
はみだしっ子再読:ジャック不在の時代に読みたい中二病卒業の物語、オクトパスガーデンとラストの考察
年末に知人宅ではみだしっ子を見つけて、つい借りて再読したら、読みふけってしまった。年を明けてもまだ頭から離れない。
大人として読むと、グレアムの中二病ぶりがほほえましく、これを熱心に読んでていた私も結構な中二病だったんだなーと、心暖かな気持ちになった。
はみ出しっ子は、私は世代的には少し後で、小学生の時にギリギリ最後近くを友人の家でそこのお姉さんの「花とゆめ」で読んで衝撃を受けて、単行本を買って国語辞典を引きながら読んだ。でもこの漫画に出会えて本当に良かったと思う。10代20代30代40代初めくらいまで悩み迷いがあり、抜け出られた理由は、母が年を取って影響力が弱ったからとはいえ、心折れずもがき続けた私の心のスタミナと羅針盤を作ってくれた本の一冊だ。
はみだしっ子は、大人から子供まで、人の気持ちのすれ違いに繊細な心が傷つき悩みもがく様々なエピソードを通して、親に捨てられ親を捨てた4人の家出子供(最初はグレアムとアンジーが七歳、サーニンとマックスが四歳!!!)の、7年にわたる内面的成長を描く壮大骨太なストーリー。
特に中二病の潔癖な心中と卒業への一歩までを描いた名作です。少女漫画にしては文字が多い事で有名だけれど、ギャクも多くて、読みやすい。
この物語は、主人公が人格未形成な4人の幼い子供達というのが秀逸なんですね。青年や大人なら人との関わりから逃げ、または性的関係で胡麻化すところが、まだ子供の主人公たちは、大人の世話にならなければ生きていけない。必然的に関わりを求め、関わりを避けられず、子供の素直さで向き合い吸収する。
現在のようにジャックのような大人不在の時代には、中高校生や年齢関係なく、中二病を卒業して(一生自分探しににハマらず)大人へと成長を目指す、全ての人に読む事をお勧めしたい漫画です。
はみだしっ子の名論評は既に多数あるけれど、
私は、特にラストに向かっての4人組それぞれの成長の物語として、語ってみる事にしましょう。
マックス
4人の最年少マックスは、可愛い甘えキャラで、4人の中で唯一同年代の友達を作れるコミュ力がある。けれど、母親は知らず父親に首を絞められ殺されかけたトラウマから、雪山で無意識に殺人事件を引き起こす。けれどマックスには、人として大切な本質を掴む頭の良さがある。
まず自分から幸せになって人を幸せにする
「・・ボクお姉ちゃんが好きだよ 今度あったらさぁ・・・みんなお友達になれるよね・・・ウフゥ」(グレアムはこれでエイダとの関係を救われた)
「グレアム、大好き」
「ねぇ・・・子供の事大好きな父さんがいて・・・、優しい母さんが、お気に入りの兄さんも犬もいて・・・・ どうしてそんな風に幸せでいちゃいけないの?」
「それでもぼくたち生きてきたよ」
コミュ力が高いマックスは、クレーマー家に養子に入った後も、簡単に馴染めそうに見えて、「彼はずっと他人の中で育ってきたから、誰を優先させるかという概念がない」とグレアムが説明をした通り、色々やらかす。長年の放浪生活で兄たちの「気に入らないやつは殴ってとんずら」経験しかしていないものだから、街の不良リッチーにも後先考えずに「殴りかかる」。そして当然に復讐され、リッチーにグレアムが刺されて裁判沙汰という世の中の厳しい「後先」を学ぶ羽目になる。
まあそうして「自立する事は孤立する事ではないのだ・・と、必要な時には他人に依存できるようにならなければいけない・・・と、依存する事で傷ついたりはしないー紛いものではないー自身や自尊心の裏付けがあってこそ自立といえるのだ・・・」と学び、(グレアムの助けで)お友達たちの立場も考える事を学んで友達関係も強固になり、(子供社会で、グレアムのようなリッチーを陥れるスゴイ(やばい)兄さんがいれば、それだけで一目おかれるけれど)、クレーマー家の頼れる一員として成長した。目出度し目出度し。
サーニン
サーニンは、精神を病んだ母親の死のショックで失語症に陥り地下室に監禁されて動物にしか心を開かなかったところをアンジーに救われ、感情表現や人とのコミュニケーションは得意ではない。でもだからぶれない芯がある。他人が関係を築けない暴れ馬のエルや自閉症のクークと固い信頼関係を築くという、自分だけの個性を発揮できる場面では遺憾なく発揮する。いずれもヤヤコシイ大人の事情で関係を妨害されるも、グレアムの言葉で「サーニンを信じる者を真正面から見つめている」サーニンには、ややこしい大人の方が償い(キャシーのママの替え馬提案)や(牧師が)言い分けをしにやってくる。
