「わかる」考
わかる、というのはどちらかというと趣味嗜好なのだろう、ということ。客観的なものさしがあるようでないもの。
多くの場合は誰かとのコミュニケーションにおいて、わかる、という状態にならなければならないものだから、その場合の「わかる」は、コミュニケーションの相手が納得する、もしくはわからないのエリアが一致するレベルという正解がある。
学校や資格の試験もそう。目指すレベルがある。
けれども、そうした他者への返答を目標としないところでの勉強や研究、思考のところでは、「わかる」はどこまでも個人的な感性によるものだなと。
ある人はAT車を安全運転できれば車の運転はわかったことになるかもしれないけれど(私はそうです。)、別の人にとってはAT なんてもってのほかで。
研究もそうかなと。
自分にとってわかった、と言えるところまで潜っていく。だから、どうにも検証しきれないところが残ってて、それがしばらく後に実現されると、「わかる」が成就するから嬉しくてたまらない。たとえその仮説が間違ってた、という結果であったとしても、わかる、に至ったことに変わりはない。から一緒に喜べることも少なくない。
わかる、わからない、の境目を身体的に実感するのは、他人に説明する時以外だと、絵を描くときになる。わからないと描けない。頭でわかっても絵におとしこめなければ今度は表現の方法がわからない状況にいる。その段階がクリアできてはじめて、自分がある程度納得して、ある程度見た人にも伝わるものになるのかもしれない、と思っている。
彼に借りた批評についての本を読んでいて、われも述べたし、となったことから。
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