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新宿でTENGAを配った話
TENGAをご存知だろうか。
ドン・キホーテの18禁コーナーや薬局に置かれている、赤い筒状をした男性用のセルフプレジャーグッズである。
本来はひとつ700円程度で買えるのだが、金は無いが(性)意欲と行動力に溢れた若者たちの中には自作する人もいるらしい。
そんなTENGAを新宿で配った話をしよう。
大学二年生の頃、私は「総合文化研究会」というサークルに所属していた。ふわっとした名前から想像がつくかもしれないが、ほとんど公式の活動は存在せず、部室で麻雀やスマブラをしたり、飲み会をしたり、旅行したりといったゆるいサークルであった。
総合文化研究会では、文化祭の後に在校生とOBが集まって一緒に飲むというOB会が伝統的に行われていた。たまたま同じテーブルで飲んでいた3つ上の先輩から連絡先を聞かれ、後日ふたりで出かけることになった。
『〇〇ちゃんは苦手な食べ物ってある?』
『高い肉以外全部苦手です!』
一緒にご飯を食べる場所を決めている最中、やりとりを見ていた別の先輩に勝手に送信された。強欲な一文に私は慌てたが、先輩はたまたまパチンコで大勝ちしていたらしく、懐に余裕があった先輩に叙々苑に連れて行って貰うことになった。
4限終わりの18時、渋谷ハチ公前で集合した。
「サークルのみんなに買いたいものがあるんだよね。お土産見てってもいい?」
「もちろん!」
なんて優しい先輩なのか。てっきりすぐそこの東急百貨店でお菓子でも買うのかと思ったが、先輩の向かった先はドン・キホーテだった。
渋谷の床面積の狭いドン・キホーテのエレベーターをぐんぐんのぼり、辿り着いたのは18禁コーナーであった。
「これをみんなにあげたかったんだよね」
意気揚々とした顔で先輩が指差したのは、バキュームタイプ、温感タイプ、スパイラルタイプなど3種類のTENGAがセットになったTENGAバラエティパックだった。
私の入っていたサークルは、活動内容からお察しの通り男性比率が非常に高く、大学生特有の悪ノリも横行していた。「パチンコで大勝ちした」という先輩が大袋を手にお会計をする姿を見て、こんなことならイベントサークルや合唱サークルに入っておけばよかったな、と少しの後悔が頭をもたげた。
初めての叙々苑の肉は美味しかった。半個室の薄暗いムーディーな空間で、社会人1年目の先輩の話を色々と聞かせてもらった。
先輩とはなんとなく馬が合い、2時間はあっという間だった。先輩も私を気に行ってくれたのか、「再来週空いてる?横浜のコスモワールドに行こうよ」と誘ってくれた。
会って二回目で遊園地。そのチョイスに少しの不安はあったものの、少し天然で突っ込みどころがあり、ノリも合う先輩とは楽しくデートできそうだなという期待を感じていた。
楽しい時間でお酒も進み、少々酔いすぎていたせいで、普段ならしないミスを犯してしまった。渋谷駅のトイレに、先輩から預かったTENGAを置いてきてしまったのだ。
私は慌てて渋谷駅と、ついでに最寄り駅沿線の交通会社に電話をかけた。
「すみません、駅のトイレに忘れ物をしてしまったんですけど……」
「お忘れ物ですね。品物はなんでしょうか?」
「TENGAです。黄色いドン・キホーテの袋に、TENGAの詰め合わせセットが入ったものを忘れました」
なぜ私は、自分で買ったものでもないアダルトグッズの、しかも詰め合わせパックについて説明しているのだろう。
そんな時間も空しく、TENGAは見つからなかった。未開封のTENGAを、だれかが持ち帰って使ったに違いない。
駅のトイレに忘れてしまったことを伝えて謝ると、先輩は笑って許してくれた。
それから毎日LINEをするようになり、日常の些細なことや好きな漫画について、数時間おきにやりとりが続くようになった。
そんな甘酸っぱい時間は過ぎ、事件が起こる。
先輩と叙々苑に行った一週間後、私に彼氏ができたのである。
