10年以上ぶりに短パンを履いた
そう、10年以上ぶりである。10年以上ぶり。
短パンを履くのには勇気がいる。短パンを履くような男になるには、短パンを履いていいと周囲に納得させるような人間性が必要だと何の理由もなく考えていたからだ。
で、別に誰でも短パンを履いていいのであるというダイバーシティな現代の風潮に背中を押されて、勇気を出して、ある日着てみた。
めちゃくちゃ似合っている。無論、筆者は右のご陽気な成人男性である。
似合っているということは、もはや現代に私の短パン外出は認められたのではないだろうか。
よって、短パンを履いてもいいという許しによって一気に解放された私の、短パンを着用し倒す夏が始まった。
ところが人間はこうも長い期間短パンを履いていないと、その不便さや気恥ずかしさを都合よく忘却していると考えてしまう点も、一方ではあるわけだ。
例えば、ただでさえご陽気なのに、短パンのラフさと相まってもっとご陽気なお気楽人間に見えてしまったり。
例えば、道を歩いていて、「虫が脚に止まってきた!」と思って焦って脚を見てみたら、すね毛が微風に吹かれて皮膚がむず痒くなってるだけだったり。
例えば、これまで外に晒していなかっただけに無駄に美白状態の太ももと膝小僧が、なぜか逆に恥ずかしくなってきたり。
第一に、そもそも短パンというのは外で小便をするのに非常に不便である。男性の場合、外出した際に小便器で立ったままおしっこをする場合、便器から飛び散ったおしっこの飛沫が脚にかかりまくるのである。
これは別にズボンを履いているからといって飛び散らなくなるわけではないのだが、要は気分の問題で、脚で直接飛沫のライブシャワーを浴びるのと、布越しに安定を保たれた長ズボン被放尿スタイル、どちらがいいかという話である。どっちも本当に嫌だ。
よって放尿時、私は往年のふかわりょうさんのような態勢で、脚を大きく開きながら飛沫を器用に避けながら用を足している。最中に誰も入ってこないことを毎回祈りながら。このような小さいどうでもいい汚い祈りを、どうか間違っても神様には聞き入れないで欲しいとも同時に思う。
しかしながら人間以外の動物のオスのことを考えてみれば、彼らはそもそも、ペットではない限り、野に放たれているわけであり、どこで用を足していても許される、エブリウェア小便器の世界観である。
どこでしてもいいということは、すなわち他の動物がまだ放尿せざる場所を自ら選択する自由もあるということである。
この場合において、動物はまず服そのものを着用していないのだから当然尿の飛沫は脚にかかってくるものの、何を気にすることがあろうか、自分の尿である。いくらかかろうが何の問題もない。
人間は幾人もの人間が過去にそこで排尿してきたというヒストリーを背負った上で、飛沫を浴びなければならないという悲しい宿命にある。
ここまで考えて、ああそうか、人間は、決まった場所に排尿しなければならないという社会において、皆が過ごしやすい環境を保つために、短パンを履く不自由さを少しだけ増やして、その負担を共有しているのだなあと。
社会福祉のあり方について。さもありなん。日々感謝。そう感じたのである。短パン最高。