2021年 共通テスト「世界史B」過去問解説④第4問(解説動画付き):令和3年度 大学入学共通テスト 本試
第4問以外の大問の解説は、こちらのページにまとめております。
それでは、第4問の解説をはじめます。
第4問A 重要テーマは、自分でもまとめてみましょう
まず重要なのはリード文の「19世紀/ヨーロッパ」という情報です。
先ほどと一転して、これは資料をしっかりみなければ答えられない情報ですが、「19世紀」という情報と、問1の選択肢の「クリミア戦争」、「露土戦争(ロシア=トルコ戦争)」などから・・・
ロシアの南下政策・・・に、かかわる問題だとわかります。
問1~問3まで、どれも19世紀ヨーロッパ史の大まかな流れがわかってさえいれば、簡単に答えられる問題です。(いかに簡単かは、それぞれの問いで解説します。)
とはいえ、その「大まかな流れ」が入っていなければ、それを解説しても意味が分からないですね。
ということで、「ロシアの南下政策」について、少し時間をとって確認しておきます。(下に白地図を貼っておきます。何枚か印刷し、自分なりにまとめながら進めるとよいです。)
19世紀(1800年代)はナポレオン戦争に始まり、ウィーン会議(1814~15)によるウイーン体制(1815~48)の成立と続きます。
ウィーン体制の中心となったのは、(他国に先駆け産業革命を成し遂げ)経済的繁栄と圧倒的な海軍力を誇るイギリスと、巨大な陸軍を持つロシアの二国でした。
19世紀は、イギリスとロシアという二大強国が、争った時代であります。
ここで、世界地図でロシアの位置を確認しておきましょう。
ロシアは、ユーラシア大陸の北部に位置します。
第3問B問6でもみましたが、ロシアが、とにかくほしかったのが不凍港(ふとうこう:冬でも凍らない港)です。
当時、オスマン帝国(1300頃~1922)はかなり弱体化していましたので、ロシアには、黒海から地中海にぬけるルートがみえていました。
(下図参照。なお、ウィーン体制下の1829年に、ギリシアがすでにオスマン帝国から独立していることも、ポイントです。)
1853年、ロシアはオスマン帝国と開戦し(クリミア戦争〔1853~56〕)、オスマン帝国の領土の一部と黒海沿岸をその勢力範囲におさめます。
下図の赤色の斜線がロシアの勢力範囲となったところです。
これを止めたかったのが、イギリスです。
また、フランスもナポレオン3世(位1852~70)による第二帝政(1852~70)が始まった時期で、積極的に対外政策を進めようとしていた時期でした。
イギリスとフランスがオスマン帝国を支援し、クリミア戦争はロシアの敗北で終わります。1856年、パリ条約で、ロシアは黒海の中立化など認めさせられ、元の状態に戻ります。
クリミア戦争敗戦濃厚の中、即位したロシアのアレクサンドル2世(位1855~81)は、パリ条約を締結した後、しばらく国内改革に専念します。(アレクサンドル2世については、第3問B問6も参照するとよいです。)
また、フランスのナポレオン3世は、オスマン帝国を支援したことで、名声を高めます。
1870年代に入り、再びロシアにチャンスがめぐってきます。
オスマン帝国の支配領域であったバルカン半島で、1875年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで農民反乱、翌76年に、ブルガリアで独立を求める蜂起(ほうき)が起きました。(これらの位置は、最後の地図を参照)
ロシアはこれに乗じ、1877年、オスマン帝国と開戦し(ロシア=トルコ〈露土〉戦争〔1877~78〕)、これに勝利し、翌78年、サン=ステファノ条約を結びます。
サン=ステファノ条約では、ブルガリアはロシアの保護下に入り自治国化が認められ、バルカン半島のオスマン帝国領だった範囲に、大きな領土を持つことになりました。
(注:赤字で示した国は、サン=ステファノ条約で独立が認められた国。
ブルガリアは、ロシアの保護下での自治国化が認められる。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、後にオーストリアに占領、併合される。)
保護国であるブルガリアが、黒海沿岸の広い範囲を領土とします。
しかも領土は、エーゲ海にも面しています。
ロシアの南下政策は、ついに成功したかのようにみえました。
しかし、これに対し、イギリスやオーストリアが強く反発しました。
これをうまく利用したのが、1871年、統一をなしたばかりの新興のドイツの宰相、ビスマルク(任1871~90)です。
ビスマルクは調停役を名のり出て、1878年ベルリン会議を開催します。
ベルリン会議では、サン=ステファノ条約は破棄され、新たにベルリン条約(1878年)がむすばれました。
ベルリン条約では、ブルガリアの領土縮小と、ブルガリアのオスマン帝国下での自治国化が認められました。ブルガリアは、ロシアの保護国ではなくなた、ということです。
ロシアの目論見(もくろみ)はつぶされ、こちらからの南下政策は断念することになります。その後、東からの南下をめざし、朝鮮半島をめぐって日本と争い、20世紀初頭の日露戦争(1904~05)と、つながっていきます。
一方、ベルリン会議を成功させたドイツは、国際的威信を高めることに成功しました。
第4問A問1 誰が、イケイケどんどん…だったか?
