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プレテスト「世界史B」 全問解説③第3問ー井出進学塾のマンツーマン授業の実況中継(大学入学共通テスト「世界史」対策)

こんにちは、井出進学塾です。
共通テスト世界史対策として、今回は「プレテスト世界史」第3問をみていきます。

その他の問題の解説は、こちらからどうぞ。

共通テスト世界史対策「プレテスト世界史」くわしい分析と解説 まとめ

問題および解答は、大学入試センターの方で公開していますので、そちらを利用ください。

「大学入試センター 平成30年度試行調査 問題、正解等」は こちらをクリック

それでは、はじめましょう。

第3問A 問1

簡単な白地図

上記のようなすごく簡略化されたものでいいので、地図を入れてくれていたら、この問題は、もっとよかったと思います。
頭の中だけで地形的(地図的)なことを考えるのは、たいへんですからね。

まず、図として中国製磁器の写真が、与えられています。

もちろん、この写真をみて、
「あぁ、この時期は○○の時代に○○でつくられたものだな。」
・・・なんて、わからなくてもだいじょうぶですからね。

そこまでいくと、「世界史」ではなく、別の能力が求められるようなものです。(もっとも、景徳鎮(けいとくちん)のものだろうとは、予想できますが、それはおいおい考えてみましょう。)

問題文に出てくる順に、みていきましょう。

まず、この中国製磁器は、イスタンブルのトプカプ宮殿に収蔵されているものだそうです。

リード文からすると、このトプカプ宮殿というのは、博物館(美術館)の役割を持った施設ということでしょう。

トプカプ宮殿の方は気にしなくてもよく、ここで確認しておくのは、この中国製磁器が、「イスタンブル」の博物館にあるということです。

イスタンブルの位置から、確認しておきましょう。
イスタンブルは、現在のトルコの大都市です。(注:トルコ第一の都市ですが首都ではありません。首都はアンカラです。)

イスタンブル

黒海からエーゲ海にぬけるせばまったところを、ボスポラス海峡といいます。イスタンブルはこのボスポラス海峡をはさみ、ヨーロッパとアジアにまたがる場所にある大都市です。

イスタンブルは、「世界史上」の重要都市です。
その歴史も、確認しておく必要があります。

ギリシア人によって建設された「ビザンティオン」が、そのルーツです。
(ビザンティオンはローマ領になってからビザンティウムと表記されます。これはギリシア語読みかラテン語読みのちがいなので、同じものと考えていいです。)

その後、ローマ帝国時代、帝国の立て直しを図るコンスタンティヌス帝(位306~337)が、330年、ビザンティウムをコンスタンティノープルと改称し、ここを首都とします。

テオドシウス帝(位379~395)の死後(395年)、ローマは東西に分割されます。そのうち、東ローマ帝国(395~1453)は、首都をコンスタンティノープルとしたので、コンスタンティノープルの旧名から、ビザンツ帝国とも呼ばれました。

ビザンツ帝国は、一時は地中海のほぼ全域をその支配下におさめるほどの国力を誇りました。

かなり長く続きましたが、1453年オスマン帝国(1300頃~1922)により、滅ぼされます。この「1453年」という年号は、覚えておいたほうがよいでしょう。

ビザンツ帝国を滅ぼした際、オスマン帝国はコンスタンティノープルを首都と定め、それ以降この地は、イスタンブルと呼ばれるようになりました。

このように、この都市は「ビザンティウム→コンスタンティノープル→イスタンブル」と、その呼称を変えてきました。

問1の文に入ります。図1の椀(わん)についての問題です。

マラッカ(ムラカ)の総督であった人物が、つくらせた椀であるそうです。
マラッカの位置を確認しておきましょう。

マラッカ

マレー半島とスマトラ島の間のせばまった海域のことを、マラッカ海峡といいます。このことも覚えておきましょう。

また、1541年というと、中国は(1368~1644)の時代です。

明の時代くらいから、景徳鎮(景徳鎮)に代表される陶磁器の生産が伸びました。(やはり、景徳鎮でしたね。)