ボクには何かを無意味だと信じる事の方がよほど難しいよ
サーニンはエルと出会って、精神的には4人組で一番最初にはみだしっ子から卒業し、クレーマー家にも自然に馴染み、他の3人をわりと冷静に見ている。物語のラスト近く、クーク―が既に亡くなった事を知って、自分の存在意義をも疑う不信の孤独に陥る。グレアムからクーク―が「かっこう鳥」という曲を聞いて飛び出した事を聞いて、クーク―は呼べばボクのところに来れるんだね・・と、クークとの繋がりを再認識して心の支えに
「ボク、君が上手く話せなくても大丈夫なように、ボク話せるようになろうとしてるんだよ。パムやジャックにも僕の気持ちがわかってもらえるような言い方でと・・そしていろんな人とも・・・」
とに力強く社会に踏み出す。クーク―が亡くな事は心が痛むけれど、喪失を乗り越えたサーニンに目出度し目出度し。
アンジ―
アンジ―は、父親は知らずシングルマザーの母親は女優になる夢を捨てきれず親戚の家に預けられて育ち、小児麻痺を患い、成功の足掛かりをつかんだ母親に捨てられる心の傷を負いながらも、自分の心の傷は自分で折り合いをつけ、享楽主義に見せたり道化をしてでも他人に自分を気使わせず、常に残りの3人を気遣う役割。母親似の美形顔立ちながら、街で殴り合いのけんかをよくする武闘派。雪山事件を実際に処理し、バラバラになった4人がまた繋がれたのは、100%アンジーの尽力。中二病グレアムの思考と違い、アンジーの思考は客観的かつ哲学的。難しい生育環境育ち特有の達観がある。
養子に入る書類にサインをもらいに会いに行った母親に冷たくされながらも、母親のサインが人に見られないように気を使い、1人で人形遊びする。
「だからオレはママになるの! ママになってオレはオレを産みなおすの!」
「だから・・ママ・・もういいんだよ。ボクがどんな風に生まれどう育てられ何を思ってたか。 でもぼくは生きてきた!もう、それだけでいいよ・・・ね・・・・ママ・・・・」
けれど、他人に自分の事を気を使わせない気遣いの人アンジーは、 必然的に
「オレ・・諦めているように見える? オレが・・人にオレを理解してもらおうとする事を・・・オレはあきらめちゃいないよ。いつだってちゃんと話しているじゃないか!」
と自分を理解されないパラドックスに悩む。
雪山事件以降、ずっと精神的に危ないグレアムを気遣い続けたアンジーだが、自殺に向かうグレアムを自分では救えない事を自覚して、ジャックに助けを求める。なんとかグレアムの自殺を阻止するも、自分が自殺を邪魔したためにグレアムとの精神的な断絶という、孤独を味う。そしてジャックの「でもアンジー ひとりぼっちだから・・他の人を愛する事ができるのかもしれないとは・・・思わないか?」という慰めを受け入れ、今さえ楽しければよい、10年後なんか知らないといってきたアンジーが、ジャックの後を継いで医者になるという「アンジ―個人の目的」を初めて持つ。そうしてはみだしっ子4人組の心配係を卒業した。更にラストでは、絵を描いてグレアムの帰りを待てるようになった。目出度し目出度し。
グレアム
誰もが認めるはみ出しっ子の圧巻が、特にPart19「連れて行って」に顕著なグレアムの思考。その圧倒的な文字量。
グレアムは、富裕層のおぼっちゃま。父親は有名ピアニストで大きな邸宅にお手伝いさんがいる。実家の食器も家具も全て高級品、家出するにも、企業経営者風の裕福なおじさんが4人分の資金援助してくれる。いとこのエイダの友人ふーねー様も大きな別荘持ち。(二人とも未成年にしては自由に使えるお金がある)
ところがグレアムは、幼少期に母親に捨てられスパルタの父親の事は20歳になったら殺すと決意、父親に右目を潰され、唯一の救いだった叔母は自分のために自殺して、従妹には責められ、7歳にして人との情緒的な繋がりを失ってしまった。そんなグレアムの、残り3人を巻き込んでの「人と繋がれる自分探し」の旅が「はみだしっ子」物語なんですね。
父親を殺したい程憎む事は、その親の血を引いている自分に対する自己否定でもある。祖母の評価、おばさんの自殺もあり、だからグレアムは自分の全てを疑い、自分の頭で考えて、自分を律する。
ボクのやることはいつもこうだ・・・ ボクが動くたびボクの手足は誰かを傷つける・・誰かがボクのために踏み石になってしまう・・・ボクにその上を歩めと言うのか?