資料だけではきついかもしれませんが、前述したように問1の選択肢より、19世紀のロシアの南下政策にかかわる条約だということは、わかります。
流れを確認しますと・・・
・クリミア戦争(パリ条約)で、ロシア敗北
・ロシア=トルコ戦争(サン=ステファノ条約)で、ロシアが勝利し南下政策がいけそうだったけど、ベルリン会議(ベルリン条約)で、ロシアは負けてしまい南下政策も挫折・・・と、とらえられます。
資料の第1条の「スルタン陛下」というのは、オスマン帝国の支配者の称号のことです。〔ア〕の国(ブルガリア)を、ロシアの保護下から外すという内容です。
これは、ロシアの敗北を意味します。
資料は、「ベルリン条約」の内容です。
ベルリン条約では、ロシア=トルコ戦争の講和条約であるサン=ステファノ条約が破棄されました。
正解:②
補足します。まとめると、・・・
・クリミア戦争 → パリ条約
・ロシア=トルコ〈露土〉戦争 → サン=ステファノ条約
→ ベルリン会議 → ベルリン条約 に、なりますが・・・
こういうのをみると、「戦争と条約の対応を覚えなきゃな」…と思われる受験生の方は、多いでしょうが、ちょっと待ってください。
覚える前に、やることが、ありますよね。
背景を、理解しましょう。
ここでいうと、・・・
クリミア戦争 → フランスのナポレオン3世が、イケイケどんどんな時期
ロシア=トルコ戦争 → ドイツのビスマルクが、イケイケどんどんな時期
…それをふまえると、クリミア戦争の講和条約が、フランスの首都であるパリ条約、ロシア=トルコ戦争の最終的な条約が、ドイツの首都であるベルリン条約・・・というのは、むしろ、「いかにも」ですよね。(なお、サン=ステファノはトルコの地名です。)
実はこの問題も、「クリミア戦争のときナポレオン3世がイケイケどんどんだった(ナポレオン3世は、クリミア戦争で名声を高めた)。」というIOPさえ入っていれば、そこから思考してて消去法で正解を導ける問題でもありました。
もちろん覚えようとしてもいいですが、その前にこのような背景理解に努めることを習慣づけましょう。勉強の効率が、まったくちがいます。
(また、自分でがんばって背景を解釈しようと、教科書や用語集と向き合い、まとめるなどしてみると、覚えようとする前に自然と覚えられていることもよくありますし、それが理想です。すべての受験生にこれを求める気はありませんが、こういう要素もあるということは、頭に入れておきましょう。)
第4問A問2 求められているのは、そっちではありません
さて、ベルリン条約の内容についての問題です。
地図中に4つの選択肢が、与えられています。
これら4つの国名や地域名が、出てくるでしょうか?
また、サン=ステファノ条約やパリ条約で独立を認められた国は、すべて出てこないといけないものでしょうか?
