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遠回りする時間
朝6時、スマホのアラームで目が覚める。今日は少し体がだるい。のども痛いし、寒気もする。風邪をひいたかなぁと思いながら、引き出しから体温計を取り出して熱を測る。ぴぴぴっ、38℃。完全に風邪だ。昨日の夜から熱っぽかったけれど、やっぱり体温が上がっている。仕事は……流石にムリか、生徒に風邪をうつすわけにもいかないし。とにかく職場に連絡しないと。でもまだ学校の電話がつながる時間じゃない。ひとまず、学年主任の先生にメッセージを送っておこう。
『おはようございます。朝早くにすみません。風邪をひいてしまいました。今日はお休みをいただけたらと思います』
と、これでよし。しっかりと水分を取ってから、もう一度寝る。少しでも良くなりますように。
朝8時、本日2回目のアラーム。大きな音が風邪の頭によく響いた、ぐへぇ。体温計を脇に挟む、ぴぴぴっ、38℃、お変わりないご様子で。スマホを見ると、学年主任の先生から
『仕事のことは気にせずゆっくり休んでね』
と、メッセージが来ていた。優しい言葉でほっとする。前の学校では「這ってでも来い!」と他の先生が言われているのを見たことがある。99%冗談だと思うけれど、ちょっとトラウマ。
スマホを持つ手が震えている。うーん、それじゃあ学校に電話しますか。気合いを入れてボタンを押す。すぐに教頭先生が電話に出た。
「お、おはようございます、○○です……あっ、○○です。はい。えっとすみません、風邪をひいてしまいました。あの、それで今日、お休みをいただけたらと思いまして」
のどが痛くて話しづらいとか、体調不良の演技をしているとかではなく、ただただ緊張して上手く話せなかった。声が小さいせいで名前は聞き直された。
「そっかそっか、分かった。ゆっくり休んでね。お大事に」
「ありがとうございます。失礼します」
むすぅ、風船がしぼむように体から空気が抜ける。緊張がとけると、やはり自分は風邪をひいているのだと実感する。関節は痛いし、頭はぼ ーっとする。この感じ久しぶりだ。
今年で教員3年目。今まで風邪をひいて仕事を休んだことはなかった。でも、毎日仕事を休みたいと思っているのが正直なところ。もちろん、やりがいを感じながら働いているけれど、基本的には休みたい。だってしんどいもん。
ただこんな私でも、いざ風邪で休むとなると罪悪感が生まれる。「気にせずゆっくり休んでね」と言ってもらえたが、やっぱり迷惑をかけたなぁと思う。あの仕事もこの仕事も、今日は他の先生に任せることになる。明日職場に行ったら、「昨日は大変だったよー」と小言を言われてしまうのかな。風邪のつらさと欠勤の後ろめたさが、自分の内側でぐるぐるする。それでも、今の自分にできるのは安静にすることだけ。今日は風邪を治すことに専念しよう。
次の日。朝6時、スマホのアラームで目が覚める。頭やのどの痛みを確認する。うん、問題ない。枕元に置いていた体温計で熱を測る。ぴぴぴっ、36.7℃。今日は仕事に行けそうだ。準備をしていると、「今日も休んだら?」と母から悪魔の囁きが聞こえてきた。「それもありだぜ!」と心の中の悪魔が加勢する。でも、2日連続で仕事を任せてしまうのも申し訳ない。少し悩んだけれど、「もう元気になったし、今日は行ってくる」と言って家を出た。今回は天使の勝利。
家から職場までは電車で約1時間。途中、電車の乗り換えをする。A駅で降りてB駅まで500m歩く。こうやって書くと数学の問題みたい。通勤の道のりを説明するとき、「乗り換えで歩かないといけないの? めっちゃ大変だね」と心配されるのが数学とは違うところ。問題文では人を歩かせている先生も、実際に歩くのは耐えられないらしい。他の人から見るとマイナスでしかない500mを、私は毎日歩いて職場へ向かう。
今日もA駅の改札を抜け、いつものように歩き始めた。昔はもっと活気があったんだろうなぁという商店街を抜ける道。でも、50mほど歩いて最初の信号を渡ろうとした時、ふと違和感に気づいた。今日はいつもより歩くのが速い。道路に沿って並んでいる電柱や建物が、次々と自分の後ろに流れていく。もしかして脚が長くなって、歩幅が広がったのかもと一瞬期待したが、この歳になって急に身長が伸びることはないだろう。
普段はのろのろ歩いているのに、不思議とずんずん進める。何だか空気が軽い。私が歩くのに合わせて素直に道を譲ってくれる。一昨日まではもっとモヤモヤした空気が体に纏わり付いて来たのに、あいつらはどこかに行ってしまったらしい。いつもと同じ場所なのに、こんなにも空気が違うのはなぜだろう? 休んでいる間に世界が入れ替わったかな。まるでパラレルワールドに来たみたいだ。いや、あまりにファンタジーすぎるか。