陶磁器は日本やヨーロッパだけでなく、後にはアメリカ大陸に向けてもの主要貿易品になっていきました。

では、問題の方をみていきましょう。

問われているのは、この「椀」が、どのように
「中国から、遠く離れたイスタンブルまで運ばれたか?」
・・・推測せよ、という問題です。

「推測」なので、正解の選択肢も教科書にのっているような内容ではないでしょうね。

どちらかというと、まちがっている選択肢に、「明らかにあり得ない」内容が含まれていて、それを判断する問題です。

ということで、1つずつ選択肢をみていきましょう。

なお、すべての選択肢が「陸上ルート」ではなく「海上ルート」を想定しているので考えやすいです。(もちろん、陸路を中国からトルコまで、ということも考えられないこともないです。でも、でこぼこした陸路を長距離運ぶと陶磁器は割れてしまいそうで、現実的ではないですね。そこらへんは、考えなくてもよいということです。)

各選択肢の検討に入る前に、もう1つだけ・・・

この設問の、隠れテーマを紹介しておきます。
次の大航海時代についてのIOPです。

大航海時代

実はこれは、高校受験対策向け教材のIOPなのですが、中学の時大切だったことは、高校ではもっと大切、ということです。

これに加え、ヴァスコ=ダ=ガマはポルトガルの、コロンブスはスペインの、援助をそれぞれ受けていたということをおさえておきましょう。

今回は特に、「インド航路の開拓」=「ポルトガル」・・・が、ポイントになります。

①:そうなのです。

問題文では「マラッカ(ムラカ)の総督」とあるだけで、どこの国の人か(どこの国がマラッカを支配していたのか)書かれていません。

でも、これは自分で判断できなければいけません。

この時期、マラッカを支配していたのは、ポルトガルです。

ポルトガルがインド航路の開拓にイニシアティブをとっていたこと、1498年にインド航路が開拓されたこと・・・などとも、つながります。

1498年は、覚えておくべき年号です。(大航海時代の年代のおさえ方は、このシリーズの 第1回 第1問B 問5 を参照

「1498年、インド航路の開拓」がわかっていれば、この設問内に出てくる年号、1541年頃には、ポルトガルの支配はすでに東南アジアにまで及び、マラッカを支配していただろうことは、自然とわかります。

ということで、この Pero de Faria という人物は、ポルトガル人です。
オスマン帝国(トルコ人)の総督では、ありません。

オスマン帝国は、確かに大帝国をつくり、この時代には隆盛を誇っていました。

しかし、この時代に優れた航海技術を持ち、海をわたって勢力を伸ばしていた国は、ヨーロッパのスペイン、ポルトガルの2国だけです。

オスマン帝国の支配が、東南アジアまで及んでいた、というのは、あり得ない話なので、この選択肢は✖です。

②:スエズ運河は、紅海(こうかい)と地中海を結ぶ運河です。

スエズ運河

そんなこと、わかってるよ・・・という人も多いかもしれませんが、スエズ運河って、・・・けっこうすごいんですよ。

たとえば、マラッカからイスタンブルまで船で行く場合を考えてみましょう。

スエズ運河がなければ、アフリカ大陸をぐるっと回って、地中海に入らないといけません。

マラッカからイスタンブル

(注:決して正確な航路ではありません。海上にも、陸との位置関係や潮の流れをふまえた「道」があります。残念ながら富士宮教材開発の経済力では、そこまで正確に再現できません。参考程度のものと、ご了承ください。)

スエズ運河があると、この航路はグッと短くなります。

マラッカからイスタンブル2

ですので、この時代にスエズ運河ができていれば、ここを経由していただろう、ということは推測できます。

(確認しておきますと、「人工的につくった水路」が「運河」です。自然に最初からあるものでは、ありません。)

スエズ運河が、いつ頃つくられたか?・・・ということになりますね。

でもこれは、なんとなくでも、第一次世界大戦(1914~18)前の帝国主義の時代だろうとは、わかりますよね。それでこの選択肢は、消せます。
スエズ運河は、フランス人のレセップスにより、1869年に開通、その後、1875年、イギリスがディズレーリ首相(任1868、74~80)のとき、スエズ運河会社の株式を買収し、スエズ運河はイギリスのものになります。)

なお、スエズ運河ができる前も、以前には・・・

紅海から地中海

紅海から入って、内陸のエジプトやシリアを一部陸送し、地中海で別の船に渡す、というようなルートもあったそうです。(エジプト側に入って、ナイル川を下って地中海に出るようなルートもあったようです。おもしろいですね。)

