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『モーツァルト!』が難しい。

初観劇後、時を経ずして。
『モーツァルト!』が難しい。

!すみません!
!本noteはミュージカル『モーツァルト!』を鑑賞された方向けです!

事前情報なしで鑑賞に挑むのは私の映画鑑賞の癖だったので、舞台だろうが変わらず下調べなしで行きました。
そしたら、顎外れたんですから。

終演後、最初に私の脳内を占めたのは、この上なく大きなクエスチョンマークと観劇後特有の高揚感でした。
そして夜が明けてから、ちょっとでも調べるべきだったと後悔したのです。
なぜって、あの時の私はまるで整地されていない砂利の上でパズルを組み合わせようとしていたも同然で、そりゃ物語を理解できなくて当然だったから。

しかし、悪いことばかりではありませんでした。
物語が分からない反面、登場人物たちの感情が直接感じられました。
歌声は一点の翳りもなく素晴らしいものでした。
そしていつからか私は鑑賞中に混乱することさえやめて、全てを受け入れていました。



せめてアマデの存在くらい知っておくべきだったでしょう。

キャッチコピーである「僕こそミュージック__」だけでは、理解するための情報が到底足りなかったのです。
「才能が宿るのは肉体なのか?魂なのか?」というテーマ。これについても知っておくべきでした。
ヴォルフガングの最後の選択はこのテーマに対するアンサーであり、このテーマこそ作品全体を通して感じるやるせなさを助長する原因でもあります。

自由を体現するヴォルフガングと、彼の才能の化身であるアマデ。
彼を取り巻く人々が愛したのはどちらのモーツァルトだったのでしょうか。

これもでかい問題なんですけど、どちらがミュージックだったのでしょうか。
ヴォルフガングは「自分の陰から逃れる」ことができたのでしょうか。

大半の方の解釈通り、ヴォルフガングを愛したのはコンスタンツェだけのように思えます。しかしコンスタンツェですら、愛していたのは出会った頃の自由で束縛のない、過去のヴォルフガングであり本質的な彼ではありませんでした。
もしかして、今で言うダメ男専?みたいな?
というより、ヴォルフガング的には本当に愛されていたのですが、時代の波と共に変化する彼自身と彼の元来の奔放さを受け止めるにも限界があったのです。

私的に、コンスタンツェは常識人です。
アマデの次に常識人です。

コンスタンツェと向き合わなかったヴォルフガングに責任があると思います。
とはいっても、合間合間に登場する未来のコンスタンツェは当時の見る影もなく冷たい態度をとるようになっていて、それはそれで悲しく思えたりもします。

また、コンスタンツェもヴォルフガングと同じように「影」を持つ人でした。
それはヴォルフガングの死の直後にも平気で金をくすねるような家族ですけど。



冷たい態度と言えば、作中ツンデレ代表格のレオポルトがいるじゃありませんか。

観客やナンネール相手なら本心を伝えることができるのに、ヴォルフガング相手だと全く口下手ですよね。

愛する息子のことが心配で仕方ない。
だけど父親としての品格は崩さない。

自分ならヴォルフガングを正しく導くことができると確信していても、最後の最後詰めが甘いように感じられました。
(最終的に本人の意思に関わらず化けて出てヴォルフガングの運命を変えるのですから、ほんとなんていうか。)

レオポルトは観客に向けてのキャラクターの解像度が高いのでまだ理解できますが、姉であるナンネールはどうでしょう。
私は好きになれません。
包み隠さずいうのであれば、ナンネールが一番子供っぽかったです。ヴォルフガングよりずっと、子供の頃の栄光と夢に囚われていた気がします。

そもそもヴォルフガングが過去の栄光に囚われていたかというと、そういうわけでもありません。彼は常に自身の自由、今やりたいことを本能的に追い求めていたわけです。アマデも囚われていたように見えませんでした。
やはりナンネールは恐ろしい。本人に悪意がないところを踏まえると、私は純粋に恐怖します。



もっと恐ろしい人がいます。
男爵夫人です。

彼女はコンスタンツェとは対照的に、アマデを愛した人ということでしょう。
だからアマデのために「星から降る金」を探すように説き、彼の音楽活動を支援したのです。
かといって彼の活動を正しい方向へ導こうという素振りはなく、すべてアマデ任せになっていました。

男爵夫人的には、“モーツァルト”が曲を作りさえすれば良かったのでしょうか。

私の鑑賞深度の浅さにも問題はありますが、夫人の腹の底の見えなさが恐ろしいのです。
純粋によく分からないから恐ろしいのですが、それと同時に面白くもあります。彼女を理解することができれば深度は一気に深まるはず。



