文武訓 文訓上之末
一
和歌は、古、賤者といえど是を詠んで、心を通わしけり。
今は、世下りぬれば、只、堂上の弄びとなりて、地下人、殊にかたる中には、此の風を傳え難し。
都の人だに、堂上の傳を得る事難し。
田舎の人は、彌遠くして及び難し。
故にわか日の本の内にても、堂上は遠くして、和歌を傳えて知り難し。
況や、詩は、遥かなるもろこしの風俗にて、我が國の語にあらざれば、和歌の道堂上にあるよりも、いよいよ遠くして、其の道に通じ難し。
地下の人、又、遠き田舎の人の歌を詠むは、堂上の詠に及ばずと雖も、其の心言葉適える事多し。
是れ、我が國の語なればなり。
我が國の詩は、身を終わるまで、専ら是れに心を用いる人にあらずんば、もろこしの下賤にも及び難かるべし。
是れ、我が國の風にあらざれば也。
然れば、我が國に生まれたる人は、只、我が國の名にしおへる和歌を好んで、其の志を云うべし。
詩は、学職にある書生の外は、やむことを得ざるにあらず、天の才なくんば作るべからず。
此の理を知れる人は、詩を好んで作らず、作れどもつつみて人に表さず。
詩を知れる人に笑われんもくちおし。
古人、詩の才無くして好んで表すをば、顔子推が家訓に、詅癡符と云う。
我が愚かなる事を人に誇り、我が恥を表す符なりと云う意なり。
詩を知らざらん人に見せば、さもいうべからず。
詩を知れる人、是れを見れば、此の誹りを免れ難かるべし。
況や、もろこしの作者に、我が國の詩を見せば、多くは、詅癡符なるべし。
恥づべし。
二
詩文を作るに、故事を引用いること用意あるべし。
其の所に引かで適わざる所に用ゆべし。
さなき所に用いるは、是れ、廣才に誇り輝かさんためなれば、返って拙くして見苦るし。
和文も亦、斯の如くなるべし。
三
其の才器ありて、詩歌を作らんは誠によし。
その器ものにあらずば、しいて、詩歌を作りて、人に笑わるべからず。
もし、詩歌を作らば、詩歌をよく知れる人を師として、其の人に見せて其の悪しきを改むべし。
もし、明師にあらずんば、畧詩歌を知れる正直なる友に見せて、其の評論を受けて改正し、其の後、人に示すべし。
わが作れる事は、わが心の私に惹かれ、其の程より能く見えて、誇る心もあれど、人は、さも思わず、返りてあざけり笑われる事多し。
四
なまじひの拙き詩歌を作り出して、心を苦しめ人に笑われんよりは、古人の作れるよき詩歌の、其の時とその事に適えるを吟ぜば、心を盡して悪しき詩歌を作らんよりは、遥かに優りて楽しみ深かるべし。
俊賴も、折ふしにかないたる歌を詠ずるは、詠むに優れりと云り。
俊成も、折ふし面白き所からなどに、なまじひの歌よまんよりは、時にあいたる古歌を吟じたる面白しと云り。
五
儚き筆のすさみにて、人の心の内も見える理なれば、詩文を作り、もの書く事も、常に心にかけて愼まざらんや。
六
書状の言葉こそ、殊に心を用ゆべき事なれ。
本邦、先代定められし書禮の法、今に至りて世にこれを用ゆ。
もろこしの賢哲の定められし禮法にあらざれども、世俗の宜にかないて、すでに國法となれり。
書禮知らぬ人は、我が身の分を忘れ、驕りて人を卑しめ、或いは、敬い過して諂いとなる、二つながら、無禮と云うべし。
書禮を知らば、驕り無く、諂い無くして、過不及の誤り少なかるべし。
されど、文には、常の言葉よりは、少し人を敬い過したるは、書禮の法なりとぞ。
等輩にも、啓上と恐惶など書くを以て知るべし。
