小兵衛

横浜市在住 考古学、特に古墳が好きで、関東はじめ全国の古墳巡りを始めています。

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横浜市在住 考古学、特に古墳が好きで、関東はじめ全国の古墳巡りを始めています。

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素人の考古学―北部九州装飾古墳4/8(抽象壁画系1)

1/8~3/8まで、横穴墓線刻画系、横穴墓浮彫系、墳丘墓石棺系、墳丘墓石障系と見てきたが、今回は、墳丘墓抽象壁画系を見ていきます。 (5)-1壁画(抽象画)系(福岡県 王塚古墳)  全長約86mの前方後円墳 6c中頃 前方部径約60m、後円部径56m、2段築成で葺石・埴輪を備える。後円部北西方向に入口を持つ横穴式石室で、未盗掘。前室・後室からなる複式構造。後室は長さ約4.5m、幅約3m、高さ約3.5m。奥壁上段には石棚があり、その下には2体分の石枕を備えた石屋形がある。その

    • 素人の考古学ー北部九州装飾古墳3/8(石棺・石障系)巡り

      (3)-1石棺系(福岡県 石人山古墳)  全長約107mの前方後円墳 5c前半の築前方部幅約63m・高さ約11m 後円部径約53m・高さ12m、後円部3段・前方部2段築成で、葺石・埴輪・周溝を備える。 くびれ部にある小屋には甲冑を身に着けた石人が保存されている。埋葬施設は後円部中央に築かれた横穴式石室で、遺存状態が悪いため石室全体が覆屋で保護されている。玄室長さ約3.9m・幅約2m、内部に収められた凝灰岩製の妻入り横口式家形石棺には縄掛突起のほか重圏文や円文などの装飾が施さ

      • 素人の考古学ー北部九州装飾古墳2/8(横穴墓系)巡り

        (1)-1横穴墓線刻画系(大阪府 高井田横穴墓群)  柏原市の大和川の両岸の丘陵一帯には古墳群や横穴群が密集しており、6c中頃から7c前半にかけて造られた古墳で、1279基の群衆墳を確認している。その中に釘かナイフのようなもので絵を描いた線刻壁画がある。 27基の横穴の壁や天井に線刻壁画が見つかっており人物や船、鳥、木の葉など題材は様々。 第二支群12号横穴の羨道の右側の壁に船の絵がある。舳先と艫がゴンドラのように上にそり上がり、帆柱がある。船尾の方にも人物がいて、斜めに艪

        • 素人の考古学―北部九州装飾古墳1/8(装飾古墳とは)

          1. 装飾古墳とは 全国におよそ660基ありそのうち60%は九州にあり、さらにその30%は熊本県に集中しており、5~6世紀にかけてつくられたと考えられている。 装飾古墳は、主に石室の内壁や天井に描かれた壁画や彫刻などが特徴。これらの装飾は、古墳の主である被葬者の地位や権力、宗教的な信仰を示すために施された。 以下は、装飾古墳に見られる主な装飾の種類である。 1.壁画:装飾古墳の中でも特に有名なのが壁画。壁画には、人物、動物、幾何学模様、宗教的なシンボルなどが描かれてい

        • 素人の考古学―北部九州装飾古墳4/8(抽象壁画系1)

        • 素人の考古学ー北部九州装飾古墳3/8(石棺・石障系)巡り

        • 素人の考古学ー北部九州装飾古墳2/8(横穴墓系)巡り

        • 素人の考古学―北部九州装飾古墳1/8(装飾古墳とは)

          素人の考古学―福岡県糸島市(伊都国の王都)の三雲・井原古墳遺跡巡り

          三雲・井原遺跡は、中国の歴史書「魏志」倭人伝に記された弥生時代の国のひとつ伊都国の王都とされる遺跡である。 東を川原川、西を端梅寺川に挟まれた低位段丘上に位置している。 遺跡としては、弥生時代早期に墓域と居住域が営まれ、中期後葉から後期後葉まで大規模に遺構と遺物が検出され、その後、古墳時代まで集落として存続した。 ●三雲・井原遺跡マップ 弥生時代中期後半から終末期にかけて王墓が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡・平原遺跡である。 糸島地方には、約60基の前方後円墳を

