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「魂」が宿る文章とは何か?
上達の探求さんの記事を読んでいたら
「それすごいわかる!」と思ったので、
今回取り上げさせていただきます。
(すみません、許可は取っていません)
何の記事を取り上げるのか?
それは以下の記事です。
本物の文章には生命が宿っているかもしれない🐼 文章を書く楽しさを知った人は人生の最期まで幸福である💛
私は中高年になってから文章を書くことの楽しさを知った一人です。その楽しさの一つは、書き始めた当初は文章の結末が自分でもわからないことです。
文章を書く楽しさを知った人は人生の最期まで幸福である💛
「楽しさの一つは、書き始めた当初は文章の結末が自分でわからないこと」
これ、ものすごくよくわかるんですよね。
この言葉を聞くと、
とある漫画家さんが言っていた言葉を思い出します。
「キャラクターを創り上げると、
あとはキャラクターが勝手に動くから、
私自身もどういう話になっていくのかわかりません」
「だからこそ、描いていて面白いし、
描いている私自身、その後の物語を楽しみにしている」
と。
文章も似たようなところがあるな~、と
思うわけです。
記事内にはこんな事も書かれています。
「文章に生命が宿っている」という表現は、少し仰々しいです。しかし、本物のnoteクリエイターは、私同様に誰かの受け売りではない自分の言葉で文章を書いています。
ですから、自分たちの文章がまさに「生きている」ように感じるわけです。記事タイトルと大見出しで書いた「本物の文章には生命が宿っているかもしれない🐼」とは、まさにそのような「感じ」のことです。
私は言葉に導かれるように文章を書いています。そのため、当noteの主人公である私が、実は何かに導かれているような錯覚を感じます。
これは、経験者にしかわからない体験かもしれません。
文章を書く楽しさを知った人は人生の最期まで幸福である💛
「私は言葉に導かれるように文章を書いています」
これすごくわかるな、と。
なんというか、
頭で書いているというよりも、
言葉に導かれるように、感覚で書いているんですよね。
で、個人的に感じていることは、
しっかり構造や結論を決めて書いた文章よりも、
見切り発車で書いた文章の方が「魂」が宿りやすい、と。
なんでかというと、
言葉に導かれて文章が"勝手に"生み出されていくから。
「左脳」で書いた文章と
「右脳」で書いた文章
なんというか、
構造や結論を決めて書いた文章は「左脳」が働き、
言葉に導かれて書く文章は「右脳」が働いているように思うんですよね。
「左脳」で書いた文章は魂が宿りにくく、
「右脳」で書いた文章は魂が宿りやすい。
個人的にはそう感じています。
もちろん、構造や結論を決めて書いた文章でも
「右脳」を使って書くことはできるんでしょうけど、
構造や結論は、そもそも論理的発想から生まれたものだから、
やっぱり「左脳」重視になってしまうと思うんですよね。
左脳重視の文章も悪いわけではないけれども、
何か伝えたい"想い"があるなら、
左脳重視の論理的発想よりも
想い重視の「右脳」を使った方が心に響くのではないかと。
で、僕の場合ですが、
「どんな結果になるかはわからない。
その場の想いを胸に、ただ書き連ねていく」
そういった状態のときに
「魂が宿った文章が書けた」
と感じます。
つまり、
想い重視の「右脳」を使った文章になるわけです。
そして、そういう文章を書いている時が、
本当に楽しく書けているときなんです。
文章と幸福
上達の探求さんの記事の見出しに
文章を書く楽しさを知った人は人生の最期まで幸福である💛
文章を書く楽しさを知った人は人生の最期まで幸福である💛
と書かれていますが、
これもまさにだなと思うんですよね。
文章を書くのに、
特別なモノは何もありません。
紙とペン、
今では常に持ち歩いているスマホがあるので、
いつでも書きたいときに書くことができます。
文章を書く楽しさを知れば、
いつでも楽しい気分になることができるんです。
文章を書く楽しさを知ることで、
いつでも楽しい気分になれる。
だからこそ、それが
人生の最期まで幸福でいられることに繋がると思うんです。
見切り発車の文章を書くことは
自分を深く知るきっかけになる
構造や結論を始めたから用意した文章ではなく、
見切り発車の文章を書くことで、
より自分を深く知るきっかけになると思うんですよね。
僕もこの記事は
見切り発車で書いた記事です。
「上達の探求さんのこの記事の内容、すごくよくわかるわ~。
せっかくだから、記事にさせてもらおう!」
という想いのまま書き進めただけですので。
なので、構造とか結論とか
一切考えていません。
思うがままに、
導かれるがままに書いています。
当然、どんな内容になるのか、
どういう結論になるのかは、
いまこうやって書いている僕自身にはわかりません。
書き終わったときに、
「あー、こういう内容・結論になるのか~」
とようやくわかるんです。
僕は構造を作って、結論ありきの文章を書くよりも、
こうやってどういう構造、どういう結論になるのかわからない文章の方が
書いていて楽しいです。
文章を書き進めながら、
「自分はこんなことを考えていたのか~」
と思ったりしますから。
人の相談に乗った経験があるのであれば、
「自分が考えてもいなかったことを口にした」
という経験を一度はしたことがあるかと思います。
例え話だって、その場でスルッと出てきたけど、
「そんな例え話はこれまでしたこともなかったぞ」
みたいな。
相手のために相談に乗ったつもりなのに、
話しているうちに「新たな自分」が見えてくるんですよね。
だから、僕は
人の相談に乗るのが好きなんです。
喜ばれるだけでなく、
新たな自分を知ることもできますから。
ただ、そういうことは
相談に乗るだけでなく、
文章を書くことでも似たようなことができると思うんですよね。
文章を書くことで新たな自分が見えてくる
文章をなぜ書くのか?