此の意得ありて書くべし。
驕れる文言、書くべからず。
文字知れる人も、書禮を知らざれば、日用の近き事に疎く、僻事ありて、無禮なる故、人に笑われる事あり。
少し心を用いて是れを知るべし。
もろこしの書簡を学ぶにくらべば、誠にいと易き事なるべし。
七
文字知らぬ人は、常の言語にも誤り多く、片言ありて聞きにくし。
又、書状の詞も拙くして、理も聴こえず。
此の如くなれば、常の才行よりも、遥かに人に見くだされ、人に笑われて、辯の人に優れたるも、貌の麗しきも、空しくなるこそ浅ましけれ。
又、世に行われる通用の文字言語の字、諸物の名の文字を知らざれば、世事に疎く、事ゆかざる事多し。
世間通用の文字をも努めて知るべし。
経史の文字を知るに比べれば、極めてた易き事なり。
少し心にかくべし。
それだに知らざるは、むげに卑しむべし。
八
凡そ、世俗の書状などに書く文字に、僻事多し、察すべし。
又、そら字多し。
是れ亦、其の誤りを知るべし。
但し、誤り来りて、改め難き事もあり。
それを強いて改めて事ようなるは、時宜に背きて悪しし。
九
われ文字知りたりとて、知らぬ人に対せる文に、ことように難しく古びたる唐の文字を好んで書くは、我が才学あるを表さんとにや、其の心推し計られて、いと見苦し。
只、其の人のよく心得べき文字を、さすが拙からず書きたらんこそ、目やすかるべけれ。
十
わが名を表さんとて、我が輩、卑しき詩文を作り、人に見せ、世に傳えんとする事、無益の理。
我ら文学ともしければ、作れる文字拙く、其の上僻事多し。
我が僻事は、自ら見えず、人も云わず、陰にて人に笑われ、後人に謗られんもくちおし。
名を得んとて名を失い、誉れを得んとて謗りを得る事、愚かなる事なるべし。
されど、天の才ありて匠なる人は、其の心に任せ給うべきにや。
我がかかる浅はかなる拙き書を作るは、只、小児の輩に知らしめん為、又、我が志す所あれば、やむ事を得がたくして、わが拙きを忘れるなり。
十一
人の文字を見ば、よき事は褒め、さほど無きは、陰にても謗るべからず。
人の努めて作れる文字を、一言にた易く謗り落とさんも情け無し。
作れる人、謗りを聞けば、本意無く思い恨み怒るべし。
是れを謗るは不仁無禮にて、道理に乖くのみならず、人の恨みを受けて悪しし。
又、悪しき文詩を褒めるも、偽りにて本意にあらず。
只、其の善し悪しを云わざらんには如かじ。
十二
今時の人の作れる文字にも、所々には良き事あり。
是れ、古人の言を取りて記せる故、又、凡人も、稀まれには、よき事を言い出す事もありなん。
しかる故に、人の作れる文字を見ば、よきは褒め悪しきは隠す、是れ、人の文字を見る法なるべし。
人の作れる文字を、謗る事を好む癖ある人あり。
是れ、不仁無禮、戒むべし。
古人の作れる文字すら、善き悪しき有り、況んや、今時の人の作れる文字、などか善き事のみ有るべきや。
それを咎めて善き事をば捨てて、悪しき事のみ云い表すは不仁なり。
是れ、文字を見る法を知らざるなり。
我が作れる文字は、善きも悪しきも自負して誇り、人の作れる文字は、善きも悪しきも言い落とすは浅ましい。
十三
我が日の本の人、義理の学をせんには、四書、六経などの書を読まずしては、道を知り難し。
國字に書きては、其の理、精しからず。
風雅の楽しみは、唐の詩を用いざれども、古き大和歌を詠みて、心を楽しましめ、才あらば、自ら歌を作りて其の情を通ずべし。