だとしたら・・・ボクが失地の回復を図ったとしても・・・不思議はないでしょう?どんな事が人間らしく・・・・善いとされている事なのか、現代は宣伝がゆき届いている。思いやり深くやさしさを持ちその顔・・・・ボクはそんな風になりたかった・・・そうあろうと努めて・・・意図して規制した訳ではなかったけれど、だからよく馬脚をあらわししたけれどね。
グレアムは、人に優しく責任感も強く良いところが多いのに、自分の良さを、それは技術でしかないと思い込んでいて、自分で自分を評価できない。私も長く自分の母親との関係に問題があったので、妙に分かるところだけれど、これは苦しい生き方です。
はみ出しっ子の物語終盤まで右目が前髪で隠れているグレアムは、目の前の出来事を左の片目でしか見ていない。残りの半分の思考で、ひたすら「死」とその「罪」の意識に囚われ、そこに関わる過去の思い出への連想に向かう。圧巻の「連れていって」は、グレアムの言葉では、「他の3人を養子先で落ち着かせたら、自分は雪山事件の罪を精算するため、殺されたギイの義妹に罪を告白して、彼女にお前も死ねと言われて死のう」というヘンテコに凝った中二病的自殺計画が裏物語として進んでいた。(普通に考えれば、子供に死ねという人なんかいないよ。)
日々の出来事の中で、「死」と「罪」に囚われの世界に生きるグレアムの心は揺れ動き、なんとか自分の中二病的自殺計画を正当化させようと多くの自問自答をする。そんなグレアムが他人に発する言葉も鋭く、深い会話を引き起こす。ただその真摯さ真面目さも含めて、グレアムには痛々しい程に純粋で柔らかな感性があるのですね。だから物語の中での大人たちもグレアムと気にかけ、私達読者も彼の思考に(ものすごい文字量)にうんざりせずに、引き込まれて読んでしまう。
無益な問いに無益な答えがー
無益な答えに無益な問いがー
堂々めぐりしてって奴!
そうと分かっていても解説が欲しくて・・・憧れて・・・
例えば!誰かに悪者の烙印を押し阻害してまで守ろうとするものの正義
例えば・・人を殺めてまで生きてゆくものが自分に語れる正当性
正当性を支えてるものがどんな価値観なのか・・・その価値観はどこから生まれ・・・だからボクはずっと後戻りして始めなければならなかった。
「どこへ行こう?どこ迄行こう?けれど・・・どうやって行こう?ボクが行きたいのは向こう側。
橋をかけて・・舟を渡して・・・けれどボクはどこにいる?ここにいるボクは偽りのボク偽りの手・・偽りの言葉、
それならば偽りの橋と舟。
どうやって欺こう?知っているボクをどうやって欺こう?
それともどうすれば・・・得られるのだろう?虚像ではない橋と舟‥目的地・・そしてボク‥偽りではない真実のものを・・どうすれば?