ところが、この時期、地中海の沿岸のエジプトやシリアといた地域は、そのほとんどがイスラム勢力であるオスマン帝国(1300頃~1922)におさえられていました。

ヨーロッパからアジアまで、陸路はイスラム勢力におさえられて使えない、というのが、もともと大航海時代の背景となる大きな原動力のうちの1つでした。

③:まず、「カントン」は「広東」でしょうから、『カントン(広州)貿易』という書き方に、違和感を持たれた人も多いかもしれません。

でも、広州〔市〕は広東〔省〕(「省」は、日本の行政単位でいうと「県」のようなものです)の主要都市であるので、この書き方でもまちがいとはいえず、ここではまだ、この選択肢は消せません。

注目するのは「イギリスが支配していた」の部分です。

イギリスは世界史上、長い期間隆盛を誇っていたので、違和感を持ちにくいところですが、こういう部分で時代感覚を養いましょう。

まず、ヨーロッパの国々の中で、最初からイギリスが最も栄えていたわけではありません。

もっとも有力になった国の順番としては・・・

『スペイン、ポルトガル』→『オランダ』→『イギリス』の順です。

そして、この順番は、日本の歴史の中にはっきり表れています。

16世紀(1500年代)、日本は戦国時代でした。

この時代に、日本に鉄砲キリスト教を持ち込んだのは、スペイン、ポルトガルです。

鉄砲はポルトガルから、キリスト教はスペイン人宣教師であるフランシスコ=ザビエルから、伝えられました。

あの時代に、ヨーロッパから遠く離れた日本までやってくるという、その事実こそ、国力の充実を物語っています。

その後、江戸幕府が成立し、最終的に貿易を独占することになったヨーロッパの国がオランダです。ちょうど、オランダの最盛期と一致します。

(ここらへんの主要な日本史の流れは、「井出進学塾の歴史教室 第1回」で確認しておきましょう。)

イギリスは、オランダと同じころ日本にやってきましたが、オランダに追い返されてしまいました。

象徴的なのは1623年のアンボイナ事件です。この事件をきっかけに、イギリスは東南アジアから東への進出を断念し、インド経営に専念することになります。

アンボイナ事件は年号とともにおさえておきたい事柄なので、この選択肢は「アンボイナ事件」をキーワードに消す選択肢といえるでしょう。

1623年の段階で東南アジアから西に追い返されているのに、その前の世紀の1541年ごろに、中国の貿易を支配できているはずがないですね。

なお、東インド会社を設立したのは、イギリスは1600年、オランダは1602年なので、同時期です。

最初のイギリスとオランダの覇権争いは、オランダが勝利した、ということです。

その後は、イギリスが優勢になります。マラッカの支配権も、「ポルトガル→オランダ→イギリス」と、移っていきます。

④:主として海上輸送で送られたことを考えると、位置的にも「それは、そうだろ」という話ですね。

「東洋貿易の拠点」という記述も、立地的に疑いようもないでしょう。

簡単な白地図

最初から、この選択肢をみて、否定のしようがない・・・と判断して解答してもよいですが、なかなかそうもいきませんからね。

ここまでみてきたように、まちがいの選択肢を、明らかにまちがい、と判断できるようになっておきましょう。

正解:④

第3問A 問2

(1368~1644)の時代です。

ア・イと、a~dの正しい組み合わせを、選べという問題です。
アの記述があいまいでよくないのでは、という意見が多かったようですが、私としては、組み合わせの選択肢から選ぶ問題なので、別に悪くなく、この問題もよい問題だと思います。

まず〔中国で起こった変化〕のほうから、みていきましょう。

海禁政策というのは、民間が海を利用することを禁止し、貿易をすべて政府が管理するという政策のことです。

16世紀(1500年代)に入ると、アにあるように、海上貿易が活発化し、一部、海禁を許すなど海禁貿易がゆらぎはじめました。

(これを「崩れた」と表現していいのか?・・・というところに批判がありました。でも実はそこは、大した問題ではありません。)

あと、この問題で1つ重要なのが、日本の「銀」生産が世界有数だということです。

特に戦国時代の1500年代、その生産量は急激に伸びました。ポルトガル、スペインなどが、その時期、積極的に日本に近づいたのも、日本銀がねらいだった、という話もあります。