          素人の考古学―福岡県糸島市(伊都国の王都)の三雲・井原古墳遺跡巡り

          素人の考古学―宮崎県(日向国)生目・持田・松本塚古墳群巡り

          ●生目古墳群の特徴(国史跡) 大淀川の右岸の標高25mの丘陵地にありで宮崎平野を一望でき, ①  生目古墳群は50基の古墳で構成されており、前方後円墳8基、円墳25基が      ある。 ➁その中の1号墳、3号墳、22号墳は全長が100mを超える規模を誇り、生目    古墳群は古墳時代前期に於いて、九州最大の古墳群であったといえる。 ➂当時、この時代に前方後円墳が連なるのは、吉備以西では生目古墳群だけ    であり大和王権との密接な関係あったと考えられる。 ➃南九州独特の

          素人の考古学―宮崎県(日向国)生目・持田・松本塚古墳群巡り

          素人の考古学―宮崎県(日向国)西都原古墳群巡り

                 歴史的な背景 日向古墳群は古代の謎を秘め続け、神話と古代世界が交錯する異空間である。その中でも西都原は「日本書紀」で天孫降臨した瓊瓊杵尊の定住地とされ、東征された神武天皇はその子孫とされている。   日向は宮崎県の中央部に位置し小丸川や大淀川、一ツ瀬川など主要な河川により海と通じており、弥生時代、北九州とは交流がなく、独自に朝鮮半島との交流が行われていた。 弥生時代から、古墳時代にかけて極めて在地的な文化が栄えた。 弥生時代末期から古墳時代初期にかけて、日向は畿

          素人の考古学―宮崎県(日向国)西都原古墳群巡り

          素人の考古学―長野県森将軍塚・弘法山古墳と大室山古墳群巡り

           森将軍塚が所在する千曲川右岸には、「将軍塚」と呼ばれる3基の前方後円墳がある。4c前半から5c前半の築造で、これらは当該地における首長系譜を追うことが出来る点で重要である。 1.    森将軍塚古墳(国史跡) 森将軍塚古墳は、千曲川右岸の北アルプスと千曲川を望む有明山(490m)から伸びた狭い尾根の上に築かれており、地形に合わせて「く」の字に曲がっている。 墳長100m、前方部の幅30m、高さ5m、後円部は径50m、高さ10mの前方後円墳。二段築成。4c末の築造。 竪穴

          素人の考古学―長野県森将軍塚・弘法山古墳と大室山古墳群巡り

          素人の考古学―山梨県甲斐(甲斐銚子塚古墳など)古墳群巡り

          笛吹川左岸の曽根丘陵上の東山(標高340m)一帯と、間門川沖積地に接した山際に分布する東山古墳群には16基の古墳が存在し、県内最大の甲斐銚子塚古墳や丸山塚古墳などある。 1.甲斐銚子塚古墳(国史跡) 全墳長169m、前方部幅68m、高さ8.5m、後円部幅92m、高さ15mの前方後円墳で東日本最大級。4c後半築造。 墳丘は後円部三段、前方部二段築成で、埴輪が立てられ、葺石で覆われ周溝を持つ。 竪穴式石室は後円部の中央西より南北に向き、割石材で持ち寄りに造られている。 出土品

          素人の考古学―山梨県甲斐(甲斐銚子塚古墳など)古墳群巡り

          素人の考古学―群馬県前橋市の総社古墳群巡り

           総社古墳群は前橋市内にあり、東南方向に広がる榛名山の裾野の末端、現利根川の西岸に南北約4kmに分布する古墳群。各古墳は、その規模や卓越した築造技術、優美な出土品から、古くから注目されており、東国を代表する古墳群の一つである。現在、前方後円墳3基、方墳3基が残されている。 まず5c後半に遠見山古墳が築かれ、総社二子山古墳、愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳へと移り変わっていった。 1.    遠見山古墳(市史跡)  墳丘長87.5mの前方後円墳、後円部径52.5m 前方

          素人の考古学―群馬県前橋市の総社古墳群巡り

          素人の考古学―群馬県の八角形墳巡り

           群馬県北群馬郡吉岡町に全国でも極めて珍しい正八角形墳がある。 榛名山東麓において、利根川に注ぐ午王頭川の左岸に築造。 八角形墳は7c中頃から8cにかけての畿内地方の天皇陵などに代表され、地方には東京多摩市の稲荷塚古墳ほか数基あるのみである。 1.三津屋古墳 7c後半に築かれた一辺9mの八角形墳。墳丘は2段で葺石・周溝を持ち、南側に入口を持つ横穴式石室。 墳丘の対角間は約23.8m、残存高約4.5mで、八角の一辺の大きさは下段で約9m、上段で約6m。墳丘の設計には唐尺が使

