#017「メルエム最期の選択を考察」使命は非合理な感情から生まれる
皆さんこんにちは。井戸です。
いきなりだが、漫画が好きだ。小学校5~6年時は漫画部に所属していた。今もJUMP王道漫画全般を中心に、あだち充や押切蓮介、青木U平作品などジャンルレスで網羅している。
そんな中でも、群を抜いて感情を揺さぶられ、心に深く刺さった作品がある。『HUNTER×HUNTER』だ。もはや説明不要の作品だろう。
僕は、漫画家は概ね天才であると考えている。0ベースで世界観を創造し、魅力的なキャラを考案し、息もつかせぬストーリー展開で読者を熱狂させる。彼らはどんだけ深い思考の果にアイデアを生み出し、それをアイデアで終わらぜず具現化するために試行錯誤しているのだろう。全ての漫画家に畏敬の念を抱いている。その漫画家たちのなかでも、冨樫義博先生は天才中の天才である。その天才性を神の次元にまで昇格したらしめたのは、【キメラアント編】だろう。とにかく構成やストーリーがすごすぎる。普通に考えたら絶対に勝てない、強すぎる暴君「王」と、その王に匹敵する強さを持つ直属の護衛軍3匹に対する、主人公たちハンター協会。常識では考えられないストーリー展開と、複雑に入り組んだ戦闘状況の解説、衝撃のラスト。語り尽くせない魅力がある。
そんなキメラアント編の中で、全漫画史上最高に好きな一コマがある。
(※正確には、SLAM DUNKの最終話・桜木と流川の見開きハイタッチに並び同率1位)
「この瞬間のために生まれて来たのだ・・・!!」
屈指の美しいシーンだ。生き物として生を受け、このために生まれてきたと確信できたときの幸福感たるや、なにものにも代えがたいだろう。本日はこの1シーンについて「自己理解の本質」というゴールを見据えて語ってみたい。
1.王の登場と変化
このシーンに登場する「王」メルエムは、当初いわゆる王道的なラスボスの立ち位置だった。キメラアントという種の頂点。残虐非道で最強。世界を統べるという宿命を背負い生まれてきた生物で、人類を支配し管理しようとした。ハンター協会が善なら、完全な悪側だ。
「え、誰がこいつ倒せんの・・・?」
実質、フリーザ以来の絶望感を味わうほどの最強キャラの予感がして、ワクワクさせてくれた。「ゴンが才能を開花させて、ギリギリの展開で倒すんだろうか?それともハンター協会の別の誰か?」
ところが、冨樫先生は王道ジャンプ漫画の展開に落ち着くことを許さなかった。あることをきっかけに王の心に変化が生まれる。「軍儀」(HUNTER×HUNTERの世界線でいう将棋とチェスを混ぜたような盤上遊戯)の世界チャンピオン・コムギとの出会いだ。全盲でどこかあか抜けない少女コムギだが、軍儀の腕はメルエムの実力をはるかに超えていた。今まで一度も負けたことのないメルエムにとって、コムギの存在はとても新鮮で特別。ただの退屈しのぎであったはずの軍儀は、その後何度も王のリベンジ戦を繰り返す。王はただの殺戮マシーンではなく、ずば抜けて高い知性も持ち合わせていた。そして軍儀という論理の極みを戦わせるような種目においても高い知性と論理性を発揮していた王に、突如説明できない”感情”が芽生え始める。
ここから怒涛の展開が進行するが、だいぶ端折ると「爆弾に含まれていた毒により、王はもうすぐ死ぬ」ことになる。そして自分の死期を悟ったメルエムは、残された最期の時間を「コムギと軍儀を打って過ごす」という選択をする。ここが王道ジャンプ漫画の展開なら、あり得ないポイントだろう。死期が近くても実力は依然最強である王・メルエムには、選択肢は無数にあったはずだ。すべての力を注いでハンターたちに復讐するでもいいし、集めた500万人ものゴルドー国民を虐殺するのもありだし、いっそ世界全体を破壊してもいい。すべて可能な状況だった。
しかしメルエムは、コムギと軍儀を打ちながら最期を迎えるという論理や打算ではまったく理解できない、極めて非合理な選択をした。
2.僕たちは何のために生まれてきた?
