英語ができる、ってどういうことなんですかね。 ・英語の記事が読めること?(大体のものは英語で読む必要がなかったりする)。 ・コミュニケーションの幅が広がること?(だから英語やろうぜ!とはならない)。 妥協案で英語が求められる場で、コミュニケーションを図れるように、かなー。
テーマとして、 「『言語文化観のゆさぶり』が学習者の人間的な成長(=人格の完成)にどう寄与するのか」を探求するのも面白いのかもしれない。 【疑問】 ・「言語文化観のゆさぶり」では、何をどこまで扱うのか。 ・人間的な成長(=人格の完成)をどう定義するか。
小中高大と単に「英語ができたから」というだけで学校教育で英語を教えるのは実は、ちょっと危険なのでは。というのも、教育観が学習者に「英語をできるようにすること」に偏ってしまうんじゃないかと。だから英語や日本語を含めて、「ことばとは何か」を特に英語教師のボクは考える必要があると思う。
なんか良い気がする、の「なんか」ってどう定義するんだろうか(日本語でも、英語でも)。そんなことを”stuff”(=特定の物や事柄、あるいは仕事などを指すあいまいな言葉、chatGPTより)という単語を調べていて思った。
中学校英語科教育では、「日常的な話題(夏休みの過ごし方、趣味など)」と「社会的な話題(環境問題、人権問題など)」を扱うことになっている。 ついでに「社会的な話題」に関しては、「自分の意見を英語で伝え合う」ことも求められている。それって「英語で」できるようにならないかんのか?