明が解禁をゆるめたことで、日本の、ついでアメリカ大陸のスペイン領地で採掘された、銀が大量に中国に流入しました。

この時代中国で、税の納入を銀に一本化するという一条鞭法(いちじょうべんほう)が、とりいれられたのも、その表れです。

ア、イとも、内容にまちがいはないとしていいでしょう。

次に、〔その変化についての説明〕について、みていきましょう。

これに関しては、イ-b の組み合わせがすぐにみえますよね。選択肢⑤にその組み合わせがありますし、それが正解ということでいいでしょう。

大航海時代、最初に力を持ったのは、スペイン、ポルトガルであることは確認しました。

ヨーロッパからみて、東は極東アジアの日本にまでやってきたことと、西はアメリカ大陸の支配が進んだこと、その同時性も確認しておきましょう。

また、一応、教科書的な順番でいうと・・・

ア「海上貿易が活発化」→b「日本やアメリカ大陸から銀が流入」→イ「(中国国内で)銀の流通が拡大」

・・・ですが、・・・

こういうのは、どっちが原因でどっちが結果、だとは言い切れないものがあります。

ですので、ア-b の組み合わせも、まちがいとはいえません。

ですが、この組み合わせは選択肢にはないので、何の問題もありません。

他の記述も、一応みておきましょう。

a:「新法」とは、新しい法の総称なのかもしれない・・・まで、考える人がいるかもしれませんが、そこまで考える必要はありません。

新法とは、北宋(960~1127)〕時代に、宰相(さいしょう)となった王安石(おうあんせき:1021~86)が断行した諸政策(改革)のことで、これ自体で1つの歴史用語です。

第2問B 問4でも、「変法」=「改革運動」のことでした。日本語と中国語では、同じ漢字でもニュアンスのちがうものが、多々あるということです。)

宋の時代の話なので、この記述は関係ないです。古すぎますよね。

c:今度は新しすぎます。(問1のまちがった選択肢③に関連するような記述です)

中国は、生糸、陶磁器、茶など、すぐれた貿易品を持っていました。

(1616(1636)~1912)朝に入り、海禁を解除すると、大量の銀が中国に流れ込みました。

乾隆(けんりゅう)帝(位1735~95)は、ヨーロッパ船の来航を広州1港に限定し、公行(こうこう〔コホン〕)と呼ばれる特別な許可を与えた商人組合に管理させます。

これは清朝が利益を確保し、自由貿易をはばむ仕組みでしたので、ヨーロッパの国々には、おもしろくないものでした。

1840年アヘン戦争の結果むすんだ、1842年の南京条約で、公行は廃止されることになりました。

d:年代的には、一番近いのがこれです。

しかし、勘合貿易(日明貿易)がはじまったのは、もう少し前の1400年前後のことです。(中国で明、日本で室町幕府が成立して少ししてからのことです。くわしくは、このシリーズの「第1問B 問6」を参照)

この設問の場合、「前期倭寇」と「後期倭寇」を意識できるとよいでしょう。

前述の「第1問B 問6」に出てくる倭寇は、いわゆる「前期倭寇」のことです。

この設問の16世紀、明は北方のモンゴル、東南海岸の倭寇に苦しめられるいわゆる北虜南倭(ほくりょなんわ)の時代にありました。

この時期の倭寇が、「後期倭寇」と呼ばれます。

設問のアの記述で、「海上貿易が活発化し、…」とありますが、こういった(後期)倭寇の活動も、明の統制貿易を打破しようとする動きであったとも、いえるそうです。

正解:⑤

第3問A 問3

かなり大ざっぱですが、ヨーロッパの歴史の概略は次のようになります。

ヨーロッパの歴史概略

かなり大ざっぱですよ。

しかし、まず骨組みを固めるのが世界史の勉強には有効なので、このまとめは、ものすごく役に立ちます。

さて、この表の前半部分については、このシリーズの「第1問A 問3」で、少し補足しました。

ここでは、この表の1600年~1800年のタームについて補足します。そこまでは400年ずつのタームで考えましたが、近代に入ってきたので、それより短く200年で考えています。

