自己紹介⑥ 音楽留学への道
日本の音楽業界の雰囲気の悪さにすっかり失望してしまった私は、このままじゃ自分がダメになる、音楽はもっと楽しくやれるはずだという願いにも似た強い確信があった。日本がダメなら世界を見てみたい、世界はきっと日本とは違うはずだと、専門2年目で国外へ飛び出すことを決めた。姉が高校卒業後からずっとオーストラリアで暮らしていたので、お姉ちゃん子だった私は結果的にここでも後を追いかける形となった。
母に電話で留学したいと言ったら、「100万貯めなさい」と言い渡された。そりゃそうだ。でも私の進みたい道をよく反対もせず受け入れてくれたよなあ。感謝しかない。あの時、中学受験に受かっていたら、今とは全く別の人生を歩んでいたんだろうなと思うと、受験は×だったけど今となっては◎だ。
専門時代はとにかく精神的にキツかった。兄との一件もあり、家でも落ち着かない日々で、相当ストレスがたまっていたんだろうな。ある時から視界に虫が飛び込んでくるようになった。手で払うしぐさをするんだけど、辺りを見回しても虫はいない。おかしいなと思いながらもしばらくやり過ごすけど、やはり何度も虫が視界に入ってくる。当時はスマホやパソコンなどでぐぐるという概念がなく、確か本屋か図書館かに行って「家庭の医学」的な本で自分の症状を調べたような記憶がある。
「飛蚊症」がピタリと当てはまった。なにせ私の目は屈折度16D の生まれもっての強度の近視眼。名古屋にいた頃は毎年1回専門の先生に診察をしてもらいに行っていた。上京して眼科に行くこともなくなったタイミングでの飛蚊症。母に相談し、兄と一緒に都内の大学病院へ診てもらいに行った。
医師 「飛蚊症だね。年取ると誰でもなるから心配ない。うまく付き合っていくしかないね。ただ急激に飛蚊症がひどくなるようならまた来て。」
そんなような診断だったと思う。ひとまず様子見ということで私も兄も母も安心した。でもちょっと待って、年取ると誰でもなるって言ってたけど、当時の私はまだ10代。ピチピチのはず。。
今思うと、私の目はこの時から徐々に悪化の一路を辿っていたんだなあ。
兄と離れ横浜で一人暮らしを始め、専門学校をなんとか無事に卒業し、留学までの半年間はバンド活動をやりながらとにかく約束の100万円を貯めるためにいくつもアルバイトを掛け持ちした。留学直前に母と一緒に授業料の送金などいろいろな手続きをしに銀行へ行った時、自分の通帳を記帳し見事「1,000,000」の数字を達成した時の喜びは今でも忘れられない。
でも家賃も生活費も仕送りをしてもらっていたので、プラスマイナスでいくと完全にマイナス。留学費用としての100万円なんて今思うとこれっぽっちの足しにもならない金額だろうけど、約束を果たしたことへの満足感はいつまでも心に残った。
ちなみに、「音楽に言葉の壁はない!」を地で行き、たいした事前準備もなく高校卒業レベルの英語知識のまま現地入りした私は、見事に打ちのめされたというのはご想像の通り。
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