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後悔しない写真術

盆や正月に帰省する時は地元の風景や愛犬、家族を取るために必ずカメラを持って帰る。真っ向からカメラを向けて拒否されたり、不自然にキメられるのが嫌だから横や後ろからひっそりとシャッターを切る。いいな、かけがえないなと思ったら何か別のことをしていても残すべきだ。

3年前に祖父母の家に行った時、不意にそんな場面が訪れて撮った。光の差し込み方や、やり取りが撮るべきだとそう感じさせた。この数か月後にばあちゃんが旅立った。休みをもらい帰省し葬式に出て帰る前にこの写真をセブンでプリントし、母にじいちゃんに渡しておくように伝えた。それからすぐに盆が来て祖父母の家に参りに行き、この写真を撮った場所と同じ、テレビの前で甲子園でも見ていた時だっただろうか。じいちゃんがこの写真を持ってきて、「よく考えたらこれが二人で写っていた最後の写真だったよ」と言った。涙を浮かべながらでもなくスッと出てきた言葉のように感じたが、私にとってはずっと今まで心に残っている言葉でこの先も長く長く記憶に残っていくと思う。

なんでこんなことを書こうかと思ったのかというと、昼間に銀座蔦屋書店で購入した写真集がきっかけとなった。


小浪次郎 黄色い太陽

元々好きな音楽家のアーティスト写真がきっかけで知った写真家だった。光の切り取り方や鮮やかな色彩なのに何処か儚さを感じて見ているうちに呼吸をすることを忘れるような素敵というのもおこがましいくらい綺麗な切り取り方をする写真家だと思う。実は今日は最初、別の写真集を目的に銀座に向かったのだが、この写真集を不意に手に取ってめくり途中に呼吸困難になりかけてこれは家で見るものだと思いレジに向かった。この写真集は恐らくのところ時系列で小浪次郎先生(敬称はこれでいいのやら)が父の姿を写真に収めていて、その時の心象風景のような儚い写真と一緒に所載されている。途中で亡くなられたとみられるのだが、その時が訪れるまでの様子が刻々と迫る様がまさに自分事のように感じられ、あの時の祖父の言葉を思い出した。

いつが最後になるかなんて誰にも分からない。今はみんなスマホを持っていて、美しい場所や美味しいご飯、友達と並んで正面からレンズと見つめ合った時にはシャッターを切るかもしれない。ふざけ合って録画されていることを意識した音色で歌を歌い、ふざけ合う。考えたらあの時が最後だった、もう二度と会えないという体験は思ったよりも身近にあるものだと思う。何も対象となる相手の死以外にも、別れというのはどこにでも身近に身を潜めている。それが訪れた時に恋しくなるのは、意外にも横や後ろから切り取った何気ない情景だったり、スマホなんかを意識していない普段交し合っていた声色だと思ったことが何度もある。特に声はどんなに特徴的だったとしても私の場合は覚えていられない。これからも残しておきたいと思った自分の感情を無下にせずにスマホでもカメラでもシャッターボタンを押そうと思う。そうすることが未来の自分を救うことになるし、誰かを幸せな気持ちにできることを痛いほど知っている。

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