絶対王政が始まるのは国によって前後しますが、大きな動きがいろいろみられるようになってきたのが、1600年以降ですから、1600年をこのタームのはじまりとします。

また、18世紀(1700年代)の終わりに、アメリカ独立戦争(1775~83)や、フランス革命(1789~99)といった、市民革命が起きます。

1800年ごろ、ナポレオンが出てきて、ヨーロッパの国々はゴタゴタします。ナポレオン失脚後、もろもろが、いったんリセットされたようになります。

その後、ヨーロッパ列強は海外に植民地を広げていこうという、いわゆる帝国主義時代に入りますので、1800年までを1つのタームとするのが適切です。

1600年~1800年なので、ちょうど「17世紀~18世紀」のヨーロッパ、ということができます。

上でいろいろ説明しましたが、教科書でも「17~18世紀ヨーロッパの文化と社会」というくくりで、説明されていますね。

どういう時代であったか?・・・みていきましょう。

17~18世紀は、商工業の発展にともない、豊かな市民が、その数を増やしていった時代であります。これが、このタームの最後にくる市民革命の背景でもあります。

昔の教科書にはありませんでしたが、今では一部の教科書で「生活革命」という言葉が取り扱われているくらいです。

世界の一体化にともない、多くの人が、タバコ・茶・砂糖・コーヒーなどの、(当時のヨーロッパの人からすると、まだまだ目新しかった)嗜好品(しこうひん)の消費が拡大していった時代です。

イギリスといえば紅茶・・・というイメージがありますが、イギリスで喫茶(お茶を飲むこと)の習慣が広まったのは、大航海時代を経て、世界が一体化した以降の話です。

これは有名な話ですし、知らなければいけないことです。
よって、選択肢①が消えます。

紅茶が流行(はや)るなら、コーヒーも流行るでしょう。(コーヒーは、もともとはアラビアの方から伝わりました。井上陽水の『コーヒールンバ』という曲が有名です。おしゃれな曲なので、休けいがてら聞いてみるとよいです。)

現在、(人によりますが)紅茶やコーヒーに砂糖を入れるのは、あたり前ですよね。その習慣も、この時期に始まったと、容易に推測できますし、実際にそうです。

あと、このタームのクライマックスとしてフランス革命があります。
王妃マリ=アントワネット(1755~93)が残したとされる「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」という言葉は有名ですね。

私の意見では、この言葉は実際には言っていないと思います。
ですが、この言葉が残っているということで、この時代にはすでに「ケーキ」は、あたり前に存在していたことがわかります。

ケーキの生クリームにも砂糖は、含まれているでしょう。
選択肢②も消えます。(ここまで考えなくても消せますが、もう少しお付き合いください。今、行っているのは単なる解答の確認ではなく、過去問を使った世界史の勉強です。)

また、コーヒーや紅茶が流行したのなら、それを楽しむ場があったはずです。

ロンドン(イギリス)のコーヒーハウスや、パリ(フランス)のカフェなどが、これにあたります。

人々が交流する場所が増えた、・・・ということを意味します。

フランスでは、専門家も招き知的な会話を楽しむための社交場である「サロン」も、流行しました。・・・そういう需要が、あったということです。

コーヒーハウスやサロンといった場で、人々は議論を交わしました。
また、イギリスでは新聞や雑誌も多数刊行されるようになりました。

いわゆる世論(せろん〔よろん〕)が、こういう場で形成されるようになっていったのが、市民革命につながる大きな背景のうちの一つでありますし、17~18世紀のヨーロッパ社会(文化)の大きな特徴です。

選択肢④は、このことを象徴した選択肢であり、まちがいです。

もっとも、ここまで考えなくても、最初から③が答えだとは、わかりますね。

パンがそれまでなかったのなら、ヨーロッパの人たちは、それまで何を食べてたんだ?・・・ということになります。

先ほどのマリ=アントワネットの言葉からも、わかります。この時代には、パンどころか、ケーキも存在していました。(当時のケーキのスポンジが、現在のものと同じかどうかは知りません〔調べれば、すぐわかるでしょうが…〕。)

しかし、この問題も決してばかげた問題ではなく・・・

世界の食習慣が意識できているか?・・・を問う問題といえます。

世界三大穀物といえば、小麦・稲(米)・トウモロコシです。

このうち小麦と稲が、世界的にみて特に主食とする人が多く、主穀(しゅこく)ともよばれています。

そして、小麦からつくられるものといえば・・・第一に「パン」ですね。

知っている人からすれば、あたりまえすぎることですが、テストの場でわからなくなってしまうこともあるかもしれません。

それは、あくまで精神的な問題ではなく、何が大切かを、ふだんからみきわめられているか?ということで、それも学力です。

パンがつくられるようになったのは、古代文明までさかのぼるでしょう。
気になる人は、自分で調べてみましょう。

正解:③

第3問B 問4

まず、「南アジア」って、どこかわかりますか?

