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アイドルと日々(さよならストレンジャー)


“世界は複雑で でも僕はまだ愛を探してる”

2017年、私の心に響いたこの言葉は2年後の2019年の今も私の脳の片隅にいつでも居座っている。明日になれば、年が変われば、時代が変われば…
きっと多くの人が、いつか誰もが自分を押し殺すことなく、互いを尊重しあえる、住みよい世界になればいいと願うのに、この世界はますます複雑さを増しているように思う。


SNSとはなんだろう?
そのサービスによって様々な特徴があるけれど、私にとってツイッターというもう一つの世界は、自分を自由に表現できる場所だった。
友人にさえ分かってもらえない少し変わった“好き”という気持ちや、目の前の人に言えなかった文句や、誰かを想って飲み込んだ愚痴を自由に吐き出すことが許される唯一の世界だ。
顔も知らない誰かの頭の中をのぞいては、共感をもっていいねを押したり、時には疲れたというぼやきにそっと慰めのいいねを押したり、もしかするといつも会う友人たちよりも私のことをよく分かってくれているかもしれない“誰か”がその小さな画面の向こうにいる。そういう不思議で心地良い場所のはずだ。

だけど私のいるARMYというファンダムが爆発的に増え始めた頃から、何かが変わっていった気がするのは気のせいだろうか?

TXTの『New Rules』という曲の中に“FacebookやInstagramにはなんで先生ばっかなの?”という詩があるけれど、どうやらARMYだけの話ではないみたいだ。いつからそんなことになったのだろう?
たった140文字でその人の価値を測れるわけなんてないのに人の発言を勝手にのぞいてはその人をジャッジしているのはなぜだろう?
一方でたった140文字で誰かのことを知った気になって勝手に飾り立てて語ったり、個人がジャッジした結果をまるで正論だと言わんばかりに突きつけるのはなぜだろう?

私が気に入らないのは、分かりもしない誰かの心を想像してあたかも本人が言ったことのように語る類のものだ。そしてそういった一見、大好きな人の心に寄り添っているかのように見える“それ”はいとも簡単にいいねを集め、興味を持てない私の目にも入ってくる。そしてそれを「へんなの」と、思った通りに発言したら、人の気持ちが分からない奴というレッテルを貼られるのだ。
私は思う。そのよく分からないポエムは誰の為に書いたのか。自分に酔ってはいないか、勝手に美談にしてフタを閉めて、現実に目を背けてはいないか?
本当に誰かを想って書いたポエムティックなものなら分かる。嫌だと感じることはない。だけど理解出来ない一見美しいそれらの言葉なら、誰よりも理解したフリをして人より一段上に立ちたかっただけではないのか?

しかし、どうやらSNSという狭い世界の中では、いいねの数が正義らしい。
バズってるそれは正しくて反対意見を唱える人は、こじらせてるとかひねくれ者の浅はかな奴だと嫌われるのだ。
私たちの大好きな人たちが涙を流せば、その涙のわけを勝手に予測してストーリー性たっぷりの言葉で飾り立てる。辛いことがあったから、もしかしたらこれが最後になるかもしれないから…。
本人は何も言っていないのに、どこの誰かも分からない人の頭の中の想像が、いつの間にか事実にすり替えられてしまう。
私はそのことが虫唾が走るくらい嫌だ。私の気持ちは私にしか分からないし、彼の気持ちは彼にしか分からない。

先日、ジョングクのタトゥーについてのツイートをした。
まだ本物かどうかも分からないそのタトゥーの一つの言葉が、グクがデビュー当時から大切にしている座右の銘だったからだ。
その言葉はNIRVANAの『Nevermind』というアルバムに収録されている、『Stay away』という曲の詩に登場する。
“Rather be dead than cool(クールに生きるくらいなら死んだほうがマシだ)”という意味の言葉だ。ちなみに私はこのアルバムを中学生の頃、毎日のように聴いていたけれど、グクが言っているそれが『Stay away』の歌詞だというのに気づいたのは今回の騒動に反応した海外ARMYのツイートを見た時だった。
私は昨年のVliveでグクがその言葉を口にした時、とても悲しかった。自分の身を削ってもARMYにすべてを捧げたいと言っているような気がして、それはとても喜ぶべきことかもしれないのに、とても悲しく、そんな考えを持つグクに危うさを感じた。だけど、ツイートに今話したことの全ては書かなかった。オブラートに包んで、140文字の中に収まった私の「グクは何も変わってない」という言葉は、現時点で1500いいねを集めている。
私は一貫した考えを貫くグクが好きだ。よくも悪くも頑固なところがすごく好きだ。だけど彼の行動が良いことなのか悪いことなのかは分からない。手放しにかっこいいとか素敵だとは言えない。だけどきっと1500いいねの中のほとんどの人が私がグクの行動を尊重し、褒め称えていると思っているだろう。140文字からはみ出た、いくつかのツイートを見てくれたほんの数人の人だけが私の本当の意図を知ってくれている。
もしかすると、私の本心と少し曲がって伝わってしまったその言葉は、たくさんのいいねを獲得して“正解の感情”に化けてはいないだろうか?
グクのタトゥーが本物だったら悲しいと感じる人たちの気持ちに、本当の私自身は共感できるというのに、私の言葉によって、どこかで悲しんでいる誰かが窮屈な想いをしているのではないだろうか。