詩を作るより易くして、心通い易し。
然れば、義理の学をするには、唐の書を読まざれば、通ぜず。
風雅の楽しみ志をいわんには、唐の詩を用いるは何ぞ。
十四
我が日の本の人、古は、大和歌には匠なれど、詩文章は、我が國の語にあらざれば、久しく心を用いて作れる人も、中夏の作には、及ばず、法に適わずして、僻事亦多し。
況や、我が輩、卑き言葉を人に表し、自らいみじと思えど、人の笑わん事恥ずかし。
十五
詩歌は只、折に遭いたる古人の作を吟じたらんこそ、心を苦しめて、拙き詞を作らんには遥に優りて、情け深かるべし。
専ら詩を好める人は、古人の、五箇の字を吟じなして、以て一生の心を破ると言えるが如し。
いと不用なり、益無し。
大和歌も、博く古の歌集を知らずして、妄りに詠む人は、僻事多く笑うべし。
知らずして、妄りに詩を作り歌を詠むべからず。
知れる人の見る目、恥ずかし。
十六
眞字の文章を作るに、文字の置き所を誤り、助字を誤り、連字を誤り、俗語を用いる、先づ、此の四の誤りを去るべし。
十七
和文を作るに、文を誤り、字を誤り、仮名遣いを誤り、てにはを誤まる、先づ、此の四の誤りを去るべし。
十八
詩は、もろこしの詞なれば、文学せざる人の作れるは、僻事多し。
和歌は、我が國の詞なれば、た易かるべけれど、是れ亦、古の世々に選ばれし萬葉集、古今集以下に通じ、伊勢、源氏などの古き文を多く読まずして、歌を作れば、言葉も心も僻事多くして、歌とは云い難し。
すべて、詩も歌も、古を考えず。
妄りに作るべからず。
然るに詩歌を知らざる人は、我が作れる拙き詞に、誇らしく云い騒ぐも、おこがまし。
すべて詩も歌も、其の道知らで、た易くは作り難し。
十九
我が輩、詩歌の才力無き者、詩歌の作り難き事を知らで、妄りに好んで作れば、さこそ見苦しく、卑き事は、人に笑わるべけれ。
人告げざれば、悪しき事を知らず、かえって自らは善と思いて、誇りて人に輝かす。
我が詩文和歌などの、僻事有り、拙き事を知らで人に現すは、いと愚かなり。
廣く人に見せざる内に、我が師友に密かに見せて、其の非を正されるは尤もよし。
それも我が作に誇りて、師友に見するは悪しし。
詩文の悪しき事、師友といえど、正直の人にあらざれば、其の悪しき事は告げ難し。
二十
文学無き人の、漢字の文を書くは、文理違いて理聴こえず。
又、続かざる字を妄りに続け、字の置き所違い、文字筆画も誤り多し。
故に、文字なき人、事を記さんとせば、不束なりとも、只、國字を以て書くべし。
或は、世間通用の俗文を以て書くも宜し。
仮名と俗文は浅はかなりとて、漢文を以て書くべからず。
文学無き人の漢字を連ね書くは、僻事のみ多くして、読み難く、理聴こえず。
人の笑い草となるも恥ずかし。
漢字を知らざる人は、自ら其のひがひがしき事を知らずして恥じず。
又、仮名にて事を記すも同じ。
古き和文を知らざれば、僻事多くして、文理違い、仮名遣いにては、皆、誤り多くして笑うべし。
必ず知らずして妄りに書くべからず。
事を記すに、飾りて拙き文を以て記さんよりは、俗語を以て、飾らずして書きたるは、卑しけれど、かえつて、文理明らかにして見やすし。
二十一
もろこしにて、昔、人に対し、其の時に適い、其の席に遭える事を、古き詩にうたいて、其の情けを述べし事、左傳など古書に多し。
上代の才高き人、其の時に臨みて、詩を作る事難からず。