          素人の考古学―群馬県の八角形墳巡り

          素人の考古学―群馬県高崎市古墳(保渡田古墳など)群巡り

          ●はじめに 群馬県およびその周辺地域は古墳が非常に多く、その数約1万3千を数え、内約2千基の古墳が現存していると言われている。 このことは、嘗てこの地域が大和朝廷と太い絆で結ばれた有力豪族が数多く存在していたことを表している。また古墳遺跡からの出土品に、朝鮮半島由来のものが多く、さらに半島から輸入された馬が渡来人により広く飼育され、朝廷に供されていたことも知られている。このことから、この地域は当時の朝鮮半島及び大陸文明を吸収した、先進且つ大和朝廷にとって戦略的重要地域であっ

          素人の考古学―群馬県高崎市古墳(保渡田古墳など)群巡り

          素人の考古学―東京の低地(葛飾区・足立区・台東区)の古墳巡り

          1.    葛飾区柴又八幡神社古墳 直径20~30mの円墳。6c後半 葛飾区八幡神社の裏手の石垣は石棺であることが判明。周溝の周りには溝が掘られ、円筒埴輪や人物や馬など形象埴輪が出土した。直刀、馬具、鉄鏃、須恵器なども出土した。 東京低地では石室を伴う古墳は本例のみ。 2.    足立区白旗塚古墳 この付近の利根川水系綾瀬川支流の毛長川南岸の自然堤防上には、擂鉢塚古墳、甲塚古墳、白旗塚古墳など7基からなる白旗塚古墳群が形成されていたとされる。 直径12m、高さ2.5m

          素人の考古学―東京の低地(葛飾区・足立区・台東区)の古墳巡り

          素人の考古学―東京都心の古墳群巡り

           古墳時代はまだ海進により東京の深くまで海がいり込んでいて、都内も低地は海の中で住居や古墳は多摩丘陵部先端部のような高台に作られていた。 その古墳も都市開発によりほとんど消滅してしまい、現存するものはわずかである。 中でも港区芝公園内にある芝丸山古墳は4cの大和王権との関係が伺われる大型前方後円墳である。その他の古墳は古墳後期の円墳が多い。 保存状態は非常に悪く、残っている遺跡もいずれ消滅してしまうので今のうちに確認しておきたい。   1.芝丸山古墳 (都指定史跡) 港区芝公

          素人の考古学―東京都心の古墳群巡り

          素人の考古学―東京都多摩川上流その2(多摩市・八王子)の古墳巡り

          ●多摩市周辺の古墳群  多摩市の古墳時代集落は多摩川支流の大栗川流域に限られており、乞田川流域に開発の手が加わるのは奈良時代に入ってからである。 1.   塚原古墳群跡 大栗川流域には、江戸時代には古墳が40基以上あったようであるが、宅地化によりほとんどが削平されていた。 現在10基確認されており、今後も増える可能性がある。 民家の庭先に残る1号墳。直径9m、高さ2ⅿの円墳。未調査だが、羨道の門柱石と思われる石材が露出している。 2.   稲荷塚古墳 大栗川流域

          素人の考古学―東京都多摩川上流その2(多摩市・八王子)の古墳巡り

          素人の考古学―東京都多摩川上流その1(府中・国立市)の古墳巡り

          ●府中市周辺の古墳群 府中市周辺は、武蔵野の天平の史跡のまち、7世紀頃にこの地方の有力者の古墳が築造され、すぐその後に東山道が通り、次に武蔵国の国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が造られ、武蔵国の中心地となった。 今回はこの史跡をたどりながら当時に思いをはせる旅であった。 各遺跡には付属の資料館があり、詳しい説明と、出土遺物を見ることが出来た。 以下国府が置かれる直前の主な古墳である。   1.   武蔵府中熊野神社古墳(国史跡) 上円下方墳、7世紀中、同型は全国に5

          素人の考古学―東京都多摩川上流その1(府中・国立市)の古墳巡り