「この瞬間のために生まれてきた」
このような確信に到達できた人生は、最高に幸せだろう。「この仕事のために」「この人のために」「この家族・チームのために」。ある種、この感覚を得るためにすべての人は生きているのかもしれない。では実際、このために生まれてきたと確信できている人はどれくらいいるだろうか。視点を現実に戻そう。
DMM WEBCAMPの記事によると、
3割の人は「仕事が嫌い」と思いながら働いている
7割の人は「仕事を辞めたい」と思いながら働いている
らしい。
平均的に1日8時間働くとすると、社会人になってからは人生の3分の1が仕事に費やされることになる。にも関わらず、大半の社会人が「仕事が嫌/辞めたい」と思いつつも我慢しながら、貴重な人生の時間を使ってしまっている(やり過ごしている)ことになる。なぜこのようなことが起こるのか、元人事目線で考えてみた。
1)仕事選びでミスマッチが発生する理由
①消費者から生産者への急な転換
たいがいの人は、大学3年生になって急に「仕事を決める」というピッチに立たされる。それまでの十数年間は”お金を払って勉強し、知識をつける”という「消費者的視点」で過ごしてきたにも関わらず、急に”お金をもらって働き、価値を発揮する”という「生産者的視点」に立たされるわけである。
小学校から真剣に「働くとは?」と思考し続けた人ならまだしも、「与えられた教育を、ただ積み上げてきた」人にとっては、晴天の霹靂ではないだろうか?果たして自分の価値観にフィットする「生産者としての立場」を、主体的に選べるだろうか。
②仕事探し期間の短さ
「就活が長期化している」と言われて久しいが、それでも3年生の夏インターンから、4年生の夏ころまでの”たった1年間”足らずのことである。(3年生の3月からだと、わずか3ヶ月)
十分に考えて向き合う期間はなく、”限られた期間内で、半ば強制的に選ばさせられる”のである。終身雇用という概念が崩れかけているとはいえ、学生から「なるべくなら最初に入った一社で、長く勤めあげたい」と願う感情が急になくなることはない。それなのにこんな短期間で、「一生の半分を捧げる天職に巡り合える人」が果たしてどれだけいるだろうか。なぜその会社を志望するのか、明確な理由が育まれる間もなく、「とりあえず内定をもらう!目的は後で考える!」になってしまうのだろう。
では、どのようにしたらミスマッチを防げ、本当にやりがいがあり、人生の半分を捧げる意義のある「仕事」に巡り合えるのだろう?
2)Memento Mori~死を想え~
「近いうちに死ぬかもしれない」
こう考えてみてはいかがだろう。
人は必ずいつか死ぬ。例外はない。死は唯一確実に存在する可能性。そしていつ死ぬかなんて誰もわからない。どんなに大金を積んでも、死を延期してもらうことはできない。「これからどう生きるか」「残りの命を何に使うか」は、”全ての人間の共通課題”なのだ。
だからこそ強制的に、”死”という終わりの瞬間を意識してみる。死を身近に感じてみる。意外と「ボーっと生きてる時間なんてない」ことが明白になる。自分の人生はいったい何のためにあるのか?という根源的な問いに向き合わざるを得なくなる。すると、今つまらないことに使っている時間に対する一時的な後悔と、そこから脱出するというエネルギーが生じる。やることが明確になり、後悔のない選択ができる。生々しい感覚で人生の全体像を考えられる。「使命」=自分の残りの命の使い方だ。死を意識した瞬間、視点が上がる。
ちなみにメメント・モリ(memento mori)とは、ラテン語で「死を想え」=自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるなという警句である。アップル創業者であり、癌を宣告され、死と向き合った故スティーブ・ジョブズが、2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチで語ったことでも有名だ。
学ぶこと、仕事をすること、生きることすべての先には「死」がある。死を想うことで「この瞬間のために生まれてきた」とも言うべき使命に、いち早く出会えるのかもしれない。
3.非合理で説明がつかない「感情」と向き合うということ
キメラアント編に話を戻そう。コムギのことを思い出す前のメルエムは、直属の護衛軍プフに「これが王本来の”宿命”」と示された光景に「・・・違う」と複雑な感情を吐露している。自分が本来やるべきことはここにない、と直感的に気づいている描写だ。
宿命とは、自分の意思でその現実を変えることはできない境遇。王として生まれたメルエムが避けて通れないこと。でも、それは王の本望ではなかった。使命とは、何のために生きるかという意味。王という立場を度外視して、残された命をどう使おうかという意志のこと。メルエムは使命の方を選んだ。残された命の使い方を考えたときに、愛する人と軍儀を打つことを決めた。
これは、それまでの王の傍若無人さや規格外の戦闘力を目の当たりにしたハンターたち、護衛軍、引いては読者にとって、あまりにも非合理な選択であり突拍子もない行動だっただろう。最強である王の手の中には、他にいくらでも選択はあったはずだ。論理的に考えたらまったく理にかなってない。打算的な王らしからぬ行動だ。
これだから、キメラアント編は面白い。
そこには「喜怒哀楽という感情」しかない。感情は反射で出るものだ。そこに、王本来の個性や核が詰まっている。論理を超え、打算を捨て、感情に従って行動することで「本当にやりたかったこと」「命を使って成し遂げたかったこと」「この人のために生きる」といった使命に出会える。非合理で根拠がなくて、まるで理屈では説明がつかない矛盾したものだからこそ、尊い。
現代社会では、とかく合理的で論理的であり、矛盾がないかどうかが求められる。説明がつかない感情や直感など非合理なものは、ビジネスの世界では後回しにされがちだ。だからこそ「本当にやりたいことが見つからない」人が増えているのだとも思う。「本当はこれをやりたい!」という感情的な思いを捨てざるを得ず、とにかく合理的に論理的に無矛盾に考えてきた結果、本当の幸せや使命から遠ざかってしまっている。
時にはメルエムになろう。感情を解放しよう。説明がつかない非合理で矛盾の中に身を投じよう。そこから「本当にやりたいこと」が見つかる気がする。本日は天才漫画家・冨樫義博先生から学ぶ「やりたいことの見つけ方」について書かせていただいた。
それではまた!
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