そんなことを思うと私がバカらしいと思うツイートを放った言葉の主も、もしかしたら私の敵ではないのかもしれない。
たった140文字でその人の価値は測れない。たくさんのいいねの数だけで、ものごとの正解は決められないのだ。


以前『Bird』という楽曲が発売中止になった時、私はその曲が消えてしまったことが嫌だった。誰かが不快だと感じても、私自身が気に入らなかったとしても、表現の自由は守られて欲しかったからだ。
一度BigHitという事務所の打ち出したことが、いつまでファンでいるかも分からない移り気な私たちの意見ひとつで、いとも簡単に左右されることに違和感を覚えたから、そのような発言をした。
多くの共感を得ると必ず反対意見を抱く人もいる。自分の信念なら自信をもって突き通せばいいのに、誰かの感情に“寄り添っているようにみえる”私の言葉に、後ろめたさを感じるのか、反発する感情が生まれる。分かるように説明してくれたら理解しあえるかもしれないのに、そういう努力をしないで、バカな奴だと片付ける。あの時もきっと、私を“女性軽視を黙認する知識の足りない人”とカテゴライズし、くさいものに蓋をするように片付けた人がいるに違いない。
しかしあの時の一つの意見で私の何が分かるというのだろう?

私は世界のどこかにいる女の子たちの環境について、定期的に調べたり、余裕のある時には本当にわずかながらだけど寄付をしている。だけどそのことは友人も家族もおそらく知らない。私がそれをしているからといって、私が偉いわけでは決してない。良いことをしているのかどうかも分からない。だからそのことをアピールすることはなかった。そんな私は、きっと誰かにとって自分の周りの事しか見えていない意識の低いバカ女だ。
SNSって不思議だ。私が今までどんな人生を歩んで、どんな苦水を飲んで、踏ん張って生きてきたのか…その全てを知らないのに、会ったこともない、顔も知らない誰かにジャッジされるなんて、ジャッジできるその人はよっぽどすばらしい人なんだろう。


人は思い込んでしまう生き物だ。
ネガティブな人に関わる時、私はとても注意する。この人にこう言ったら予想外にマイナスに受け取ることがあるから余計なことは言わないでおこうとか、適当に相槌だけ打っておこうとか色々と企みながら自分を守って生きている。
しかしSNS上で放ったひとりごとにまで、勝手にマイナスに受けとって「なぜそのような発言をしたのか」と問われることがある。私はその人のことを知らないのに、まるで自分が文句を言われたかのように受け取るのはどういうことだろう?
私たちは違うのだ。
私の考えていることと自分の想いが違うからといって、自分がダメな人間だと思う必要はない。私は私で、あなたはあなた。ある出来事に対して抱えた感情が違うからといってなぜいつもどちらが正しいのかを決めなければならないのか。正しさや常識なんて遥か昔から歴史を辿れば、何度だって覆ってきたものだ。お互いに違うからこそ思いもよらない感情を覗き見ることがおもしろいのではないだろうか?

例えばAさんに「こんなツイートはするな」とBさんが言う。
しかしBはAの心のつぶやきを月額無料で勝手にのぞいているだけなのに、どこにそんな権限があるのだろう?この言葉づかいは良くないとか他の人はこう言っていたけどあなたはどうして…などと突っかかり、あかの他人のAさんの発言をコントロールしようなんてすごい根性だ。
私たちは違うのだから、相手を自分の思い通りにしようなんて無理な話だし、すべての人に好かれる人なんてよっぽどおもしろくない無味無臭の人だけだ。
私は粘着質なので、気にくわないものを見た時、リプ欄まで丁寧に確認する。(それは私の受け取り方が間違っているかもしれないからという理由もあるし、人の感情に興味があるからだ)だから、私をフォローしてくれている人が、時に私と反対の意見のツイートに共感していることを実は知っているけれど、その中のほとんどの人が私の愚痴に触れずに受け流してくれていて、私はその人たちをとても大人で賢い人たちだなと思う。
そんな人たちばかりならきっとあの小さな世界はもっと穏やかで平和なものになるだろう。



人のことは分からない。
好き勝手に明るく生きていたような人が心の中ではずっと泣いていたのかもしれなくて、おとなしく静かで弱そうな人が実はとてもタフだったりすることがある。
私たちはみんな少し似ていてとても違う。
相手のことを分かった気になって、何かを決めつけて語るのはとてもとても怖いことだ。


