生きていたらつらいことも多いと思うけれど、そこに居場所が見つけられたらいい。それは本当に街にとっては大切なこと。観光のことを考える前に住んでいる人のことを考える。それが結局は観光のためになるという風に考えています。 〜岩本歩弓さんインタビュー〜
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【乙女の金沢】
金沢×乙女
旅の仕方が20年前とはあきらかに違ってきています。インスタなどSNSで行きたい場所をピンポイントで検索したり、昭和レトロや喫茶店などディープなテーマで切り取ったガイドブックを読んだりするのが当たり前になっている今の情報の集め方に対し、20年前はインターネットもそこまで便利ではなく、感度の高い人でさえも地球の歩き方やるるぶなど大手出版社が出すガイドブックに頼らなきゃいけない状況でした。そんな2006年にちょっと変わった切り口の旅のガイドブックが出版されます。それが『乙女の金沢』。編著者が金沢在住の岩本歩弓さんです。岩本さんは金沢で生まれ、東京の出版社リトルモアに就職。そこで編集から営業、宣伝まで様々な業務を体験後、4年で金沢に戻る決意をします。ご実家が大正時代から続く桐工芸品のお店。その良さについてもっと伝えられるんじゃないかと戻ってきたのが、2004年。ちょうど金沢21世紀美術館ができた年で、金沢が変わっていく兆しがあちこちに感じられたといいます。そんな時に元上司から連絡があり、金沢の新しい旅の本の話が舞い込んできました。アイデアについての話を岩本さんからお聞きするつもりが、今の観光のあり方や、まちづくりへと話が広がっていき、僕自身、とても身の引き締まるインタビューになりました。
――2004年当時はまだまだこんな変わった切り口の旅のガイドブックはなかったと思います。最初にこの本の出版の話を聞いてどう思いましたか?
岩本歩弓さん(以下、岩本) 『乙女の金沢』の前に『乙女の京都』がすでに出版されていて、その第2弾だったんです。ただ、私は乙女というものにまったく興味がなくて。私が紹介したいと思っていた個人商店の人たちに聞いてみたら、みなさん乙女に対するイメージがバラバラで。でも、乙女という枠組みに対して抵抗がある人がいたとしても、それくらいでちょうどいいかもしれないと自分を納得させました。大量消費的なたくさん人を集めてたくさん物を売るという価値観じゃないそんなお店を掲載したくて。小さな個人商店ってあまりにも人が来すぎても対応できないですから。
――そんなイメージがバラバラだったらまずは「乙女」の定義を言語化しそうなものですが。
岩本 言語化はしなかったんですが、イメージとしては「好奇心があって、自分でおもしろいものをみつけられる人」でしょうか。個人商店の店主ってクセのある人が多いけど、そういう人が私は好きで。だから全国どこにでもあるようなお土産屋さんじゃなくて、個人商店をお勧めしたい!という思いでつくりました。
――そうやって新しい旅の本を一冊つくったら、金沢を盛り上げていくプロデューサー的な立場になっていきました。
岩本 プロデューサーかどうか、自分でもわかりませんが。笑 出版に合わせてイベントができないかと思っていたところに三越のバイヤーの人が本を見て、おもしろいからここに出てくるものを集めて全国の何店舗かで「乙女の金沢展」をやってみないかと声をかけてくれました。それで作家さんから作品を借りたり、金沢のお菓子を買って持っていったりして、銀座と新潟と仙台と札幌だったと思うんですが、2008年から巡回展をしました。そこから福光屋さんの東京のショップや金沢21世紀美術館、金津創作の森などでの展示販売につながり、さらにそれを見た方が今度は野外でやってみませんかと。当時松本のクラフトフェアも人気だったので。クラフトフェアのことはよく知らなかったのですが、当時、おつきあいのある作家さんらに話を聞くと、県外の会場の場合、交通費・宿泊費もかかるし、天候のリスクもあるので、金沢でできるならやって欲しいという声があリ、だったらやってみようかなと思いました。2011年から『春ららら市』というイベントとしてスタートし、今でも続いています。
――『乙女の金沢』を引き受けた当初はご自身の頭の中に乙女の定義がされていなかったとおっしゃいました。徐々に輪郭がはっきりしてきた感じでしょうか。
岩本 んー、決めなかったのも良かったのかもしれません。徐々に名前が定着したからそこには何でも入れられるようになった。地元で毎年楽しみにしてくれる人が増えてきて、その人たちはそれぞれのイメージを持って来てくれるんだけど、この乙女という器は何を入れてもいい。いつの間にかそうやって周りが認めてくれて定着してしまったという感じでしょうか。
――なるほど。何でも受け入れられるいい器ができてきたんですね。