この先ラストについては、雪山事件の見直しとオクトパスガーデンの解釈を踏まえてから考えたい。
雪山事件について、アンジーとグレアムを分けたもの
グレアムは父親へ抵抗して、「家を出てもまだ何か・・・どうしようもなかったものがやっとボクの心の中で終わったんだ・・・そして今 僕は生きているボクを感じてる すべては終わりーそして始まるよ!」と無邪気に人のしがらみのない雪山のてっっぺんに行こうとして、極限状態で無意識とはいえ殺人事件まで起こり、大きな心の傷を負いグレアムは精神を壊して4人バラバラに山をおりた雪山事件。
個人的には警察が未成年のグレアムとマックス、サーニンの身元調査をしなかった事がシュールな気がするけれど、それはさておき、真相を知っているアンジーとグレアムのうち、なぜグレアムだけがこの事件を引きずったか?そこに中二病自己完結グレアムの問題がある。
キャプテンのグレアムは、父親への殺意を持ち自分のせいでおばさんが自殺し、死と殺意が生む罪意識が強い。無邪気なマックスは、幼少期の幸せな記憶の象徴だったのに、雪山遭難で死を感じているところにそのマックスまで殺人という現実の死をもたらした。怪我で動けず麻薬効果もあり、死と罪意識の世界に引き込まれて、一時心が社会と断絶してしまった。
一方アンジーはシドニーマーチンの手伝いを得て事件を隠蔽し、バラバラになった4人をあらためてまとめ上げた。といっても死体とピストル処分係を引き受けたアンジーも、かなり危なかった。幸運にも最初の自殺試みでピストルに弾がなく、シドニー・マーチンという(他人の死体を簡単に片づけられる大人っというのも特殊すぎる)大人に助けられたが、強い自我意識と自殺衝動と、強烈な心のアップアンドダウンを繰り返す。
(私も病気で死にかけから戻ってきた事があるから、この生死ギリギリの精神のアップアンドダウンは当時の私と同じと思える。けれど三原順氏よくこれを描けたね。)
「「ボク」だけはボクのものだ・・風の流れにも・・大向こうにもやりはしない・・誰にも!こうしてボクの中に留めておいてやる。」
と自我を自覚して生きる事を選択する。
「いつでも自殺できるけれどー今はボクが生きることをボク自信で選んでいるって信じていたいから・・・」
とジョイの拳銃を手元にもらう。
「選びたくなかったよー何一つ・・・」
と自己を憐れんでも、自分の選択を後悔しない精神の強さがアンジーの魅力。
(アンジーももし、自分で穴掘って遺体を埋めて始末したなら、もっと呪われたかもしれないけれど、)大人の方針(隠蔽)に身を委ねる事で、自分の気持ちを整理できたアンジーと違い、グレアムはそこを共有しなかった。アンジーはマックスを探しに行く頃までシドニー・マーチンの世話になっていたと思われるけれど、グレアムはその後アルフィーやシドニー・マーチンと会ったのかな?グレアムは病気の時の他者をあちら側と遠くに感じる感覚を引きずり、生真面目に、死んだギイの遺族を想い罪悪感を「憎ませる相手を憎ませるべき」として遺族への贖罪(自分の死をもって償う)へと発酵させてしまう。
もちろんグレアムは間違っていない。人は誰もが何らかの罪悪感や後ろめたい意識を持ちながら、それを胡麻化し妥協して生きている。妥協せず妥協を「呪い」とまで称しとことん拒絶して自分の頭で考え自分で答えを見つけようとするグレアムの純粋さ、潔癖さこそが、様々な妥協で生きている私達がはみだしっ子に惹きつけられる理由だ。そこに私達は時に妥協とわずかな抵抗の間で悩む心を慰められ、時に人生の道しるべを見つける。
しかし雪山事件で人の醜さと死を見た後、この二人の「スレ」が、子供の次元じゃなくなったね。酒とたばこは前からとして、加えてエルの件で医師を脅す。殺処分予定のエルを乗せた車を襲ってエルをかっぱらう。アンジーは大人とも殴り合いの喧嘩をする。エルの費用を稼ぐために大人をだましてバイトする。グレアムが刺された後、アンジーはリッチー達の隠れ家を見つけて警察に通報し、グレアムのリッチ―陥れ計画もすごい。ホテルで他人の部屋でミスフエルブラウンと会うグレアム、拳銃ぶっ放してグレアムを止めようとするアンジー。こんなすごい兄さんたちもって、サーニン、マックス幸せだよ。
オクトパスガーデンの解釈
つまり・・「はみだしっ子」というのはこういうお話だったんですよ。のオクトパスガーデン。私は、魚って生で食べるのが良いのだよねーと料理された魚を捨てるマックスが、マックスがリッチーに殴り掛かったところね・・・と閃いたので、その流れで次の通りに解釈をしてみました。