彼とは同じサークルの同級生だったので、先輩とも当然面識がある。一応付き合う前に先輩とご飯に行ったことは伝えたが、恋愛を意識するような関係であることは知らないようだった。
他の男と遊園地はまずい。しかし、当時大学2年生の私には告白された訳でもないのに「彼氏ができたから」と予定をキャンセルするなんて自意識過剰だと思われるかもしれない、という不安があった。
ちょうどそのタイミングで箱根へ一泊旅行に行っていたため、これくらいならいいかと「お土産を渡したいです」という名目でご飯に誘うことにした。
仕事終わりの先輩と新宿で待ち合わせをし、改めてTENGAを紛失したことを謝ると、「全然いいよ。また買いに行こうか」という先輩に連れられ、今度は新宿のドン・キホーテの18禁コーナーに向かった。18禁の暖簾に向かって颯爽と歩いていく先輩を私は必死に止めようとしたが、「遠慮しなくていいから」と肩を叩かれ、何も言えなくなってしまった。
何故TENGAを買うことを遠慮しないでと言われるのだろうか。必死の奮闘空しく、先輩は前回と同じTENGAの詰め合わせを購入した。
食事場所のチョイスは新宿思い出横丁だった。正直彼氏がいるのに他の男性と飲みにいくのはどうかと思ったが、付き合って一週間のこのタイミングできちんと関係を切ればノーカンだろうし、お酒が入った方が伝えやすいだろう。
店内は後ろの席の客と背中が触れ合うくらい繁盛していて、コート掛けはひとつしかなく、メニュー表はうっすらべたべたしていた。
酒が進み、徐々に饒舌になってきた先輩と恋愛についての話になった。
「〇〇ちゃんは好きな人いるの?」
今だ!
このタイミングを逃してはいけないと思い、私は口を開いた。
「実は、先週彼氏ができたんです」
先輩は固まった。前後左右で騒いでいる外国人たちの会話まで鮮明に聞こえてくるほど、私たちのテーブルの空気は静まり返った。
「それは……おめでとう。もしかして俺の知ってる人?」
「同じサークルの××くんです。OB会で味楽る!ミミカ ナンバーワンを歌ってた」
先輩はおもむろに煙草を取り出した。震える手で火を点け、深く吸い込みすぎて少しむせていた。
三本目の煙草の火が消えた頃、先輩は口を開いた。
「そっか。××くん……そっか……。おしゃれだったもんね……」
「自意識過剰って思われるかもしれないと思って、LINEでは言えなかったんです。黙っててごめんなさい。今日先輩と会ったこともあんまり知られたくなくて、だからこのTENGAは受け取れません。せっかく買っていただいたのにごめんなさい」
「そんなこと言われたって、俺こんなTENGA持って帰りたくないよ……」
そこで私たちは、新宿の街にTENGAを寄付することにした。まだ使える物を捨てるのは良くないという点で、私と先輩の価値観は一致していた。
思い出横丁を出て、歌舞伎町のガードレール付近で泥酔している大学生らしき集団に声をかける。
「あの、ちょっといいですか?このTENGA使わなくなっちゃったので、よかったら貰ってくれませんか?」
その言葉に、先程まで顔を真っ赤にしてげらげら笑い合っていた大学生たちは「やばい奴に絡まれた」というように顔をしかめ、離れていった。必要のないものを必要そうな人に使ってもらいたいだけなのに、その品物がTENGAというだけでどうしてここまで避けられてしまうのだろうか。
肌寒くなってきた新宿で数十分粘り、ついに三組目の社会人グループがTENGAを受け取ってくれることになった。
知らない人に声をかけてTENGAを配るというイベントを終えた私たちは謎の高揚感に満たされ、私と先輩はハイタッチをして別れた。今後会うこともない、ふたりの最後の共同作業であった。
思い出の残骸とともに受け渡されたTENGAは、だれかの欲望を慰めたのだろうか。
もう当時の先輩ともサークルの人達とも連絡をとっていないが、あの時のTENGAの記憶だけが、ドンキの18禁コーナーや薬局の前を通る度に蘇ってくる。
私の未熟さによりあぶれてしまったTENGAたちが、東京の片隅で、だれかの孤独な夜を支える相棒になってくれていたことを祈るばかりだ。