もちろん、出てきた方がいいに決まっています。
それにより、解答がより正確かつ迅速に進みます。
でも、出てこなくても大丈夫です。
出題者側の出題の意図は、そちらにはありません。
もっと大きな背景である・・・
「19世紀、ロシアは、黒海から地中海にぬける南下ルートをねらっていた」
・・・ということに対する理解です。
選択肢の地図をみてみましょう。
問題の本旨は、どこが独立させられたので、ロシアは南下政策を断念したか?・・・ということです。
選択肢の中に、黒海に面している国は、bしかないですよね。
ですので、bが正解です。
共通テストは、本当にこういうクォリティでつくられています。
正解:②
cはギリシアで、すでに1829年にオスマン帝国から独立しています。
aはモンテネグロ・・・ベルリン会議では、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が承認されました。(オスマン帝国の支配下から、ぬけだしたことを意味します。オスマン帝国は弱体化は進み、領土は縮小の一途をたどります。)
dはキプロス島です。オスマン帝国領でしたが、ベルリン条約によりイギリスの占領下に入りました。位置的にスエズ運河に近いことを確認しておきましょう。イギリスにとって、重要な拠点になりました。
第4問A問3 19世紀の次は20世紀です
資料で示されたベルリン条約は、19世紀(1800年代)後半のものです。
19世紀の次は、20世紀です。(・・・「あたりまえだろ、」って、つっこむところです。)
20世紀(1900年代)の初めには、
・・・そうです、・・・
第一次世界大戦(1914~18)が、勃発しました。
この問題は、第一次世界大戦に向かっている時代感をつかめているかが、問われる問題です。
第一次世界大戦前、バルカン半島は・・・
「ヨーロッパの火薬庫」と、呼ばれていました。
バルカン半島は、先端にギリシアが位置する半島です。
前問で紹介した地図で、よく確認しておきましょう。
バルカン半島とは、オスマン帝国のヨーロッパの部分の領土であったところであり、19世紀を通し、多くの国がオスマン帝国から独立した場所であります。
20世紀に入り、第1次バルカン戦争(1912~13)によって、オスマン帝国はバルカン半島の領土を、ほとんど失います。
この第4問Aのテーマ自体が、「バルカン半島」でありました。
ベルリン条約後の、バルカン半島の情勢をみていきましょう。
第2次バルカン戦争(1913)にもみられるように、バルカン半島諸国間の対立もありましたが、焦点となるのは、・・・
「オーストリアとロシアの勢力争い」・・・です。
バルカン半島に独立した、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナなどは、スラヴ系住民の多い国です。19世紀後半から、スラヴ系諸民族の統一と連帯をめざすパン=スラヴ主義が、盛んにとなえられるようになってきました。
ロシアもスラヴ人の多い国家です(ロシア人は、スラヴ人の代表のようなものです。)。南下政策に利用できるので、バルカン半島のパン=スラヴ主義を、ロシアは積極的に支援していました。
一方、バルカン半島に隣接する(問2の地図参照)オーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)も、国内に多数のスラヴ系諸民族をかかえていました。
これらスラヴ系諸民族の分離・自治運動の激化をおさえるために、オーストリアにはパン=スラヴ主義の動きを、おさえる必要がありました。
1908年、オスマン帝国で青年トルコ革命が起こります。
オーストリアはこれに乗じ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合します。
(1878年のベルリン会議で、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの占領と行政権が認められていました。1908年に完全に併合したことになります。)
ボスニア・ヘルツェゴヴィナはスラヴ系の住民が多いことから、かねてからセルビアが編入することを望んでいました。
この併合は、スラヴ系民族主義者の強い反発を招きました。
「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合」は、第一次世界大戦の直接的原因ともいえる事件です。
その後、1914年、ボスニアの州都サライェヴォで、オーストリアの帝位継承者夫妻が、セルビア人の青年に暗殺されます(サライェヴォ事件)。
これが、第一次世界大戦の引き金になります。
オーストリアがセルビアに対し宣戦し、第一次世界大戦がはじまります。
選択肢(あ)の「イタリア」は「オーストリア」のまちがい、
選択肢(い)は、正しいです。