「卵」=(グレアムの様々な思考を産む)他人と関わり
「グレ」=グレアムの思考の様々な面
「魚」=社会の象徴
「魚を生で食べる」=殴ってとんずらの単純な社会との関わり
「魚料理」=ルールや人間関係に配慮した社会的な人づきあい
最初に出てきたアザラシは、雪山事件の象徴。ここでグレアムは一旦魚が食べられなくなった。(精神が引きこもり他人と関われなくなった)
解釈に迷ったのが、重要なグレ041号。ポジティブとネガティブの両方を考えた。ネガティブは、「死にまつわる罪意識」ポジティブは「思いやり深くやさしさを持つ善良な人であろうとしてきた努力」。ここはだ私の個人的好みで、ポジティブ「思いやり深くやさしさを持つ善良な人であろうとしてきた努力」を採用しよう。懐中時計がミス・フエル・ブラウン。
私のオクトパスガーデン解釈では、041号「自分の努力」をどこに行ったのでしょうと見失い、最後にグレアムが本能で手にした卵=牧師の事故(という関わりから生まれた)フランクファーターは嫌だというグレアムの自我の卵
グレアムは明日から働くために、ふるえる手で魚に手を延ばした。=グレアムはジャックの息子として生きるために、ラストでバーの友人とジャックの前で、自分がやったと事件を告白をした(心を開き始めた)。
魚の山の保存状態は良好・・・良好な保存状態の魚=グレアムを敬愛する弟達、ジャック、トリスタンの友人達・・・皆グレアムの全てを受けとめられる人達です。だからグレアムのその後はポジティブと私は解釈します。
Part19タイトル「つれて行って」の考察
「はみだしっ子」でも特に長いラストPart19のタイトル「つれて行って」は、主語がグレアム。問題は、「誰」に、「どこ」へ。
私はこれを2重の意味で理解しました。
まずは、ミス・フエル・ブラウンさんに、私を「死」につれて行って。
失敗した後はジャックに、私を「あちら側」「向こう側」につれて行って
三原順氏は、最初グレアムが前髪を上げてアンジーが銃をぶっ放すところで終了する積りだったけれど編集者に反対されてもう少し続きを描いたそうで、だから二段階。だけれど続きを描いてくれてよかった。
いずれにしろ「つれて行って」と相手に頼る姿勢が、グレアムにとっての自己完結中二病「はみだしっ子」卒業のプロセスです。
Part18 ブルーカラで、
多数派はぼく 少数派はぼく 右へ行こうと左へ行こうと どちらにせよ負けるのはぼく
どうして幸せなままでいてはいけない?けれどどうして欺けよう 知っているぼくをどうやって欺こう アンジーぼくだってパムの事も笑い話にできる。けれどあの雪山での事をどうすれば笑い話にできるか分からない・ボクの望むものとボクの幸せが、同じものならよかったのに。グッバイブルーカラー
と、雪山事件のけりを付ける決意をしたグレアム。
ずっと待っていたサ・・・
いつか・・・ボクが生きていく正当性を見つけられる日を・・・
もしくは・・・ボクを断罪するだけの正義を・・・
来ませんねマスター いつかなんて日は決して来ませんね
ところがエルの強奪やリッチー陥れの高度な計画を成功させるグレアムにしては、「ミス・フエル・ブラウンさんに謝罪をして、私を「死」につれて行って」計画は、微妙すぎる。何しろ、相手のミス・フエル・ブラウンに、自分と同じ「自分が人を殺してしまった」トラウマを与えようという計画だ。例えもしリッチーに刺される事件がなくとも、この計画が成功しない事だけは間違いない。
ただここで計画の精度が高くないところに、ギイの遺族への純粋な償いだけでなく、私は、実父親を20歳になったら自分が殺すと誓いつつその父親を病で失い行き場を失った殺意が自分に向いてしまった混乱と、同時に成長期の少年グレアムが本質的に持つまっすぐな生命力を感じるのです。
その準備段階で発生したリッチーに刺される事件とその後の裁判は、グレアムに大きな揺さぶりをかける。雪山事件で雪山から助けられた時は、自分が死に連れていかれると考えたグレアムだけれど、リッチ―に刺された時は、(自分を殺すのはミス・フエルブラウンだから)自分はまだ死ねない、と生への執着を見せる。そして裁判では相手側の有能弁護士フランクファーターの、陪審の善良性を逆手に取って「罪が許されるべき」という弁護は、「罪を忘れるべきではない」と考える潔癖なグレアムの世界観とは見事に相いれず、グレアムは精神が追いつめられる。
僕は僕から遠く離れてしまった
ボクはほんの少し自分に寄り添おうとしただけなのに・・・
誰かボクをびっくりさせてくれないだろうか?
