ボスカイオーラ・ビアンコの妄想

「本当はそこにあるってわかってたの。でも、もっと、もっとって足りないものを埋めようとすると、気づいたらなくなってるものなのよ」

葉子は僕に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で話しかけていた。しかし、僕はそれが何を意味するのか考える前に睡魔に飲み込まれてしまった。


日曜日の朝、僕はぐるぐるしている頭を無理に現実の焦点に合わせる。昨日は飲みすぎた。しかし、昨日やり残した仕事に取りからねばならない。僕は隣でまだ寝ている葉子の顔を見ながらそう思う。襲いかかりたい、という衝動をなんとか抑えて起き上がる。

明日は大規模プロジェクトの中間報告だ。プレゼンテーションの最終チェックを今日中にしておきたい。

キッチンに行って熱いコーヒーをいれ、昨日上がってきた懸念点の洗い出しを頭の中で行う。大体の検討がついたところでPCに向かい、スライドを起動して昨日の続きに取り掛かる。問題はほとんど見られない。あったとしても本当に瑣末な部分だけであり、他のメンバーだったら特に気付きもしないような点だろう。

「うん、問題なさそうだな」
2時間ほどでチェックと修正を一通り済ませ、葉子が寝ているベッドに目を向けると、葉子は目を覚ましていた。スマホを気だるそうにスワイプしている。
「相変わらず忙しそうね。」
「いや、大したことはないんだ。細かいところがどうしても気になってしまう性分だからチェックをしているだけだよ。」
「日曜日のお昼に仕事するなんて信じられないわ。」
まあ、それはそうかもしれない、と思いながらも、「今の仕事には満足しているからいいんだよ」と僕は葉子に言う。別に全ての人がわざわざ土日に休む必要はないのだ。

「ねえ。私、とーってもお腹すいたわ。もう14時間も何も食べてないんだもの。」
葉子はスマホから目を離し、僕の方をじとっと見つめる。
「ああ、そうだね、何か食べにいく?」
「うーん。わかんない。任せた!」といって葉子はスマホをベット脇に置いてまた布団に潜ってしまう。こういう時、葉子はしばらくベットから起き上がってこない。せっかくの日曜日なんだから何か美味しいものを食べに、外にでも行きたい気分なのだが…。まあ、いいか。何か作ろう。

冷蔵庫に昨日の鍋の具材で使わなかったキノコがかなりたくさんあったのでキノコのパスタを作ることにした。生クリームも残っているからこれで結構こってりしたパスタが作れるだろう。

僕は大蒜と玉ねぎ、エリンギとまいたけを冷蔵庫から取り出し、アッシェを始めた。キノコ料理は2種類の火の通し方がある。それを組み合わせることがキノコ料理の鉄則だ。アッシェした大蒜をたっぷりのオリーブオイルとアルミパンで熱し、ごく弱火で炒める。ある程度火が通り、大蒜のいい香りがしてくる。なかなか官能的な香りだ。昼からこの匂いを嗅ぐとなんだか社会の皆々様に申し訳ない、という気がしてくるがどうせ今日も葉子と過ごすだけなのだから気にしない。

その後、アッシェした玉ねぎとエリンギをアルミパンに加え、キノコの旨みを凝縮していく。旨味を引き出すときは弱火でじっくりと。これが一つ目の火の通し方だ。

キノコソースを火にかけている間に舞茸を手で割いていく。動物性の旨みが足りないのでいつも朝に食べているベーコンを舞茸と同じくらいの大きさに刻む。舞茸とベーコンはソースというよりは具になってくるので一口大にすることが大切だ。
キノコソースに火にかかったところでアルミパンから取り出し、強火で舞茸とベーコンを熱する。食感を大切にするときは強火でさっと。これが二つ目の火の通し方である。