正解:③
これも、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したのはイタリアだったか?オーストリアだったか?・・・というような、単に知識を問う問題ではなく・・・
第一次世界大戦がはじまった背景を、ある程度でもおさえられているか?を問われる問題でした。
第4問B 「した」方ではなく、「しなかった」方に着目です
1945年、日本の敗戦で第二次世界大戦が終了します。
日本は、連合国軍の占領下に入ります(実質的にはアメリカ軍による単独占領)。日本は、独立国では、なくなった・・・ということです。
すごいことですよね。
しかし、冷戦下の国際状況が有利にはたらき、日本は、わりと早く独立を回復することになります。
独立を回復し国際社会への復帰をめざす日本には、めざすべき方向として2つの選択肢がありました。
「戦争したすべての国に許してもらって平和条約を結ぶ。」
または・・・
「すべての国はあきらめて、とりあえず許してくれる国と平和条約を結ぶ(・・・ただし、こちらはアメリカを中心として国際連合加盟国の大多数を占めます)。」
当時、冷戦でアメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする共産主義陣営の対立が激化していました。
1950年には朝鮮戦争(1850~53)も始まり、アメリカとしても、これ以上の共産主義の拡大をおさえるため、日本を独立させよう・・・ということになりました。
1951年、サンフランシスコ講和会議で平和条約に調印し、日本の独立は回復します。
ただし、先にもみたように、すべての国と平和条約を結び国交を回復したわけではありません。
この時点(1951年)で、主なところで「ソ連」、「朝鮮」、「中国」とは、国交(国どうしの正式な外交関係)が結ばれていません。
「ソ連」は、アメリカとの対立が激しく、
「朝鮮」は、戦時中、日本の植民地支配を受けていましたし、朝鮮戦争も、はじまってしまいました。
「中国」は、1949年、国連代表権を持つ中華民国が台湾に逃れ、本土には中華人民共和国が成立し、かなり難しいことになっています。
戦後の外交史を考えるとき、
日本がこれらの3国とどのように国交を回復していくか?・・・が、重要なポイントであると、IOPは、言っています。
第4問B問4 戦後インドは、日本にとても好意的でした
上記の国交未回復の3国(3地域)のうち、日本にとって急ぐべき課題は「ソ連」でした。
なにせ、ソ連は国連安全保障理事会の常任理事国である5大国(米・英・仏・ソ・中〔中華民国〕)の1つです。5大国は、拒否権を持っています。
日本が国際連合に参加し、国際社会に復帰するためには、ソ連と国交を回復するのが、不可避のことでした。
1953年に、転機がおとずれます。
ソ連の独裁者、「スターリンの死」、・・・また同年、朝鮮戦争も集結し、緊張がゆるみます。
日本はソ連とていねいな交渉を続け、1956年、日ソ共同宣言に調印し、日ソの国交が回復します。同時に、日本の国際連盟加盟が認められ、日本は国際社会に復帰します。
戦後史は、10年ごとのタームでおさえていくとよいです。
日本の場合でいうと、終戦から10年後の1955年くらいに国際社会に復帰できたと、おさえられます。また、1955年くらいから、日本で高度経済成長が始まりましたので、よい区切りです。
問題にもどります。
〔イ〕は、すぐにわかりますね。日本を占領した連合国軍の中心はアメリカでしたし、サンフランシスコもアメリカの地名です。また、資料Xに出てくるリチャード=ニクソン大統領も、アメリカの大統領の名前です。
〔イ〕は、アメリカです。
〔ウ〕:資料Yの解釈からも判断できますが、ここは上で確認したことから、・・・
サンフランシスコ講和会議の段階では、日本と平和条約を結ばず、その後しばらくして共同宣言を出し日本と国交回復・・・ということから、ソ連と判断しましょう。(資料Yの解釈は、次の問いでします。)
もっとも、「ソ連」以外の選択肢が「インド」だけなので、ここで出てくるのは違和感をもてやすいので、消去法でも選べるでしょう。(資料Yは、内容としては平和条約ですが、中国とインドは国境紛争なんかで、仲が悪いはずだよな・・・というふうにも判断できます。)
正解:①
フェイクの選択肢として「インド」が出てきたのも、それなりに意味があります。実はインドも、サンフランシスコ平和会議で、平和条約に調印しませんでした。(会議自体に参加していません。)
しかしこれは、日本に否定的だったわけではなく、領土の問題などで「日本に十分な名誉が与えられていない」としたからです。
インドはその後、単独で日本と講和条約を結びます。
現在、「インド太平洋構想」が着目されているので、この話題もピックアップされるようになってくるかもしれませんね。