大ざっぱにいって、インドやパキスタンのあたりのことです。
やはり、こういう基本的な内容(中学学習内容)が大切ですね。

さて、貨幣Xと、その説明文をみて、これがインドのどの王朝のものであったかを、特定しなければなりません。

サンスクリット文学が栄え、集大成された」「ナーランダ僧院」などのキーワードで、分かるべきともいえますが、ここではまだわからないという前提で、次に進みましょう。

「中国との交流も行われた」という情報もあります。
ここで確信をもって、「○○〇朝だ!」と分かってもらいたいですが、まだ分からない、という前提で設問の方に行きましょう。

設問は、正誤の組み合わせとして正しいものを選ぶ問題です。
貨幣Xが、まだどの王朝のものか特定できていませんが、答えられる問題です。

a:明らかに「誤」だと、すぐわかりますね。

鳩摩羅什(くまらじゅう:344~413)は、どうみても中国人の名前っぽくないでしょう。これは、クマーラジーヴァという人物を中国の文字(漢字)で表して、中国ではこう呼ばれていたという名前です。

鳩摩羅什は西域の人で、選択肢の文の中の「中国から西域へ」の部分が誤りで、逆だったら正しいです。

西域からやってきた僧としては、他に仏図澄(ぶっとちょう〔ブドチンガ〕:?~348)が有名です。

439年に北魏(386~534)が華北を統一する前の五胡(ごこ)十六国の時代(304~439)に、西域から中国にやってきて、華北地方への仏教の布教や仏典の翻訳に活躍しました。

b:法顕(ほっけん:337頃~422頃)は、名前からして中国の人ですし、これは知っておきたい内容です。

華北に五胡が侵入してきた後、南部の建康(けんこう:現在の南京)で再興された東晋(317~420)の僧です。

選択肢の文にあるように、法顕ははるばるインドまで行き、そこで仏教をおさめ、後に『仏国記』を記しました。

なお、法顕がインドを訪れたときインドをおさめていた王朝は、グプタ朝(320頃~550頃)です。

グプタ朝は、中国でいうと魏晋南北朝時代(220~589)にほぼ年代がかぶっている、とおさえるとよいでしょう。

前漢と後漢

「第1問B 問5」で示したこの略年表でいいますと、200年から600年の400年間のタームが、漢という大帝国が滅び、その後、隋・唐によってふたたびとういうされるまでの「分裂期」と、とらえることができます。

正解:③

第3問B 問5

貨幣Yについてです。
こちらについては、どの王朝のものか特定しやすいですね。

ギリシア文字が使われているので、ギリシア人の王朝です。

西にパルティアがあったということからも、貨幣Yを発行した王朝は、バクトリア(前255頃~前145頃)です。

アレクサンドロス大王(位前336~前323)が、前334年、東方遠征に乗り出し、東西にまたがる大帝国を築き上げます。

大王の急死後、西アジアから中央アジアにかけての領土を引き継いだのが、セレウコス朝シリア(前312~前64)です。

セレウコス朝の勢力が弱くなっていき、代わりにこれらの地をおさめるようになったのだ、ギリシア人の王朝であるバクトリアと、遊牧系イラン人の王朝であるパルティア(前248~後224)です。

バクトリアは100年ほどで滅びますが、パルティアはその領土を西アジア一帯に広め、400年以上続きます。

パルティアの存在年は、紀元をはさみ前後200年ちょっとずつなので、ちょうど中国の「漢」と同年代とおさえればよいでしょう。

西アジアの支配は・・・

「アケメネス朝(前550~前330)」→「パルティア(前248~後224)」→「ササン朝(224~651)」のように変遷していきます。

ササン朝も存在年がだいたい400年くらいなので、おさえやすいですね。前述のインドでいうと、グプタ朝(320頃~550頃)と存在期がかぶります。

なお、アケメネス朝、パルティア、ササン朝・・・いずれもペルシア(イラン)人による王朝です。

また、パルティアは遊牧系イラン人、ササン朝は農耕系イラン人による王朝です。

ペルシア(イラン)人王朝による西アジア支配を、イメージしやすいように図示してみます。

古代西アジア史

(注:アケメネス朝とパルティアの間に、セレウコス朝の支配もありますが、この「アケメネス朝→パルティア→ササン朝」の流れを重視しましょう。)