これと同時進行で寸胴にお湯をわかしパスタを放り込む。段々と舞茸とベーコンの良い香りがしてくる。

「ねえ、とってもいい匂い。何作ってるの?」
気づくと葉子は僕の後ろに立っていて、僕の肩に顎を載せる。シャンプーと彼女の匂いが半々で僕の鼻腔に入ってくる。
「ボスカイオーラ・ビアンコ。」
「なにそれ。」
「まあ、あんまり日本だと流行ってないからなあ。でもうまいよ。」
「それはもうわかってるわ。あなたの作るものは全部美味しいもの。」
「それは、ありがとう。」

ボスカイオーラはキノコのパスタだ。日本で主流なのはツナとトマトを加えたボスカイオーラ・ロッソだが、イタリアではパンチェッタと生クリームを加えたボスカイオーラ・ビアンコが主流らしい。僕はツナの香りがあまり得意ではないのでビアンコの方をよく作る。

強火にかけているパスタ具がいい感じにメイラードしてきたところで先程のキノコソースを加える。これで二種類のキノコの旨みが合わさって相乗効果を生むのだ。パスタが少し硬めに茹で上がったところでアルミパンにパスタと少量の茹で汁を入れて絡めていく。最後に生クリームを入れて完成だ。

「さ、食べようか。」
白の深皿を二つ出してよそい、テーブルにだし、冷蔵庫からペリエをだしてグラスにつぐ。日曜のブランチにもっともふさわしいラインナップかもしれない。
「ねえ、あなたって天才みたい。」
「実際そうかもしれないよ。」
ボスカイオーラ・ビアンコを食べるのに最も最高な時間は、ひどい空腹時だ。生クリームとベーコンの油(本来はパンチェッタだが)の濃厚さが脳にガツンと響く。僕と葉子は4~5本ずつゆっくりとフォークに絡め、胃のなかに入れ込む。飢えていた体が少しずつ回復していき、次第に満たされていく。

「私のこんなに幸福な時間があと1時間で終わっちゃうなんて信じられないわ」葉子はため息をついてフォークを置く。
「あれ、今日何か予定あるんだっけ」
「仕事よ。15時にはついてなくちゃいけないの」
「ああ、そうか。というか、君こそ忙しいじゃないか。僕は一応、休みだよ。」「休みに仕事したら休みじゃないじゃない。」
全く、その通りかもしれない。
「それに、私は職業柄ね。別に忙しい仕事ではないから。」

葉子は風俗嬢である。もう27だから職業としては大ベテランに入る。2日に1日くらいのペースで働いているが、土日は大体夕方頃から出勤することが多い。年収は結構あるみたいだが、あまりそれについては話さない。自分の職の寿命が短いことを気にしているのかもしれない。顔は年齢からすると若く見えるが、そもそも風俗で人気になるのは20歳前後だ。入ってくる金額もそこがピークであり、歳を重ねるごとに下がっていく。

「あ~おいしかった。じゃあ、私もう準備しなくちゃ。食器は私が洗うわね。」
「ああ。片付けておくから、気にしないでいって来ていいよ」そう言って僕は二人分の食器を洗い場まで持っていく。
葉子は軽く髪を整え、着替えただけで出かけていった。


葉子との出会いは7年前に遡る。僕が21歳の頃だ。その頃は僕は大学生で、葉子には婚約者がいた。そして、その婚約者は葉子にDVをしていた。

葉子は専門学校を出た後に全国で10店舗ほど運営をしているイタリアンレストランに就職し、そこで婚約者と出会った。快活な葉子は職場でもすぐに打ち解け、4歳年上の店長とすぐに付き合い始めた。彼が大阪に異動になった時について来て欲しいと言われ、葉子は職場をやめて彼についていった。しかし、なかなか再就職先が見つからず、半ば居候のような形で彼と生活していた。最初の数ヶ月は良かったようだが、彼も新しい赴任先でうまくいかず、ストレスを葉子にぶつけるようになった。葉子が家にいないと何十回も電話をかけ、それがエスカレートして、気づく頃には位置情報アプリでつねに監視されながら家にいることを強制された。彼が許可しない限り近くのコンビニに行くことも許されず、家を勝手に出ると殴られた。何度も、何度も。