第4問B問5 戦後、中国は2つありました
戦後、中国では国民党と共産党の対立が再燃します。
この内乱に勝利したのは、毛沢東(もうたくとう:1893~1976)の率いていた共産党です。
1949年、毛沢東を主席とする中華人民共和国の成立を宣言します。
国民党政権を率いていた蒋介石(しょうかいせき:1887~1975)は台湾に逃れ、台湾に中華民国政府を維持します。
中国本土は、中華人民共和国が治め、共産主義(社会主義)の国家づくりをすすめることになりました。
冷戦下で、社会主義国のソ連は、すぐにこの支持に回り、1950年、中華人民共和国とソ連との間で中ソ友好同盟相互援助条約(1950~80)が締結されました。それが、資料Yです。
中国(中華人民共和国)はこの条約により、社会主義陣営に属する姿勢を明らかにしました。
資料Yでは、「日本」を仮想敵国としていることがわかりますが、これは同時に、日本を支援しようとしている(独立させようとしている)「アメリカ」も仮想敵国としているということです。
資料Yの2行目~3行目にかけて、「日本と結託するその他の国家」とありますが、これがアメリカのことです。
ソ連が中華人民共和国を支持したこともあり、アメリカは台湾の中華民国政府を中国の代表とする立場をとり続けます。アメリカと中華人民共和国は、その後長く対立関係にありました。
その後、ソ連は1953年のスターリンの死後の「雪どけ」により、平和共存路線をとりはじめます。
中国はこれを批判し、1960年代には、今度は中国とソ連の対立が始まります(中ソ対立)。
アメリカではベトナム戦争(1965~73:※戦争期間については、諸解釈あり)が泥沼化する中、ニクソンが大統領に就任(任1969~74)します。
アメリカのベトナム戦争への軍事介入は、国内の世論を二分させ、また、国際的にも強い批判を受けていました。
このような状況を打開するため、ニクソンは中国に歩みよることを考えます。(ベトナム戦争では、アメリカが南ベトナムを、ソ連・中国が北ベトナムを援助していました。中国に歩みよることは、和平の道を開き、また、中国と対立しているソ連への牽制〔けんせい〕にもなります。)
1972年、ニクソン大統領は中国を訪問します(ニクソン訪中)。
資料Xの1文目から、これはニクソン訪中に関する資料だとわかります。
そのときに出された共同声明ということでしょう。
このニクソン訪中に、衝撃を受けたのが日本です。
同盟国のアメリカは、中華人民共和国と対立し、台湾の中華民国政府を支持しているはずでした。
同年、日本の田中首相が訪中し、日本と中国(中華人民共和国)との国交が正常化します。資料Zは、そのときに出された共同声明です。
この問題は、年代の古いものから順に並べる問題ですが、資料Xと資料Zは同じ1972年のものです。
流れをおさえておかないと、いけないということです。
正解:③
第4問B問6 米・ソ・中の関係の推移が、この問題のテーマでした
2つの中国・・・中華人民共和国と中華民国を、しっかり意識できていれば、容易に答えられます。
1951年のサンフランシスコ平和会議に、「中華人民共和国」が招かれなかった理由なので、②が正解です。問5の解説でも、この件にはふれています。
せっかくですので、他の選択肢も年代順に確認しておきましょう。
①:中国共産党と中国国民党が存在している時点で、この選択肢はないですね。中華人民共和国が成立する以前の話です。
第1次国共合作(1924~27)は、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間のタームの話題です。中国国民党の指導者孫文(1866~1925)が、ソ連の援助を受けいれ成立しました。
③:朝鮮戦争(1950~53)に関する内容ですが、選択肢の文そのものに誤りが含まれます。(朝鮮戦争は、中国がサンフランシスコ平和会議に招かれなかった一因になり得るので、このようにはっきりとまちがった選択肢にしていることに注目しましょう。)
戦後、日本の植民地であった朝鮮の、南半部(現在の韓国の地域)をアメリカが、北半部(現在の北朝鮮の地域)をソ連が、それぞれ占領していました。
米ソ対立が深まる中、1948年、南の大韓民国と、北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に分かれて独立します。
1950年、北朝鮮が韓国に侵攻し、朝鮮戦争(1950~53)が始まります。
アメリカ軍を中心とする国連軍が、韓国を支援しました。
当時、ソ連よりだった中華人民共和国は、「北朝鮮」を支援して人民義勇軍を派遣し、アメリカ軍を中心とする国連軍と対立しました。
②(正解の選択肢):サンフランシスコ平和会議は、1951年に開催されました。ちょうど、朝鮮戦争の時期です。
