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暑中お見舞い申し上げます

 毎年この時分になると、買い溜めてある夏の葉書ストックを引っ張り出す。心惹かれて選んだそれ等は、どれも綺麗で爽やかな色をしている。
 僕の父は何かと気持ちを文字にする人で、誕生日やイベントなんかの度にカードや葉書をくれる。僕が大きな手術をすることになった時などは、便箋何枚分だったか、分厚くなった封筒を渡されて笑ってしまった。
 どうやらその血をしっかり継いでいるらしく、僕も小学生の頃からほぼ毎年誰かしらに暑中見舞いやら年賀状やらを出している。
 それは三十代半ばに近くなった今も続いており、良さそうな葉書を見るとついつい買ってしまう。更には郵便局で切手を買うのも楽しみになっている。
 しかしそうしていると、出す人間の数以上に枚数を持つことになる。誰にどの絵柄を送ったという写真を撮っておかないと、昨年と同じ葉書を使ってしまうという、何とも申し訳無いことが起こると思う(なお、これは僕の考えなのでそこは勿論人それぞれで良い)。

 僕が季節の挨拶をするのは、先生と名のつく人がほとんどだ。これは単純に、手軽な連絡の手段を共有していないからである。
 友人のように近くはないけれど、年に数回必ず近付く距離。それが嬉しい。
 今どうしているだろうか、どこの学校で教鞭を執っているのだろう。もう先生という職を離れた方もいる。皆、元気でいてくれればそれで良い。
 狭いスペースに文字を配置する計算をして、伝えたいことや話したいことをしたためる。あの日の学生の気持ちのままで「先生、先生、聞いてよ」と廊下の向こうへ手を振る。
 僕は新設校の一期生だった。だから記憶の中の校舎はいつも人が少なくて、声がよく通った。あの空気が好きだった。
 あの夏も僕は、暑中見舞いを書いていた。
 
 例年より数が一枚減った葉書の束を、なるべく優しく赤いポストへ投函する。神仏ではないけれど、返事が来ますようにと手を合わせる。
 一足先に旅立ってしまった人への葉書は、燃やしてみる。なんとなく、煙にのって届けばいいと思うから。
 まぁしかし読みにくいことこの上なさそうだ、とも思う。文字がバラバラになって届いたらどうしよう。まぁいいか。きっと笑ってくれるだろう。

 暑中お見舞い申し上げます。

 お久し振りです。高校に入ったばかりの頃制服を見せに行って、それきりですね。
 まだあの青汁を作って飲んでいますか? 一度もらったら酷い味でしたね。

 ねぇ先生。あなたにもう一度会って、今度は変な仕事に就いた自慢話をしたいと思っていたのに。
 あんなに健康に気を遣っていたあなただったのに、どうして。
 生きるのってうまくいきませんね、先生。
 小説は結びたいところで結べないし。

 それではさようなら、またいつか。

 さようなら。


240712.
覚川 秀

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