そして僕が囚われている考えを覆してくれないだろうか?
ただこの事件の裁判でグレアムが苦しんだ事で、アンジーやサーニン・マックスだけではなく、ジャックやロナルド、バーの友人達もグレアムの精神状態が追い詰められている事に気がつく事ができた。ダナはグレアムを追っていき、ジャックとロナルドもアンジーのお願いに詳しい説明は二の次で(仕事をほっぽり出して)動き、グレアムを助ける事ができた。
グレアム側の世界、つまり髪に隠れた右目側で社会を「あちら側」「向こう側」と見て考えてきた自己完結世界の死と罪の意識の終着地として計画した(ミスフエルブラウンに連れていってもらおうと頼った)自殺計画が崩壊して、グレアムはようやく前髪をあげて、自分が「あちら側」「向こう側」と見てきた側を自分の目で見るようになる。
ラスト直前牧師の事故の後、「今度こそ」と現場に駆け付け、「フランクファーターは嫌だ」と言い張りジャックに「だが・・おまえはもう何がどうなっても構わないはずじゃなかったのか?」と言われてもう一度「フランクファーターは嫌だ」と言い張った後、グレアムの顔が妙に歪んでぼやける駒がある。これが卵を手にした瞬間でしょう。つまり自分の中に抵抗の意思があること。「抵抗」こそが無いと思っていた自分の生きる力である事を、この瞬間に気が付いた。そしてゆっくり顔が戻ります。「でも牧師はボクが・・・」と責任を取ろうとして「帰れ」とジャックに諭され、もう自分が1人で責任を負わなくてもよい立場でその責任感は理解されない事に気が付き、帰る道すがら、雪の中で涙を流しながら、「抵抗だけが・・」というシドニーの言葉を思い出して「シドニーボクもだよ!パパの様には決してならない!本当だよ」と約束した事を思い出す。その夜は弟達に頼り(マックスに手伝ってもらって夕食を食べて、サーニンに声をかけて左手を預けて眠り)、グレアムは清水の舞台を飛び降りる決意で、ラストにバーの友人達の前でジャックに秘密を打ち明けた。
父親への抵抗を原動力にはみだしっ子の道に踏み出したグレアムは、フランクファーターへの抵抗を原動力にはみだしっ子を卒業した。ジャックに秘密を打ち明ける事でそちら側に「つれて行って」と頼り、父親との関係で築かれた殻を破って、社会と関わる橋と舟に足を一歩踏み出した。ここでグレアムの中で父親が、自己の存在を脅かす殺意の対象ではなく、どんな自分でも必ず受け止めてもらえる安心なジャックになった。中二病グレアムのヒーリングの始まりです。私はこのラストのグレアムに、おめでとうと心から言いたい。なにしろグレアムはもし家出をしなければ、あの強烈な父親の元で自分の心を殺したピアノ弾きマシーンになるしかなかった。けれどグレアムは自力で、自分を預け頼る事ができる弟達と父親を手に入れたのだから、素晴らしい、ちなみにラストでは、アンジーも絵を描いてグレアムの帰りを待っている。単にはみだしっ子卒業に留まらず、親とのトラウマが強かったグレアムとアンジーが、実親とのトラウマも解消はじめたのです。
ラストのグレアムの告白の後どうなったか?