おかしな感覚に戸惑っている間に500mを歩き切り、B駅に着いた。ここからまた電車に乗り、職場の最寄り駅を目指す。あの感覚は何だったのか。
職場に着くと、空気を多めに吸い込んで大きな声で挨拶をした。
「おはようございます!」
職場ではテンションは低い方で、決して明るく元気というわけではない。普段なら朝の挨拶も声が小さく、2m先の人に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で済ます。
けれど、風邪で休んだ次の日に小さな声で挨拶をすると、まだ体調が悪いのでは? とあらぬ疑いをかけられてしまうから、今日は大きな声で挨拶をした。
「おはようございます。体調は大丈夫ですか?」
自分の席に着くと、隣の先生から声をかけられた。
「はい、熱も下がって良くなりました。昨日はご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、大丈夫そうでよかったです」
「ありがとうございます」
あれ? 思っていたのと違う。まあでも、こういうこともあるよね。よし、主任にも挨拶しておこう。
「おはようございます。昨日は突然休んですみませんでした」
「おはよう。全然大丈夫だよ。もう体調はいいの?」
「はい、熱も下がりましたし、ゆっくり休めたので」
「そっか。無理しないようにね」
「ありがとうございます」
あれれ? やっぱり思っていたのと違う。あっさりしすぎている。
その後、普段通りに仕事が始まった。昨日の熱のせいで体力が削られている気がしたが、体力がないのはいつものことなので問題なかった。あれこれ仕事をしているうちに時間が過ぎて、気づけば定時。
それにしても、誰からも「昨日は先生がいなくて大変だったよ」とか言われなかったな。誰も言ってくれなかったな。ていうか、言ってほしかったんだっけ?
病み上がりの一日が無事に終わり、家路につく。朝は不思議な感覚だった道、帰りはいつも通りだ。ふうっと力が抜ける。気が緩み、全身が疲れを認識する。家からも職場からも離れたこの場所は、いつしかオンとオフを切り替える場所になっている。
ずいぶん前からもっと近道があることは知っていた。そこを通ればA駅からB駅まで300mで済む。そのため、学生やサラリーマンなど急いでいる人たちは近道を使う。私もその近道を使えば電車の乗り換えが上手くいくので、もう少し家を出るのが遅くてもよくなる。
それなのに、毎日行きも帰りも500m歩いている。決して時間が有り余っているわけでも、この道から見える景色が好きというわけでもない。単純に、この500mが私に必要だと感じている。行きは「今日も頑張るぞ」と自分を鼓舞して、気持ちを引き締める。帰りは「よく頑張ったな」と自分を褒めて、気持ちを緩める。そんな時間が私には必要で、そんな時間を作ってくれるのがこの場所だ。何度か近道を通ったこともあるが、やっぱり300mでは足りず、500 m必要だと思う。
そうか、今日の朝はいつもの自分と違ったんだ。昨日休んだ分、今日は頼ってもらえる気がしていた。なんだかんだ言っても社会人3年目。職場に大きな貢献はできていなくても、多少の戦力にはなっていると思っていた。だから、今日は朝からやる気でいっぱいだった。気を引き締めることを忘れるくらいに。毎朝、暗い気持ちで通るこの道を、わくわくしながら歩いていた。この道の空気が違って思えたのは多分そのせいだ。恋人ができたり、福引きが当たったり、気持ちが高まっているときは慣れた場所もまた違って感じる。
なるほど、つまりは調子に乗っていたのね。あぶねぇ、何もトラブルを起こさなくてよかったぁ。私を通常運転に戻してくれた先生方に感謝しつつ、明日からは気をつけようと心に決めた。もちろん、先生たちにそのような意図があったのかは分からないけれど。
また次の日。朝6時、スマホのアラームで目が覚める。もうすっかり体力が回復した。頭ものども痛くないし、完全復活だ。
ふぅ……。仕事行きたくねー! やばいどうしよう、圧倒的に行きたくない。そもそも何で働かないといけないんだよ!
頭の中で愚痴が溢れてくる。もうミスチルくらいとどまる事を知らない。しかし、そんなことを思っていても、仕事には行かなければならないのが社会人。準備中の悪魔の囁きを期待したが、流石に今日はなかった。
家を出て電車に乗り、いつもの道を歩く。案の定、モヤモヤの空気が待ち構えていた。でも大丈夫、遠回りだから立ち向かう時間はちゃんとある。
今日だって、仕事で失敗するかもしれない。ミスをして怒られるかもしれない。今はまだ、それらが堪らなく怖い。任された仕事も、いただいた指摘も、その全てをありがたいと思うことなんてできない。それでも、丁寧に目の前の1つ1つに取り組もうと思う。それが今の自分にできる最大限のことだから。
さあ、今日も一日頑張りますか。
そんなことを考えながら、私は今日もこの道を歩いていく。