アメリカが、中華人民共和国を認めなかったこと(=中華民国を正式代表とする立場をとったこと)、それゆえ、中華人民共和国がサンフランシスコ平和会議に招待されなかったこと・・・に、つながります。
④は、わりと最近のことで、1989年の天安門事件のことです。
私が、高校生のときのことなので、印象に残っています。
確かに、国際的な批判が高まっていました。
正解:②
第4問C 資料・対話文の解釈
背景知識として、よい例ですので、明治日本の近代化について少し触れておきます。
欧米の強国に追いつくことをめざしていた明治政府は、欧米の優れた自然科学や法学などの学問を取り入れるため、ドイツ、イギリス、フランスなどから多くの外国人教師を日本に招きました。
これらの外国人教師たちが、最初に提案したことは・・・
「まず、ドイツ語(英語、フランス語)を、学ばせないといけない。」・・・と、いうものでした。
これらの外国人教師から、直接学ぶのは、その言語を使える一部の人たちで、実際には、その学んだ知識を日本人の先生に伝え、その先生たちが日本語で日本人の生徒に教えます。
ですので、生徒が勉強するのに、外国語を使えることは、必ずしも必須とは、いえません。(現在、みなさんも日本語で理科の授業を受けたり、勉強したりしてますよね。)
しかし、これらの外国人教師たちは、自分たちの母語(日本人からすると外国語)を学ばせないと、教育は不可能だと、主張しました。
それは、なぜかというと、その時点では、まだ日本語には・・・
「用語」が、存在していないからです。
例えば、「化学」分野でいいますと、・・・
「水素」、「酸素」などの元素名、「気体」、「液体」といういい方、さらには、「混合物」や「状態変化/化学変化」などの言葉がありません。
それでは、説明や指導のしようがありませんよね。(ですので、これらの外国人講師らが、まず外国語を覚えよ・・・というのは、理にかなった主張になります。)
明治日本の場合は、日本人がものすごくがんばって、短期間で必要な用語(の日本語訳)をつくり上げ、日本語での教育を可能にしました。
そしてこのことは、外国人教師たちにも、「日本人って、すごいな」という印象を与えたそうです。(一時期、このエピソードは中学の歴史の教科書にものせられていました。)
それを、ふまえ資料をみてみましょう。
本国(イギリス)と植民地(インド)という関係なので、そうなるのでしょうが、日本の例とは少し違いますね。
イギリス側に、だいぶ、インドを見下した姿勢がうかがえます。
第4問C問7 イメージとしては、「箱」の中からさがしましょう
〔文学作品の名〕
「古代インドで多くの文学作品が書かれた」ということで、〔エ〕に入るのは、サンスクリット語だと、わかります。
選択肢の、どちらがサンスクリット語で書かれたものなのかを判断します。
サンスクリット文学の代表作として、『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』の次くらいに、『シャクンタラー』(カーリダーサ作)がきますので、それを覚えていたら、それで答えるのに、こしたことはありません。
これも確かに、大事なところといえば大事なところなのですが、それでも、そういうのをすべて正確に暗記しておけ・・・というのも、無理のある話です。なんとなく、覚えていれば、共通テスト世界史では大丈夫です。
どういうことかというと、この問題の場合、インドで使われている言語として、「アラビア語」と「サンスクリット語」の2つが与えられています。
アラビア語は、イスラームの国々で、よく使われている言語です。コーランも、アラビア語で書かれています
対話文の内容をとると・・・
イギリス側は、インドにもイスラーム勢力がのびてきているので、アラビア語が重要だろう・・・と勝手に決めつけていますが、それはインドの実情とはあっていなかった、という主旨になっています。
と、すると、誤りの方の選択肢は、アラビア語による文学のものである可能性が高いです。
あなたが今まで積み上げてきて頭の中にある、「イスラーム文化(文学)」という名前のついた「箱」の中に、『ルバイヤート(四行詩集)』が、あるか探してみましょう。
何となくでもありそうだと思えたら、(い)ではなく(あ)が正解と、判断してかまいません。もちろん、「古代インド」という名前のついた「箱」の中に『シャクンタラー』を探してみてもよいです。
どちらも「なんとなく」レベルの記憶だったとしても、両方から確認できれば、ほぼ、まちがいないでしょう。(もちろん、あるていどちゃんと勉強していることが、前提です。)
『ルバイヤート(四行詩集)』は、セルジューク朝(1038~1194)の時代、ウマル=ハイヤーム(1048~1131)によって著された詩集です。
〔資料から読み取れる事柄〕
資料の2段落目から、Wは正しく、3段落目から、Xは誤りだと判断できます。細かく文章を照らし合わせても判断できますが・・・