この後「警察へ行け」はない。当時グレアムは14歳未満、刑法処罰対象外の子供で、かつヘロイン摂取+精神疾患があり証言に責任能力がない。当時グレアムは怪我で動ける状態ではなく(つまり死体を処分できる状態ではなく)証拠の拳銃もなく死体もない。証人もいない。(公的にはアンジーはその場にいなかった事になっている。)(かつ死体処分を手伝ったシドニー・マーチンも死んでいる事になっている。)遺族も望まない。グレアムが自分がやったと言った以上、アンジーとマックスを巻き込む意図はない。亡くなったアルフィーを貶める積りもない。まあ深読みをすると、シドニー・マーチンが実は生きていて死体隠しを手伝ったと警察に言う事で、シドニー・マーチンを死んだ事にさせた彼の一族の犯罪を暴いてシドニー・マーチンを復活させる・・・計画はありえるけれど、一族の財力からして難度が高く、シドニー・マーチンも死体遺棄の罪に問われるので、これも考えにくい。
ただこれで皆ようやく、なぜグレアムがああも悩み自殺を試みたかの理由を知る事ができた。これが大切。そして最終的には、「トラウマになる事故があった」と理解される。
とはいえジャックにこっそり秘密を打ち明けるのではなく、友人達の前でかつ、目力あるはみだしっ子の目で言うあたり、グレアムがようやくジャックを頼る事にしたといっても、一筋縄ではないはみだしっ子の矜持が見えて、微笑ましい。「さあどうする、ジャック?」といったところでしょうか。人はそう簡単には変わらない。
恐らくグレアムの告白の後、ジャックはまず家に帰ろう。それから話合おうと言う。
ジャックにとっては、グレアムの告白は、想定の範疇。ジャックは雪山事件に相当勘づいていてグレアム家出に気が付く直前、既にファイル2冊分を調査していた。アンジーの「余計な事なんか考えさせず」という言葉に、「余計な事とは・・遭難した時に何があった?何がといっても、あの時お前たちの他に一人を残してあとは死と失踪しかないな」と核心をついていた。その失踪者については、Part18ブルーカラーでアンジーが、「彼女の義理の兄は、雪山で射殺されちゃった人なんだけれどね」と答えも言っちゃってる。
ジャックはアンジーに話した翌日に雪山事件の後にグレアムを診た精神科医のヒューズ院長(グレアムは彼を覚えていない)に会いに行き、何かを話し合った。アンジーに、「おまえが言わない事のために・・・それが何であろうとその事のために出ていけとは言わない」と約束している。
ミスフエルブラウンが少し話をしただけでもグレアムが誰かを庇っていると気が付いたくらいだから、ジャックもそれは気が付く。例えジャックが真相を知ったとしても、ジャックも今までグレアムとアンジーが守ってきた気持ちを尊重し、また父親としても当然に当人は気が付かないよう配慮をしてマックスを守る。
例の牧師の件は、裁判にならない。(牧師も何故グレアムに会いに行ったかの事情を蒸し返したくない。)ジャックは見舞金で大人の解決をする。
グレアムは、ジャックという大人と自分達の罪を共有できた事で、アンジーがシドニー・マーチンの助けで事件を自分の中で整理できたように、自分の心を整理できるようになる。恐らくグレアムは、精神科医(ヒューズ医師)の治療を受ける。
そして物語を通して父親への殺意、叔母への罪悪感、マックスの殺人の罪意識といった他人がもたらす負の感情に向いて生きてきたグレアムが、ようやく自分の感情と自分自身に向き合い始める。妥協ではなく自分の感情と自分自身を大切にする事を学び、自分を許す事で罪は許される事を学び、孤立せずに自立する事を学び、そこから虚像ではない橋と舟‥目的地を見出し、中二病から卒業する。やがてグレアムが、自殺を止めてくれたアンジーにありがとうと言う日が来るでしょう。目出度し。目出度し。
はみだしっ子4人は実行力で理想の環境と将来を手にいれた
グレアムとアンジーはラストで13歳、すぐに変声期を迎えて背も伸びて青年になる。はみだしっ子を卒業して孤立せず孤独を受け入れ自分を愛し他人を受け入れ社会で生きる自立した4人の将来を考えてみると・・・
グレアムは、私は有能な弁護士を想像するけれど、サーニンはピアノがグレアムのなりたい将来だと見ていたね。
グレアムのように思考が深い人は、見失うと闇が深いけれど、方向性を見つければ成長も大きい。
アンジーは医者
サーニンは騎手
マックスもコミュ力が高く本質をつかむ頭の良さがあるから、lucrativeな仕事間違いない。
ちなみに財力あるクレーマー家の養子になったけれど、グレアムは父親の遺産で資産家、アンジーも実母は主役を張る映画女優だから富裕、ふ―姉さまと結婚したら彼女資産家、サーニンも競馬オーナ・・・リッチ―が「どうせいつかあいつら様になる仕事を手に入れる」と僻んだ気持ちもわからないでもないけれど、この世の中に、自分の生育環境、親との関係が、申し分なく幸せだったと言える人がどれだけいるだろうか?
