(日記)まだ素直さを失ってはならないという確信。モラトリアムに終わりが見えている。
思考の整理も兼ねて、思いついたことを、できるだけ早く、正確に書くことを目的としている日記です。
お目を通していただき、ありがとうございます。
人の話、特に労働における注意や自分が引き起こした失敗への諫言を、年々聞くことができなくなっている自覚があります。
私は塾にてアルバイトをさせていただいているのですが、子どもたちを観ていると、素直に人の話を聞くことができる子ほど、よく勉強ができる傾向が見られます。日進月歩の発展途上にある子どもと、ある意味で「完成形」であり一定以上の責任及び判断が求められる大人を、同じ土俵に上げる意味はあまり無いかもしれませんが、やはり素直さは恒常的な成長の要素であるように思えます。
人に注意された時、最初に私が覚える感情は悔恨です。ミスに気づくことができなかった自分への悔しさ。それから心中には自己正当化の言葉がいくつも浮かんできて、口に出してしまいそうになります。外面は話を聞いているように取り繕っているつもりですが、内心は荒れていますから、実際には話半分にしか聞くことができていません。注意が終わった後も相手の言葉について繰り返し考え続けて、ようやく反論したい気持ちを抑え、心の平静を取り戻すことができる、そんなことの繰り返しです。
真っ当な考え方のできる人の場合、相手の言葉を聞くまでもなく自分で正解を見つけることができるのでしょうが、私の場合、それは性格の悪い屁理屈の域を出ることがありません。頭の悪い人間ほど人の言葉をよく聞いた方が良いと思います。それができないから頭が悪いのだと考えることもできますが。
モラトリアムもとうに終わりが見えており、色々な焦りを覚えている状況で、心が不安定な状態にある。そんな言い訳も無くはないですが、社会人になれば私はドベのドベ、耳を傾けなければならぬ陳言は今の何倍にもなることでしょう。
相手の言葉をそのままに受け取ることができる、そんな愚直さを持つことができるようになりたい、あるいは考え続けることを苦痛と思わない強さを身に着けたいものです。そのヒントは日記をつけること、それを日々見返すことにあるのではないかと思います。
若さという動力を失う前に、のちに後悔することのないよう、生きてゆきたいものです。
まとまらない、かつナルシシズムあふれる文章でお目面汚しを失礼しました。もっと面白いと思ってもらえるようなテーマで文章が書けるようになりたいものです。