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戦前台湾の日本語教育(「国語」教育)についての基礎知識 概要編

戦前台湾の日本語教育(「国語」教育)について


戦前台湾初等教育(公学校)での教授法変遷図

 戦前台湾の台湾人子弟に対する初等教育は1896年の国語伝習所乙科に始まり、1898年公学校に移行し、初等教育機関として制度化された。
 台湾での日本語教育は1895年7月、伊澤修二が学校制度を作るに当たって通訳者の養成機関として台北の士林にある芝山巌に芝山巌学堂を設け、そこで六名の台湾人子弟に日本語教えた事に始まる。
 芝山巌学堂は1896年4月に9月にも開始を予定していた国語伝習所の教師、国語伝習生を養成する機関としてとして名称を変え、教員養成機関となった。
 1896年9月、国語伝習所は日本語を教える機関として発足した。教員養成は国語学校と称した。
 国語伝習所は甲科2年、乙科4年の課程であった。1897年4月には国語伝習所の本所を埔里と台東に設置した。国語伝習所本所16校体制となる。
 1898年、公学校に移行。1905年、蕃人公学校を設置。
 1941年まで公学校体制は続く。
 1941年からはそれまでの公学校・蕃人公学校・教育所を国民学校に統合し、1943年からは義務化とした。
 台湾の日本語教育は1895年7月に始まり1945年8月に終焉するまでの50年間続いた。

 台湾内に最初14カ所に設けられ公学校制度が開始されるまでに本所16校、分校48校までになった。
 しかし、台東と澎湖は国語伝習所のままとし、本土の伝習所の本所分校合わせて55校を公学校に移行させ開始した。その後公学校は昭和16年に国民学校に改組。1945年の終戦までに900校以上になった。開始時2%だったが昭和18年には71%までになっていた。

 ここに、台湾での日本語教育(「国語」教育)を知るための用語としての基礎知識を提供する。


 


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