を人に並べて貰いたるが如し。
凡て将棋の道を知らずして、我が思う儘に指せば、失敗は知れたる事なり。
中庸に愚にして自用を好み、賤にして自専を好み、今の世に生まれて古の道に反く、此の如くなれば、災い必ずその身に及ぶとあり。
今の世に生まれて古の道に反くとは、後世の子孫と生まれて、先祖数代の家具を不足に思い、傳来の家具を不足に思い、先祖の家を誹したり、勤倹の道に背きて驕奢にふけるを云うなり。
古人はかく懇ろに戒め置けり、愼むべし。

【本義】

【註解】

八十八 一心の覚悟は静就の基なり

 翁曰く、茶師利休が歌に「寒熱の地獄に通う茶柄杓も、心なければ苦しみもなし」と云えり。
此の歌未だ盡くさず。
如何となれば、其の心無心を尊ぶといえども、人は無心なるのみにては、國家の用をなさず。
夫れ心とは我心の事なり。
只だ我を去りしのみにては、未だ足らず。
我を去って其の上に、一心を決定し、毫末も心を動かさざるに到らざれば尊むにいたらず。
故に我れ常に云う。
此の歌未だ盡くさずと。
今試みに詠み直さば「茶柄杓の様に心を定めなば湯水の中も苦しみなし」とせば可ならんか。
夫れ人は一心を決定し動かさざるを尊むなり。
夫れ富貴安逸を好み貧賤勤労を厭うは、凡そ情の常なり。
聟嫁たる者、養家に居るは、夏火宅に居るが如く、冬寒野に出るが如く、又、實家に来る時は、夏氷室に入るが如く、冬火宅に寄るが如き思いなる物なり。
此の時其の身に天命ある事を辨え、天命の安んずべき理を悟り、養家は我が家なりと決定して、心を動かさざる事、不動尊の像の如く、猛火背を焼くといえども動かじと決定し、養家の為めに心力を盡す時は、實家へ来らんと欲するとも其の暇あらざるべし。
斯の如く励む時は、心力勤労も苦にはならぬ物なり。
是れ只だ我を去ると、一心の覚悟決定の徹底にあり。
夫れ農夫の暑寒に、田畑を耕し、雨風に、山野を、奔走する、車を押し、米搗の米を搗くが如き他の慈眼を以て見る時は、其の勤苦云うべからず。
氣の毒の至りなりといえども、其の身に於いては、兼ねて決定して、労働に安んずるなれば、苦には思わぬなり。
武士の戦場に出で野にふし、山にふし、君の馬前に命を捨てるも、一心決定すればこそ出来るなれ。
されば人は天命を辨へ天命に安んじ、我を去りて一心決定して、動かざるを尊しとす。

【本義】

【註解】

八十九 天理に合わせば富貴天より来る

 翁曰く、爰に物あり。
売らんと欲すれば、根を洗い枯葉を去り、田圃にある時とは其の様に異にす。
是れ売らんと欲する故なり。
卿等此道を学ぶとも、此の道を以て、世に用いられ、立身せんと思う事なかれ。
世に用いられん事を願い、立身出世を願う時は、本意に違い本體を失うに至り、夫れが為に愆つ者既に数名あり。
卿等が知る所なり。
只だ、能く此の道を学び得て、自ら能く勤めれば、富貴は天より来るなり。
決して他に求める事勿れ。
偖古語に富貴天にありと云えるを誤解して、寝て居ても富貴が天より来る物と思う者あり。
大なる心得違いなり。
富貴天に有りとは、己れが所行天理に叶う時は求めずして富貴の来るを云うなり。
誤解する事勿れ。
天理に叶うとは一刻も間断なく、天道の循環するが如く、日月の運動するが如く、勤めて息まざるを云うなり。

【本義】

【註解】

九十  若き者は身に徳を積め

 翁曰く、若き時は、毎日能く勤めよ。
是れ我が身に徳を積むなり。
怠りなまけるを以て得と思うは大なる誤りなり。
徳を積めば天より惠みあること眼前なり。
今雇人を以て譬えん。
彼の男は能く働きて貞節なり。
来年は我が家に頼むべしといい、能く勤めれば聟に貰ふべしと云うに至るものなり。
是れに反する者は来年は取り極めたれば是非なし。
来年は断るべしと云う様になるは眼前の事なり。
無智短才なりとも能く謹み、能く顧み、身に過ち無き様にすべし。
過ちは則ち身の疵やり、古語に「身體髪膚之を父母に受く、敢ヘて毀傷せざる孝の始めなり」とあり。
人過てば身の疵となる事を知らず。
傷さえせざればよしと思うは違えり。
且つ過ちは身の疵なるのみならず、父母兄弟の顔をも汚すなり。
愼しまざるべけんや。