その理由は人それぞれだと思いますが、多くの場合、
「読み手の人生が少しでも良くなればいいな」
という想いなのではないかと思います。
「読み手に伝えたいことがある」というのも、
結局は「読み手の人生が少しでも良くなること」に繋がりますから。
物語を読んでもらう場合も、
読み手に面白いと思ってもらうことで、
良い時間を過ごしてもらえます。
人によっては、
物語からメッセージを受け取って、
より良い人生にしていく人もいるでしょう。
文章を書く理由は
「読み手の人生が少しでも良くなればいいな」
「読み手に少しでも良い時間を過ごしてもらいたいな」
そういう想いから成り立っていると思うんです。
意識的にせよ、無意識的にせよ。
で、そういう想いがあるからこそ、
相談を受けているときと同様、
「自分ってこんなこと考えてたんだ!?」
という驚きの文章が出来上がると思うんですよね。
新たな自分に出会うための文章
これは僕自身が勝手に感じていることですが、
構造を作ったり、結論を最初から定めていると
読みやすい文章は書けるかもしれないけれど、
「左脳」に頼って文章を書いてしまうため、
「想い」という部分はあまり反映されないように思います。
その結果、どうなるのか?
「自分が知っているもの以上のものは出てこない」
そうなってしまうのではないでしょうか?
少なくとも僕は、
「こういう構造で、こういう結論にしよう」
と「左脳」に頼って書く場合、
新しい自分に出会うことができません。
だから、書いていて
少し物足りないんです。
こうやって見切り発車で書いていた方が、
楽しいし、想いが乗る気がするし、
新しい自分にも出会える。
だから、こういう
書きたいように書くのが好きなんです。
見切り発車で想いのまま文章を書く
「見切り発車で想いのまま文章を書く」
それは、
「言葉に導かれるように文章を書く」ことに
繋がると思います
そして、これはまさに漫画家さんが言っていた
「キャラクターが勝手に動いて物語を創り上げている」
というのと同じことだと思うんですよね。
「言葉が勝手に文章を創り上げている」のですから。
そして、そういう文章にこそ、
「魂」が宿るのではないか、と思うのです。
「言葉」が勝手に文章を創り上げているのですから、
その「言葉」には「生命が宿った文章」になる。
「魂が宿った文章」になる。
僕はそう思うんです。
だから、僕が好む文章って
「最初から組み立てられた左脳的な文章」ではなく、
「その場の想いが込められた右脳的な文章」なんですよね。
構造がきっちりした文章はわかりやすいけれど、
心にはあまり響いてこない。
そう感じるんです。
左脳的な文章が悪くて、
右脳的な文章が良いと言いたいわけではありません。
伝えたいことをしっかり伝えるために
論理を重視した左脳的な文章も大切ですから。
ですが、人の心を動かすのは、
右脳的な魂が宿った文章なんじゃないかな、と
個人的には思うのです。
あと、
「文章を書くのがつらい」
そう言っている人の文章は
左脳的な文章になっていることが多いように感じます。
論理がしっかりした文章を
一生懸命書こうとする。
だから、つらくなっていくんじゃないかなと。
「文章を書くことに慣れたい」
「文章を楽しみながら書きたい」
そう思うのであれば、
まずは右脳的な文章で
まずは想いのまま書きたいように書き連ねる。
そうやって、文章を書くことを
楽しんでいけばいいんじゃないかな、と思うのです。
最後に
つらつらと想いのままに書いてきました。
「想いのままに書いていこうよ」的な内容になりましたが、
一応問題点も書いておきます。
それは、
「想いのまま書き連ねるために、
論理が破綻しているような文章になりがち」
ということです。
「いや、それ大きな問題じゃね?」
と思ってしまいますが、
それもまた味のある文章かなと思っています。
あれ?良いように解釈しすぎですかね?
一応、論理の破綻を防ぐためには
「推敲を重ねること」にありますが、
論理が破綻しているからこそ、人となりが見える、
なんてこともあります。
なので、
それはそれでいいんじゃないかな、とか思っています。
そんなことを言ったら、
各方面から起こられそうですが(´▽`;)ゞ
さて、今回、
右脳重視で文章を想いのまま書き連ねたことで、
「左脳」で書いた文章は魂が宿りにくく、
「右脳」で書いた文章は魂が宿りやすい。
という言葉が生まれました。
これは自分で書いたのに
自分自身で「へぇ~」とか思ったんですよね(ぉぃ
自分で書いておきながら、
「今後のネタの一つとして使おう」なんて思ってしまいました。
そうやって、新しい自分に出会えた、
新しい発想に出会えたのは
「右脳」的な文章を書いたからではないか。
そう思うのです。
さて、今回の内容を
「言葉に導かれたまま文章を書いてみませんか?
言葉に導かれたまま文章を書くと、きっと楽しく、
そして魂が宿った文章になりますよ!
そして、文章を書く楽しさを覚えれば、幸せな日々が続きますよ!」
とまとめておきます。
まぁ、これは上達の探求さんの
記事の内容のまとめでもあると思いますが。
上達の探求さんの記事は
非常に面白く読ませていただきました。
なので、再度
以下に貼り付けておきます。
ぜひ、一度お読みください。
▶過去の記事
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それでは、最後までお読みいただき、
ありがとうございました!
noteを書くこと、文章を書くことを楽しみ、
人生を幸せで埋め尽くしちゃいましょう!