僕が出会ったのは葉子が名古屋に逃げてきて一週間経った頃だった。名古屋が実家なのだが両親とは馬が合わず、祖母の家に泊まりこんでいるということだった。
僕は当時、東京の大学に通っていたが、冬休みで1ヶ月ほど名古屋の実家に戻っており、マッチングアプリで適当に遊んでいたら葉子とマッチしたのだった。

そのころの葉子は不思議なほど元気だった。葉子が車で逃げたことに気付いて、血眼で走って追いかけてきた婚約者の顔が忘れられない、なんてコロコロと笑った。今思うとカラ元気みたいなものだったのかもしれないが、僕はそんなことは全く気づかなかった。変わった女性もいるもんだな、と野次馬根性で仲良くなったのである。葉子は1週間前まで悲惨な状況であったことを全く感じさせない快活な表情で自分の境遇を語った。

そこから僕らは3日に一回は一緒に居酒屋で飲むようになっていた。葉子は酒豪でいつも酒を欲していたが酩酊状態になることなんて一度もなかった。元々調理師学校に通っていたこともあり、
「私、将来は自分のお店が持ちたいんだ」
なんていつも笑顔に未来を語っていた。

僕らはマッチングアプリで『あるある』の体の関係になることも全くなく、冬休みを一緒に過ごし、僕は東京に帰った。僕が東京に戻る頃には名古屋で有名な洋菓子店のアルバイトを始めていて、彼女の夢を僕も普通に応援していた。

8月になり、サークルも部活もやっていない僕は相変わらず名古屋に帰り、葉子に連絡した。葉子は相変わらず快活だった。
「最近は金山でサラリーマン逆ナンしてるのよ。」なんてまたコロコロ笑っていた。
「君くらい顔が良ければ勝手にあっちから寄ってくるんじゃないのかよ。」
実際、葉子は顔がよく、いわゆる美人という顔ではないが、目は二重でぱっちりとして、若干目尻が下がっており、鼻は高くはないがすっきりしていて形がいい。体は小柄で、日本人男性万人にウケそうな容姿だ。
「いやね、私って突然飲みたくなるのよ。すぐに飲みたいの。誰かと。それに結構打ち解けられる性格なのよ。」
「なんだよそれ。なんか危ないことになったりしないの?」
「ないわよ。私強いし。」
葉子は腕の筋肉を強調するが、その細い腕からは全く強さは感じられない。
僕らは結構酔っ払っていたが、二軒目にいくことにした。

栄の繁華街は今日も賑やかである。あちらこちらから酔っ払いの笑い声が聞こえ、ホストやキャバ嬢が積極的に客引きをしている。葉子は自分の店を持ちたいと言っているだけあって結構味にうるさい。いつも高い店に行きたいとかではないが、値段が低くても良心的な品を出す店に行きたがる。正直、僕は東京の大学に通っていたのでそんな店は知らない。ということもあって、いつも葉子に店選びは任せていた。葉子は、串揚げが美味しいお店があるの、と言って繁華街の中心にどんどんと入っていった。

葉子はいつもこんなところで飲んでいるんだろうか。
葉子ははっきりものが言える性格だ。だからと言ってこんな小柄な体型では、無理矢理何かされたら太刀打ちできないだろう。少し心配になる。

「なあ、葉子…」
「あ、ここよ。ほんとに、めーっちゃ美味しいから」
僕は自分の言葉を飲み込んで、葉子の勧める店に入った。
かなり賑やかな店だった。でも、確かにうまそうだ。うまそうな店の構えをしている。繁盛店は大体すぐにわかる。店員に活気があり、気持ちのいい言葉遣いをする。忙しささえ楽しんでいるように見せる。いい匂いが立ち込めていて、その日のおすすめの品をちゃんとボードに出している。そして何より、客の笑いが満ちている。その店にいるだけで高揚感が生まれる。酒飲みはそういう店が好きだし、そういう店はうまい品を出す。

僕らは大学生くらいの元気な女性店員にテーブル席に通される。隣のテーブルには男性3名グループが楽しそうに会話をしている。学生だろうか。店員がおしぼりと、お通しのキャベツを持ってくる。