資料や会話文全体から読み取れる内容が、西洋が東洋を絶対的に見下している姿勢(Xは誤り)、インドの実情に注意を払わず思い込みでアラビア語を推薦する(Wは正しい)
・・・など、全体のテーマから、よゆうをもって判断したいですね。
正解:①
第4問C問8 支配するほうは、けっこう悪いこと、考えているものです
〔資料及び会話文から読み取れる英語教育導入の動機〕
インドで、イギリス統治以前も「英語」が使われていた、なんて記述はどこにもありませんし、そんなこともないでしょうから、容易に(う)は誤りだと判断できます。
(え)は、会話文最後の「先生」の言葉とも一致し、こちらが正しいです。
インドで、現在でも英語が公用語として使われている理由は、この時期にさかのぼります。
〔インドにおけるイギリスの植民地支配の特徴〕
特にインドに対してですが、イギリスは植民地を支配するにあたり、「分割統治」という政策を、しばしば巧妙にとってきました。
これは、簡単にいうとインド人どうしを対立させ、力をそぎ、支配をしやすくする・・・というものです。特に、1857~59年の、(シパーヒーによる)大反乱以降、それが顕著になります。
この問題でも、このようなイギリスの戦略が頭に入っていると、より判断が、しやすくなります。
19世紀(1800年代)半ばまでに、イギリス東インド会社は、(X)にあるような形で、インド全域を植民地化しました。(藩王国とは、ムガル王国内の地方勢力です。藩王国からは、外交権を奪う形での間接統治としました。)
はじめは、藩王国に後継者がいない場合はとりつぶし、東インド会社領に編入するなど厳しい政策をとっていましたが、シパーヒーの乱以後は、これらの藩王国をうまく操る形で、イギリスは植民地統治を進めました。
(Z)のベンガル分割令も、イギリスの分断(分割統治)政策の一環です。これは、20世紀に入ってすぐ、1905年にとられた政策です。
これは、インド人の多くを占めていたヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の分断を意図してのものでした。
しかし、これは大きな反発を招きました。
イギリスとインド人のエリート層との協力を意図して結成(1885年)されていた機関である、インド国民会議は、イギリスの支配に真正面から対抗する姿勢を示し、政治結社・国民会議派へと変貌〔へんぼう〕します。
一方、イスラーム教徒はイギリスの懐柔〔かいじゅう〕を受け、1906年、親英的な全インド=~ムスリム連盟を結成しましたが、この組織も、やがてはインド独立をめざし国民会議派と共闘し、民族運動を進めます。
インドには、ヒンドゥー教徒が多いというのは、必要な知識です。また、インドの植民地支配から独立、あるいはその後の過程で、イスラーム教徒との関係は主要なテーマです。
そこらへんの知識から、(Z)は誤りだと判断できます。(仏教はインドで生まれましたが、インドの仏教徒はわりと少ないです。)
正解:③
第4問C問9 愛妻のためにつくられた美しすぎるお墓
世界史の教科書では、ムガル帝国(1526~1858)といえば、イギリスにいいようにやられていた時代の記述の方が多いですが、建国当初はインドで大きな力を持っていました。
有名なのが、5代皇帝シャー=ジャハーンが、亡くなった愛する妻のためにたてた墓廟〔ぼびょう〕であるタージ=マハルです。その白く美しい姿は、教科書の挿絵などでも印象的ですよね。
一説には、シャー=ジャハーンは自分の死後、タージ=マハルと対になるよう黒の墓廟を自分の墓としてつくらせるつもりだったそうです。
他の選択肢も、一応みておきましょう。
①:タミル語は、現在、南インドやスリランカで話されている言語です。
シンガポールの公用語の1つであるというのも、有名ですよね。
どちらにせよ、古代からある言語です。(古代から中世に南インドにあったチョーラ朝は、タミル人による王朝です。)
ムガル王国の時代に、どうのということはないでしょう。(実際、別系統の言語のようです。)
③:ワヤンは、インドネシア・ジャワ島に伝わる紙絵芝居です。ムガル帝国とは関係ありませんね。(一応、サンスクリット文学の『マハーバーラタ』を題材とするものが多いそうなので、インドとまったく無関係ということはありません。しかし、①と同様、時代のずれもあります。)
④:ウルグ=ベグは、ティムール朝(1370~1507)の第4代君主(位1447~49)です。選択肢にもあるよう、天文学の発達にも貢献しました。
以上です。ありがとうございました。
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執筆:井出進学塾(富士宮教材開発) 代表 井出真歩
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