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素人の考古学―群馬県高崎市古墳(保渡田古墳など)群巡り

●はじめに

群馬県およびその周辺地域は古墳が非常に多く、その数約1万3千を数え、内約2千基の古墳が現存していると言われている。 このことは、嘗てこの地域が大和朝廷と太い絆で結ばれた有力豪族が数多く存在していたことを表している。また古墳遺跡からの出土品に、朝鮮半島由来のものが多く、さらに半島から輸入された馬が渡来人により広く飼育され、朝廷に供されていたことも知られている。このことから、この地域は当時の朝鮮半島及び大陸文明を吸収した、先進且つ大和朝廷にとって戦略的重要地域であったことが窺い知ることができる。さらに考古学的に他にない特徴としてこの地を取り囲む赤城山・榛名山・浅間山の度重なる噴火による火砕流や土石流・火山灰などにより、災害当時のままの人々の生活や田畑の痕跡が一部残されていることで、痛ましくも貴重な資料となっていることである。(日本のポンペイ)2012 年には榛名山の東麓にある金井東浦遺跡で、火砕流に埋まった「鎧を着た古墳人」が見つかり、考古学会に大きなインパクトを与えた。

今回は、斯様な古代史の宝庫である群馬県の考古学遺跡の一端を探るべく、整備が進んでいる高崎市の代表的な古墳群、綿貫古墳群と保渡田古墳群を探訪した。

 ●綿貫古墳群:

古い順に普賢寺裏古墳(五世紀前半)→不動山古墳(五世紀後半)→綿貫観音山古墳(六世紀後半)。中でも白眉は綿貫観音山古墳で、未盗掘の横穴式石室から人骨一体他、銅鏡や水瓶、甲冑、金銅製馬具など多数の副葬品が出土されており、国指定重要文化財となっている。 これら副葬品から、朝鮮半島および大陸との濃い関係及び馬の飼育・繁殖が盛んであったことが判る。

1.   普賢寺裏古墳

 墳丘長77ⅿの前方後円墳。3段築成。内部構造は未調査の為不明。出土した埴輪から5c前半の築造と推定。

普賢寺裏古墳

2.不動山古墳

 墳丘長94ⅿの前方後円墳、5c中頃~後半。くびれ部には造り出しがあ
 る。凝灰岩で造られた舟形石棺が残されている。

(不動山古墳)
(舟形石棺)

3.綿貫観音山古墳

全長97mの前方後円墳。6c後半。群馬県下最大規模の横穴式石室、石室入り口近くに置かれていた埴輪馬と従者の埴輪 馬の轡銅製水瓶 /獣帯鏡は半島もしくは大陸との交流を感じさせる。

(全長97m の端正な観音山古墳)
(群馬県下最大規模の横穴式石室)
(石室入り口近くに置かれていた埴輪)
(馬と従者の埴輪)
(獣帯鏡)
(馬の轡)
(銅製水瓶)

●保渡田古墳群 :この古墳群の築造年代は、5 世紀代の後半も終わりに近い   
 ころから6 世紀前半代にかけて、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の
 順に造営されたと推定されている。 3世代にわたる有力豪族の墓が隣接し 
 て築かれているのは全国的に見て珍しく、国指定史跡となっている。 埋葬
 者の特定も進んでいて、現在発掘調査中の三ツ寺遺跡に在住していた豪族  
 ではないかと推定されている。 形状的には四つの中島を配しているのが特
 徴。

4.二子山古墳

墳丘長108mの前方後円墳、3段築成、周溝は馬蹄形で二重に造られている。内濠部に中島を4基配置。円筒埴輪を巡らし外部側に形象埴輪を配置。

(二子山古墳)

5.八幡塚古墳

墳丘長96mの前方後円墳。三段築成。周溝は馬蹄形で二重に取り巻き、
さらに外側を幅の狭い外周溝が巡る。

墳丘には葺石が敷かれ円筒埴輪が墳丘裾部、中島裾部、中堤縁に見られる。前方部前面の中堤上には形象埴輪列が祭祀の一つの表現様式として再現されている。

(八幡塚古墳)

中島・・中島には円筒埴輪が配置されていた。 円墳部を取り囲む四つの中島 
 の役割はよくわかっておらず、何らかの宗教儀式に関係していたと推定さ
 れている。

堤防上の形象埴輪配列・・堤防上に、人物・動物埴輪が54体の群像として設
 置された部分が有り、現在その一つが再現されている。

(堤防上に人物・動物埴輪の群像)
(舟形石棺)

6.薬師塚古墳

 墳丘長は100ⅿの前方後円墳。二重に周溝を巡らしていたと推定。
 埋葬施設は舟形石室。二子山・八幡塚の両古墳と比べて埴輪類が少ない。

                 以上
                小兵衛


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