然るに古詩を引きたるは、今新しく作らんより、其の情け深くして、よく人の心を感じ動かす事、今新しく作れるに優るによれり。
今の人も、なまじひの我が拙き詩歌を作らんより、古人の詩歌の、其の折に適えるをとり出して吟ぜば、我が人も感を起こす事深かるべし。
二十二
天の才無き人、自ら拙き詩歌を好んで作らんより、古人の匠に作れる善き詩歌を吟ぜんこそ、我が心を苦しめずして楽しかるべけれ。
詩は殊に、我が國の風俗にあらず、拙くして自ら作るは、心も労し暇も多く費やす。
其の力を以て書を読みたらんには、楽しみも益も多かるべし。
もし天の才有れば、自ら詩を作るも宜し。
凡そ、学問の道六藝なども、道知れる人に学ぶべし。
其の外よ、萬の事は、其の事をよくする人のわざを取り用いれば、我が身、いたづがわしからずして、其のわさ拙からず。
例えば、身の病を療するに、良医に委ねたらば、禍い無かるべし。
然るに、我が少し学べる拙き医術を宜しと思い、自ら薬を用いて誤らんは、むげに愚かなりと云うべし。
二十三
何事も、知らぬさましたるぞよき。
自らは、私に引かれて、よく知れりと思えど、未だよく知らぬ事多ければ、我が心に許し難し。
よく知らで、知れりとする顔つきなるも憎し。
子路の、知らざるを知れりとするは、偽りて知れりとするには非ず、我が心には誠に知れりと思えど、我が気荒く、心精からずして、誤りて既に知れりと思える也。
ひとえに思えば、まだ知らぬ事を、既によく知れりと思い誤る事多し。
浦の濱木綿の百重なる事を思うべし。
二十四
義理の学、文字の学ある人、又、文学無くとも、一材一藝に長ずる人に遭えば、我が才学と藝能に誇らず、自らは黙して言わず、只、その人の知れる事を尋ねて、我が少し知れる事をよく知りがほに語れば、我に益無し。
自らは、才智をあらわさんと思えど、識者の賤しむ所なり。
学藝ある人の言える事を聞きてこそ、益あるべけれ。
人に言わせずして、我一人言えば、益あるべからず。
又、藝ある人に限らず、其の人の居る處の國土の名所舊跡土産などの事、又、其の人の家業の事に附きても、尋ね問いてよく聴かば、必ず益あるべし。
凡そ、人に問うは智を求める道なり。
二十五
われに学ありて、われに従い聞く人あらば、心を盡して教え諭すべし。
然らずば、説くべからず。
又、我が心に自得せる事有りとも、其の理
深くして、其の人聞き難き事ならば、人に語るべからず。
達識の人に非ざれば諭し難し。
孔子も、共に言うべからずして共に言うは、言を失う、との給えり。
二十六
世に、文学無くして妄りに道を説く人あり。
孝弟忠信などの道を行う事は、一文不通の愚夫愚婦も、其のはしをば知り易く行い易し。
是れを以て、学無き人に説き聞かすは、宜し。
仮名の書を読み、人の物語を聴き覚えても、浅近なる事は知り易し。
草医の、近世の名医の作れる國字書の方書を読みても、軽き病をば、癒すが如し。
然るに、義理の学は、天地人の大道を知る事なれば、まづ、文字を知り、四書五経以下、歴代の聖賢の書に通じ、三史、通艦など、古今の事にも博く通じてようやく知るべし。
此の如く、博く書を見ても道知らざる人は多し。
聖賢の書に通ぜず、文学拙くしては大道に通じ難し。
文学無くして道を知り難き事、例えば、通事なくして異國の人の言語に通じ難きが如く、又、小刀にて大厦を作らんとするが如し。
文学拙く経傳に昧くしては、大道は知り難かるべし。