設問にもどります。

パルティアを滅ぼした国、ということなのでササン朝でいいですね。

ササン朝に関する記述なので、①ゾロアスター教を国教とする、が正解です。

パルティアも、最初はヘレニズム文化の影響を受けましたが、後にゾロアスター教を国教とするなど、ペルシア文化の復活をはかりました。

ササン朝の方が支配領域が大きく、その力はバクトリアのあった南アジアにまで及びました。その地域でも、ギリシア文化の影響が次第に小さくなっていったということです。

なお、他の選択肢は・・・

②:中世ヨーロッパの教会建設にかかわる内容です。

11世紀に重厚なロマネスク様式、12世紀にステンドグラスなどで飾られるゴシック様式が登場しました。

③:南アメリカ大陸のアンデス高原一帯に成立したインカ帝国(1200頃~1533)の文化です。

インカ帝国は、文字を持ちませんでしたが、その代わり縄の結び方で情報を伝えるキープ(結縄:けつじょう)で情報を残しました。

④:古代エジプトで使われていた文字のことでしょう。
神聖文字(ヒエログリフ)は、絵文字から発達した象形文字です。

イラン地方の伝統の回復、というには系統がちがいます。

西アジア(イラン地方)はメソポタミア文明からの先進地帯で、元は記号的な楔形文字が使われ、後にアラム文字が主流になりました。

正解:①

第3問B 問6

貨幣Zの解釈に入る前に、XとYの時代順を特定しましょう。

基準となるのはパルティアです。

パルティアって、思っているより大きいと思ってください。

西のローマ帝国(前27~395)と東の帝国(前202~後220)・・・

東西に安定した大帝国があることで、この時期、シルクロード(絹の道)が発達しました。

では、ローマと漢の間に、どういう国があったかというと、・・・

それがパルティアです。

ですからパルティアは「2つの帝国の間にある国」と呼ばれます。

さらに地形的に(横に)2つの帝国の間、というだけでなく、時代的に(縦に)もアケメネス朝とササン朝という2つの帝国の間にある国、と言えます。

これを図示すると、次のようになります。

古代ユーラシア

・・・ということで、パルティアを基準に考えていきましょう。

パルティアが存在していた時代、インドではクシャーナ朝(1~3世紀)が支配していました。

この王朝のもと、ギリシア文化の影響を受けたガンダーラ美術が栄えました。

ガンダーラ美術は南アジア地方まで進出してきたバクトリアの影響を受けたもの、というのが通説ですが、もっと直接的に同時代のローマの影響を受けていた、と考えてもおかしくないですし、そういう説もあります。

パルティアとクシャーナ朝の存在年がかぶっている、・・・というのは重要なおさえまたです。

貨幣Xの説明文のとおり、クシャーナ朝の後をついだグプタ朝(320頃~550頃)では、インドの古典文化の最盛期を迎えます。

貨幣Xはパルティアと同時代のバクトリアや、クシャーナ朝の後に出てきた王朝(グプタ朝)のものということです。

これで、Y→Xの順がきまります。

先ほどの図にもどりましょう。

古代ユーラシア

では、この後、・・・ササン朝の後はどうなったか?というと・・・

イスラーム勢力が出てきました。その勢力は南インドまで及びます。
ここからは、そういう時代の話になります。

イスラム勢力も含め、諸王朝が興亡を繰り返しますが、13世紀、モンゴル帝国(1206~71)が、ユーラシア大陸に史上最大の領域を支配します。
南インド地方もその支配下に入りました。

その領土は各ハン国に受け継がれます。

南インド地方をイスラーム勢力が取り返すのは、16世紀、ムガル帝国(1526~1858)によります。

ジズヤ(人頭税)の廃止(1564年)によって、イスラーム教徒とインド住民に多かったヒンドゥー教徒との融和を図ったのは、ムガル帝国の3代皇帝アクバル(位1556~1605)の功績として有名です。

貨幣Zは、X、Yに比べ、だいぶ後の話で、これが一番最後になります。

正解:②

以上です。ありがとうございました。
コメントなどいただけると、とてもうれしいです。

執筆:井出進学塾(富士宮教材開発) 代表 井出真歩


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