【本義】

【註解】

九十一 大地主の子弟を戒しむ

 翁曰く、某の村の富農に怜悧なる一子あり。
東京聖堂に入りて、修行させんとて父子同道し来りて暇を告ぐ。
予之れを諭すに意を盡くせり。
曰く、夫れは善き事なり。
然りといえ共、汝が家は富農にして、多く田畑を所持すと聞けり。
されば農家には尊き株なり。
其の家株を尊く思い、祖先の高恩を有難く心得、道を学んで、近郷村々の人民を教え導き、此の土地を盛んにして、國恩に報いん為めに、修業に出るならば誠に宜しといえども、祖先傳来の家株を、農家なりと賤しみ、六かしき文字を学んで只だ世に誇らんとの心ならば大なる間違いなるべし。
夫れ農家には農家の勤めあり。
富者には富者の勤めあり。
農家たる者は何程大家たりといえども、農事を能く心得ずば有るべからず。
富者は何程の富者にても、勤倹して余財を譲り、郷里を富まし、土地を美にし、國恩に報ぜずばあるべからず。
此の農家の道と富者の道とを勤めるが為めにする学問なれば、誠に宜しといえども、若し然らず、先祖の大恩を忘れ、農業は拙し、農家は賤しと思う心にて学問せば、学問益々放心の助けとなりて、汝が家は滅亡せん事疑いなし。
今日の決心汝が家の存亡に掛かれり。
迂闊に聞く事勿れ。
予が云う處決して違わじ。
汝一生涯学問するとも、斯かる道理を発明する事は必ず出来まじ。
又、此くの如く教戒する者も、必ず有るまじ。
聖堂に積みてある萬巻の書よりも、予が此の一言の教訓の方尊とかるべし。
予が言を用いれば、汝が家は安全なり。
用いざる時は汝が家の滅亡眼前にあり。
然れば、用いばよし、用いる事能ずば二度予が家に来る事勿れ。
予は此の地の廃亡を興復せんが為めに来て居る者なれば、滅亡などの事は聞く忌々し。
必ず来る事勿れと、戒めしに、用いる事能わずして、東京に出たり。
修行未だ成らざるに、田畑は皆他の所有となり、終わりに子は医者となり、親は手習師匠をして、今日を凌ぐに至れりと聞けり。
痛ましからずや。
世間此の類の心得違い往々あり。
予が其の時の口ずさみに「ぶんぶんと障子にあぶの飛ぶみれば、明るき方へ迷うなりけり」といえる事ありき。
痛ましからずや。

【本義】

【註解】

九十二 農村は安堵の地なり

 越國の産まれにて、笠井亀藏と云う者あり。
故ありて
翁の僕たり。
翁諭して曰く、汝は越後の産なり。
越後は上國と聞けり。
如何なれば上國を去りて、他國に来れるや。
亀蔵曰く、上國にあらず、田畑高価にして、田徳少し。
江戸は大都会なれば、金を得る容易からんと思うて江戸に出づと。
翁曰く、過てり。
夫れ越後は土地沃饒なるが故に、食物多し。
食物多きが故に、人員多し。
人員多金が故に、田畑高価なり。
田畑高価なるが故に、薄利なり。
然るを田徳少しと云う。
少なきにあらず田徳の多きなり。
田徳多く、土地尊きが故に田畑高価なるを下國と見て生國を捨て、他邦に流浪するは、大なる過ちなり。
過ちとしらば、速やかに、その過ちを改めて帰國すべし。
越後にひとしき上國は、他に少し。
然るを下國と見しは過ちなり。
是れを今日、暑氣の時節に譬えば、蚯蚓土中の炎熱に堪え兼ねて、土中甚だ熱し。
土中の外に出なば涼しき處あるべし。
土中に居るは愚かなりと考え、地上に出て照り付けられ、死するに同じ。
夫れ蚯蚓は土中に居るべき性質にして、土中に居るのが天の分なり。
然れば何程熱しとも、外を願わず、我が本性に随い、土中に潜みさえすれば無事安穏なるに、心得違いして、地上に出でたるが運のつき、迷より禍を招きしなり。
夫れ汝もその如く、越後の上國に生れ、田徳少し、江戸に出なば、金を得る事いと易からんと思い違い、自國を捨てたるが迷の元にして、自ら災いを招きしなり。
然れば、今日過ちを改めて速やかに國に帰り、小を積んで大をなすの道を、勤めるの外あるべからず。
心誠に爰に至らば、おのずから、安堵の地を得る必定なり。
猶ほ迷いて江戸に流浪せば、詰まりは蚯蚓の土中をはなれて、地上に出でたると同じかるべし。
能く此の理を悟り、過ちを悔い能く改めて、安堵の地を求めよ。
然らざれば今千金を興ふるとも、無益なるべし。
我が言う所必ず違わじ。

【本義】

【註解】

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