二十七
一師五友は、学者の閑居して師友無き人の、しいて名づけしなり。
されど理無きにあらず。
一師は書なり、聖賢の書は師として尊ぶべし。
次に筆硯紙墨案の五は、我が学を助ける物なり。
常に慣れて友とすべし。
学者の交わる所、此の外にいでずして其の楽しみ極まり無し、貧家には、一師を求め得ること殊に難し。
其の次に、五友のよきを選び用いる事もた易からず。
もし、是れを得れば、其の楽しみ多かるべし。
人は、只、我が身を省みて、我が身の賢し愚かなると、才あると拙きとの程を知りて、常に人に、へりくだり、我が身に誇るべからず。
才智有りても無くしても、我が身に誇りたかぶり、人を好んで見下し、又、謗るは罪深し。
いと愚か也と云うべし。
二十八
朝夕、古の書を見れば、我が輩愚かなる者も、かけましくも賢き聖の御教えを、目の当たり受けるが如く、次には、古の諸々の賢者にまみえるが如くにて、心より外に尊きまじらいかなと思い、我が身を省みれば、僻事多かりし有様を、思い出づるも恥ずかし。
二十九
凡そ、詩文章を作れば、言葉平實にして、巧みに飾らず、異なる怪しき事を言わず、易く素直にして、さすがに賤しく拙からず、古めかしかるべし。
心は新しくして、我が志を言い述べんこそ宜しかるべけれ。
三十
今の人、詩を作るは、其の人我が身に私して、自ら、いみじと、思いて作るも多かり。
又、自ら拙き事を知りて、我が作に誇らざれども、其の人おもえらく、古人の如く麗しくはならずとも、只、時々の景気を眺め情を述べて、心を慰めん料なれば、拙くとも害なしと思いて、詩を作る事を好めるなるべし。
今時の人の作れる詩、拙くしても大よう詩の法に適いて、僻事少なくば、其の人に応じ、情を述べる助けともなりなん。
我が輩の、文学拙く詩を知らざる者の作れる詩は、文字の続き、字の置き所、意を用いる事、皆、法に適わず。
かかる詩は、拙きと巧みなるとを論ずるにも未だ及ばず、僻事多く、法に背きて詩とは言い難し。
例えば、和歌を詠むに、歌学無く、久しく心を用いず、又、官家の傳を得ずして妄りに詠めば、詞の続きも古の詞にあらず、手際も法に違い、一首の心聴こえざれば、和歌とは云い難し。
かかる歌を詠んでは、我が心を慰むべき用無くして、必ず人に笑わる。
然れば、和歌を知らずんば、詠むべからず。
和歌は、我が國のわざなれど、それだに斯の如し。
況や、遠きもろこしの詩を学ばん事、我が國俗の言葉にあらず、文学拙く詩を知らずんば、いかにしてか法に適わんや。
文学優れ、詩に久しく心を用いるにあらざれば、悪詩も作り難し。
吾輩の作れる詩は、詩を知れる人の謗り笑わん事、恥ずかし。
才学優れ、詩に巧みなる生まれ付きならずんば、詩を作るべからず。
才学有ても天性詩に拙き人あり。
曽南豊が詩のよからざるが如し。
我が得ざる事は好むべからず。
我が國にては倖に、和歌を詠んで、情を述べるに餘り有て事足りぬ。
例え、文学有りて詩を作るだに、我が國の歌を捨てて、異國の風俗の詩を好み作る事、近きを捨てて遠きに走る誤り有り。
況や、文学拙くして詩を作り、かえつて我が風俗の和歌を捨てるは罪有り。
三十一
和歌は、日本の風俗なれど、天性歌詠むに拙き人あり。
歌学有りても詠み難し。
況や、和歌の道、知らずして詠めば僻事多く、必ず人に笑われる。
労苦して恥じを求むるは、益無くして損有り。
歌学して後、人の教えを受けて歌を詠むべし。