なぜ、モーツァルトは自死を選んだのか。

単にヴォルフガングが父の亡霊に苦しめられ、それから逃れるために自殺を選んだわけではないでしょう。
もしヴォルフガングが自分自身の才能の欠如に気づいたことにより自死を選んだのなら、(事実モーツァルトは父へのレクイエムを完成出来ずにいました)それはただのアマデに対する八つ当たりのようです。
ですから、これも違うでしょう。

ひょっとすると、劇中ヴォルフガングが繰り返し唱えていた「自分の陰から逃れたい」の究極形態のような気もしませんか。

自分の影とはまさに、称賛を一心に受けていた幼い頃の姿をしたアマデのことを指しているのだとすれば、ヴォルフガングは自分自身に才能が宿っているのではないことに気づいていたのでしょう。
彼自身の自由人としての人格と、音楽の才能の乖離が激しかったからこそ顕現されたアマデであり、それこそ「自分の影」としてヴォルフガングの瞳には映ったのかも知れません。

その影から解放されるために選択されたのが自死、って本当に救いないですよね。



私自身、ウィーンミュージカルについて何も知らなかったわけではありません。
友人は一時期『エリザベート』に夢中で、その素晴らしさと暗さについて何度か話を聞かせてくれたことを覚えています。

だから何となく雰囲気だけは掴んでいたのですが、まさかこんなやるせなさと焦燥感を感じるなんて思いませんでした。

結局、ヴォルフガング的には「僕こそミュージック__」に納得いってるのでしょうか。
ヴォルフガングがミュージックでいるために命を絶ったという解釈もずれている気がしています。確かに逆説的にはヴォルフガングとアマデは一心でなくとも同体である証明にはなって、それ即ち自身がミュージックであることにも繋がるのかもしれません。
自分でも何言ってるか分からないけれど。

もう全ては、ヴォルフガングの人生にさらに翻弄されたとしか言いようがありません。情緒は彼の手のひらの上でコロコロ。
ヴォルフガングのおもちゃにもならないこの情緒が。



そもそも、こういったタイプの作品を真っ向から噛み砕こうとするのは、少し違うのかもしれません。

歴史は過ぎたことであり、それ以上も以下もなく変えられないものです。
この作品はそんな歴史の性質を踏まえた上で限りなくファンタジーであり、それが反転して逆に人間味さえあります。
だからこそ空虚だと感じるのではないのでしょうか。

というか、厳密には全ての台本ある舞台は違った意味での“歴史”をなぞるものなので、同じように聞こえてしまいそうです。
しかし、少なくとも私の鑑賞してきた作品と今作とでは訳が違います。

「救われない」にも種類があります。
大勢の登場人物はその運命に争おうと必死に抵抗し、時にそれは成功し、失敗もします。

そう、やけくそに聞こえるかもしれませんが、きっと問題はこれです。
ヴォルフガングが運命に争おうとしたことはありましたか。
もちろんレクイエムを捧げようと必死で作曲していましたが、あまりにもあっけなく終わりを迎えます。

多分、私の抱えるやるせなさとは、その運命に置かれた本人の行動によって度合いが変わってくるものです。

「悲しい。それでも彼は努力したから」

そんなことない。
モーツァルトが何をした?

こうも考えられます。
自由を体現したようなヴォルフガングですから、運命くらい自分の選択からくるものだったのかもしれません。
だから逆らう必要などないのです。
もしそうだとしたら、とことん刹那的に生きる人ではありませんか。



この作品が長きに渡って愛されていることに、未熟な私は驚きを隠せません。
それでも確かに、この作品には惹きつけられる魅力があります。
果たしてこの魅力はヴォルフガングのものなのか、モーツァルトのものなのか。

様々な登場人物が関わり合う、人生と自由を煮詰めたような作品でした。
ひと筋縄ではいきません。私は、それが分かっていても考え続けてしまいます。

モーツァルトはこのようにして人のことを弄んできたのでしょうか?
なんて、言ってみたかったり。
でも、これじゃあヴォルフガングの身の回りにいた人と同じじゃありませんか。

物語のことはひと段落として、素晴らしい舞台を見ることができて嬉しかったです。大きな機械仕掛けのピアノの舞台から、あれほど多彩な表現ができるなんて知りませんでした。

またいつかもう一度観劇したいです。
違った俳優の演じるヴォルフガングから、また新たな発見が得られるかもしれません。

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