だけど、相手の気持ちを想像することはとても大切なことでもある。
BTSが1年4ヶ月にも渡り世界中を旅したツアーを終えた最終公演日、リーダーのナムジュンは珍しく涙を袖で拭うほどに泣いていた。
いつも誰かが泣けば、駆け寄り抱きしめるジミンくんは、泣き出したナムくんにすぐに駆け寄っては行かなかった。泣き止んだ頃にホソクくんが声をかけたり、ジョングクがぎゅっとハグしていた姿がとても印象的だったけれど、みんないつものように涙を拭ってあげたりずっと寄り添い抱きしめてあげるメンバーはいなくて、その瞬間は少し距離をとっているように見えた。
きっとそれは、彼にとって心地良い距離感だったのではないかと思う。分からないけど、そう思う。色んなことがあったよね?ずっと我慢してきたんだよね?がんばったね…と言葉で言うのは簡単だ。その声をかけることは悪いことではない。だけど、言葉にした瞬間、どこにもハマることの出来ない感情が生まれてしまうだろう。あの時何を思っていたのか、どんな想いがその涙になったのか、それはすぐそばにいるメンバーにさえ分からないことだ。
そして他のメンバーたちは、分からない彼の心の中の出来事を想像して、彼にとって心地良いであろう距離で寄り添っていたのではないかと思う。
私は誰かの心を決めつけることなく、そんな風に人に寄り添える人になりたい。



『グッドプレイス』というドラマを観ている。
人の人生の全ての行動にポイントがつけられ、人生の幕を閉じたとき、ポイントの合計点により“良いところ”と“悪いところ”、どちらに行くのか振り分けられる。
“良いところ”に行ける人はほんのごくわずかだ。

ある人がおばあさんの誕生日にバラを贈った。
自分でバラを摘み自ら届けたその人は145ポイントを獲得した。
別の場所で別の誰かがおばあさんの誕生日にバラを贈った。
しかしその別の誰かはポイントをマイナスされた。
マイナスされたのはブラック企業が製造した携帯電話でバラを注文したからだ。そのバラは有毒な薬がまかれ強制労働移民によって摘まれたバラで、配達の過程で二酸化炭素が大量に排出され、その企業のCEOは人種差別者で…バラを贈るという行為は良いことなのに世界は複雑さを増して、良いことがなぜか悪いことにすり替わり、良い行いがしづらくなっている。
そして“良いところ”に行ける人はいなくなる。
物語はやがてそのポイント制に疑問を持ち始める。主人公たちはバカでクズでどうしようもないけれど、人と出会い心を通わせ、愛する事で、誰かの為に“良いこと”をしようと奮闘する。
良いことがしたいと願うバカでクズでうそつきでどうしようもない彼らは、本当に悪い人間なのだろうか?


世界は複雑だ。
みんなきっと誰も傷つけたくはないのに、人の感情はすれ違う。
バラを贈ることが悪いことになってしまったように、ただ良いことがしたかっただけなのに、複雑な世界に飲み込まれて揚がった足をひっぱられる。誰も傷つけたくはないのに、自分に自信がもてないから、自分を認めてあげられないから、不確かな自分の正しさを世の中の常識にしたくてくだらないマウントを取り合いありとあらゆる企みをもつ。

人はみんな別々だ。
私のすべてをあなたは知らないし、あなたのすべてを私は知らない。
知らない誰かを分かった気になんてならないで、互いに干渉しないでいられたら、時々重なり合った感情だけ喜んでいられたら、もっと人にやさしくなれるのではないだろうか?自分とは違う誰かを時に気にかけながら、それぞれに生きられたらこの世界はとてもおもしろいものになるのではないだろうか?


お願いだから、たったひとつの言葉や行動の切れ端を取り上げて誰かをジャッジするのはやめにして欲しい。
たったひとつの出来事で、真実かどうかも分からない噂ひとつで、誰かのすべてを決めつけるのはもう終わりにしてくれないか。誰かを“かわいそう”だと決めつける上澄みだけの思いやりが、気軽にぶつけてしまえる不確かな正義が、取り返しのつかないことを引き連れて来てしまう前に。
私は完ぺきな人間ではない。
あなたもきっとそうじゃない。
完ぺきではない私たちに、人の価値は測れない。


大好きな人が今日どんな風な1日を過ごしたのか、誰に会ってどんな話をしたのか、私たちは知る由もない。
そして私は、そのさみしさを愛おしく思う。
突然遅れて届いたいつかの日の便りに綴られた、
思いもよらない、大好きな人の不思議な一言を、私はとても愛おしく思う。
よく分からないから大好きだ。
よく分からないからかわいい。

よく分からないその人を私はもっと知りたいし、できることなら心の奥深くまで理解したい。
例えば彼が、私の想像とはまったく別人だったとしても、私の想いは何ひとつ変わらないだろう。

私と少し似ていてまったく違う、想像もつかない彼の小宇宙を私は今日も愛している。

愛してるという言葉では足りないないくらいに。


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