生育環境に甘えて不良のリッチ―と違い、放浪の間に出会った悩める未熟な市井の大人たちと違い、また毒親を言い分けにするのでもなく、はみだしっ子4人組は幼少期に、「親の無力な被害者」であり続ける事を拒否して家出し、「親と言う名前を持った人ではない本物の恋人」を探す事を決め、4人で助け合い妥協しなかった事で、クレーマー家の申し分ない父と母、人間的成長とその先の未来を全て手に入れた。彼らは勲章に値する。
それぞれ自立し、ジャックとロナルド的関係を繰り返していくのでしょう。われらがはみだしっ子。グレアム、アンジー、サーニン、マックス、万歳。
ジャック不在の時代。だからはみだしっ子はジャックを目指そう!
はみ出しっ子は、多少時代設定は古いけれど(なにしろ固定電話で、子供も大人もタバコ吸いまくりの時代)、人間と人間の生の濃密なコミュニケーションを通して、人が「自分中心な子供世界」から社会に生きる「大人」へと成長ができた時代。
しかし私が驚くのは、この「はみ出しっ子」読者世代って、今の60歳前後?のバブル世代。こういう良い漫画読みながら、この世代の人たちはどうしてあんなに「自分中心な子供世界」に留まったまま一生自分探しなのか?てめーら自分がジャックになれなかった事に、恥は感じないのか?
いい年してジャックになれなかった反省会を開かなければいけないよ。
大人になってから読むと、この4人にがっつり付き合って一人一人を成長させたジャックの人間力に惚れる。同時に、今の日本でジャックのいなさ、に呆然とする。今の日本で、はみだしっ子の4人組が妥協をせずに放浪をしたら、永遠にジャックに会えず、永遠に放浪を続けなければいけないではないですか。
私は日本をはみ出して、お陰でイギリス英語を話し世界中人達と話をして、多少はジャックを知っている。だから私ははみだしっ子育ちの矜持を持って、もっとジャックになりましょう、と改めて思いました。
同時に、はみだしっ子育ちの矜持を持って、グレアムのように潔癖に、意識高い系と一生自分探しの傲慢と自己中心的な嘘を拒絶し、グレアムのように率直に言語化してそれを問おう♪
また考えがまとまったら書き直すかもしれないけれど2025年初時点での、私のはみだしっ子再読の感想です。・・追記:グレアムがあそこまでフランクファーターに抵抗を感じる理由をもう少し考えたい。。。
P.S.
年を取って読むと、妙にグレアムの父親に思うところを感じてしまった。
グレアムの父親が並みはずれて我儘なのは、親がピアノの神童として我儘に育てからでしょう。グレアムへのスパルタも自分がそう育てられたからかもしれない。でピアニストとして名声は得たけれど、奥さんは不倫で逃げられ、息子にも避けられて、自分の体調変化を見逃してしまい結果、癌で世を去る羽目になった。ピアニストとしてもっと弾きたい曲追求をしたい表現があっただろうに。RIP
P.P.S
三原順氏ももっと生きて描きたかったでしょう。心からお悔やみを申し上げます。RIP