岩本 現在では時代も変わってマジョリティじゃないものにも焦点があたるようになっていますが、チェーン店ではなく個人商店がたくさんあったほうが街はおもしろい。私自身、街を歩いたり自転車に乗ってあちこち行って店主としゃべったりする。家と職場以外にちょっと寄れる場所があちこちにあって、そんな生活ができることは大事だと思っていて、それが普通にある街なら訪ねてきた人も同じように居心地よく過ごせると思います。社会人になって最初は東京に住んでいて、その時は住んでいる街や働いている街が自分と関係しているとは思えなかった。今は金沢に住んで仕事もして、金沢くらいの規模だと自然と関わっていくことがたくさんあって、さらにイベントをやって、お店の人と話をして、街を移動して、街の中で打ち合わせをして、子どもと一緒に街を歩く。そうするとどんどん感じることや考えることが多くなってきました。
――朝日新聞連載の『歩けよオトメ』を読ませていただきました。岩本さんはいろんなことに感じて動く人だなと思いました。
岩本 子どもの学校の問題にしても観光にしても、自分ひとりだけが問題だと感じているなら動くことはないけれど、友だちとかまわりの人と話をする中で同じように思っている人がいるんだなとわかる。そう思えるから行動に移すことがあるのかもしれません。
――それともう1点。岩本さんは曖昧なまま枠にはめれられてしまうのが嫌な人なんだなと。乙女の金沢も「乙女」っていうくくられ方が腑に落ちていない。でもそれを逆手にとって器ができたんだからなんでも入れちゃえって。枠にはめられたものを岩本さんが曖昧にしていった結果、現在の姿になっています。
岩本 そうですね。結婚という形式も嫌で籍は入れませんでしたし。関係性を枠にはめてしまうのが嫌なのかもしれません。こぼれ落ちるものが多すぎる気がして。
――そこに居心地の良さを感じる人もいます。こぼれ落ちるものはあっても、そこに入ったほうが楽。だってなぜこだわるのかをいちいち伝える必要もないし。なんで結婚しないんですかって聞かれることもない。それだったらって結婚を選ぶ人もきっといます。
岩本 金沢のような地方都市において、結婚して、子どもを産んで、家を建てるのが当たり前、というような、そういう価値観に若い頃は気づいてなかったんだと思います。
――同じように「観光都市金沢」というように構えてしまうと、どうしても観光スポットを巡るようになる。「21世紀美術館のプールで写真を撮る」とか、「ひがし茶屋街で金箔ソフト食べる」とか典型的なところばかりを巡る。そうするとこぼれ落ちてしまう場所やもの、人が出てきてしまいます。
岩本 そうですね、いろいろな危険があります。海外や県外に旅行にいった際にどういう場所が心に残るか、もう一度来てみたくなるかというと、やっぱりその土地の人に触れたとか、地元の人たちが普段行くところに一緒にいったとか、そういう生活に近いところのほうが、記憶の残り方が違うと感じていました。スポットをただ巡るだけの旅だと、兼六園で写真撮ったから「よし、次いこ!」って、また来ようって気持ちにはなりづらいと思います。それは受け入れる側もそう。いまちょっと金沢が人気だからって飲食店や宿をオープンするとちょっと人が来なくなるとやめちゃえってできちゃう。そういう考えの人ばかりだと、すぐに街は荒れていく。例えば東京のまちづくりって、「コレド日本橋」とか「コピス吉祥寺」みたいに、街の名前とカタカナの組み合わせで同じような商業施設をあちこちにつくってます。その中にはどこも同じような店が入っている。そんなまちづくりをするとどこに行っても結局は一緒でおもしろくない。同じような街のつくり方をしてしまうと日本全国が均一化してしまいます。人にしろ街にしろすでにいい部分があって、そこに気づいて知ってもらったり、興味をもってもらったり。それは別に観光客のためというより住んでいる人のため。生きていたらつらいことも多いと思うけれど、そこに居場所が見つけられたらいい。それは本当に街にとっては大切なことです。観光のことを考える前に住んでいる人のことを考える。それが結局は観光のためになるという風に考えています。
――観光のためのまちづくりってやり方じゃダメなんですね。
岩本 今金沢にいる人も街との関わりにはグラデーションがありますよね。今たまたま金沢にいる人のため、って思えばいいのではないでしょうか。出張で来た人かもしれないし、転勤して来た人かもしれないし、旅行に来た人かもしれないし、長く住んでいる人も短く住んでいる人もいる。今たまたま金沢にいる人たちにとって居心地のいいまちになればいい。観光のためってしちゃうと、道を見誤ってしまうような気がします。
〈インタビューを終えて〉
岩本さんのご実家、岩本清商店では火鉢をつくって販売しています。いつも笑顔が絶えない岩本さんですが、その内側に炭のように赤く燃えるものを感じる時間でした。曖昧なまま言葉にしないというスタンスが底辺にあるので、言葉を引き出すの苦労しましたが、僕自身の金沢への関わり方を考え直すきっかけになるインタビューになりました。