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腐れ外道の城4-1

市蔵

    本田忠康からの援軍に先んじて、三郎兵衛の治める領地、黒岩から十数人の援軍が、必要な物資をもって井藤砦に現れた。
 因みに「井藤砦」とは、突然本田家に反旗を翻した井藤側が付けた名称で、今ここを守っている者達は、この砦を「三郎兵衛砦」と呼んでいる。
 その黒岩からの援軍に、一人の少年がいた。名を加藤市蔵という。
 この市蔵は、今では甲四郎の良き参謀役を務めている加藤甚六の養子である。
 この市蔵と言う少年の人生は、一言で説明するには難しい。
 まず市蔵は、戦場で取り残され吠えるように泣いていた謂わば戦災孤児であり。
 その子を三郎兵衛が拾い、子宝に恵まれなかった甚六に預け育てさせたのである。
 それもただの孤児であれば、話は簡単なのであるが、市蔵を拾った戦が少し他の戦とは様相が異質なのである。
 樋野を含む周辺地域には、「土蜘蛛」と呼ばれ忌み嫌われている集団がおり、土蜘蛛は土地の支配者に従わず、定着した土地も持たず、勝手に土地を開墾し、村人とのいざこざをおこし、村人を殺傷したり、村の娘をさらい、土蜘蛛の男衆が輪姦するという事例も多発し、そのような「異民族」の存在は、領主である本田家の悩みの種なのである。
 「土蜘蛛」達にも主張はあるのだが、その主張はあまりにも時代錯誤である。
 土蜘蛛達は自らを「ヤソタケル」と名乗り、神武天皇がまだイワレビヒコと名乗っていた時代、大和周辺はヤソタケル達の領土であったのであり、その土地を奪い取った者や、奪い取った者に従い、中央政権に擦り寄っていった者達の末裔に、「誇り高きヤソタケルが従う謂われはない」と主張しているのだ。
 このような人種が、戦国初期に存在していること自体奇跡といえるが、言い換えれば、樋野とその周辺地域がそれだけ辺境の地であるといえよう。

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