「生ビール二つと、味噌串揚げとふつーの串揚げ5本ずつ!お願いしまーす。」
「結構食うな、二軒目だけど。」
「いや、ほんと美味しいから大丈夫。余裕。」
「まあ、確かにうまそうな店ではある。」
生ビールが二つ運ばれてくる。最高の冷やし加減だ。ビールが凍らないギリギリのラインでグラスを冷やしている。ビールは冷たいほどうまいが、ビールが凍ったら台無しである。さすがだ。生ビールを半分くらい飲んだところで串揚げが運ばれてくる。二種類。あと、例の2度付禁止のタレである。揚げたての串揚げは湯気を出している。味噌串揚げの方は味噌ダレがすでにかかっている。串の先っぽまで味噌に浸かっていて雑さが見られるが、酒飲みには関係ない。こういうところでさえ『なんかいい』のだ。

「むちゃくちゃうまそうだな」
「早く食べよ!」
味噌串揚げから食べる。むちゃくちゃ…うまい。
味噌ダレがダクダクにかかっているが、この甘辛い赤味噌のタレがたまらない。名古屋人好みだ。しかもまだ衣がサクサクである。こんなにタレがかかっているのに。肉の旨みと赤味噌ダレがビールを促進する。

「これは…うまいわ」
「でしょ〜最高なのよ」
「すみません!生、お代わりで!二つ!」

そんなこんなで僕らはかなり飲んでいた。葉子は平気そうだが、僕はだめだ。そもそも愛知県民というのは基本的に酒が弱い。僕は愛知県民としては強いかもしれないが、葉子ほどではない。隣の男性3人グループにちらっと目を向ける。たのしそうだが、何か違和感が。

「葉子、あの三人組…」
「あ、完全ゲイだね。すごく楽しそう」
葉子は少し目をとろんとさせている。

やっぱそうか、なんか言葉使いが…ただ僕は頭がぐるぐるしてきてよくわからなくなってくる。

「ねえ、お兄さん、めっちゃこっちみてくるじゃん」
「あ、すみません…」
「ねえ、一緒に飲もうよ。この人もう飲めないわ。」
葉子がいう。
僕は正直気が進まないが、「お兄さん方はみなさんどんな集まりなんですか?」と頭がぐるぐるしながらも、なんとか質問する。
「あー。お店の仲間。もうみんなやめちゃったんだけどね。久しぶりに集まってるのよ」
「そうなんですか!じゃあ飲んじゃいます?私、奢るんで!」葉子がいう。
僕は、じゃあ、ってどんな論理展開だ、と心のなかで突っ込みながら、俺はちょっと休憩するよ、とかろうじていう。
「え、本当に?お姉さんありがとう、名前は?」
ゲイ1はそう言いながら店員を手招きして注文する。
「店員さん、ショット4つ!」

もうだめだ。僕は一旦外に出よう。

「ごめん、葉子、ちょっとコンビニで水買って酔い覚ましてくるよ」
「あ、わかった。ついていかなくて大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。あの人たちいい人そうだし、すぐ、戻ってくるから。」

そういって僕はお店の外に出る。冷たい風が気持ちがいい。コンビニでタバコと水を買い、少し散歩する。栄の繁華街でひとりで歩いていると何度もキャッチに引っかかるが無視してて水を飲む。少し飲みすぎた。しかし、葉子は強いな…。なんであんなに呑めるんだか…。

しばらくネオン街を散歩して酔いが覚め、本当にゲイかどうかもわからない男性三人組と葉子を残してきたことが少し心配になってくる。

「よし、気合い入れるか。」

そうひとりつぶやいて店に戻る。

男性三人組は完全に葉子に負けていた。いや、葉子も少し変だ。快活、とはもう言えないだろう。

「あ、お兄さん戻ってきたの?大丈夫?」
いや、そちらこそ大丈夫か、と突っ込みたくなる気持ちを抑えて、
「ええ、まぁ、はい。」と伝える。
「ねえ、お兄さん、葉子もうちらと同業なんだね!めっちゃ打ち解けたわ〜」
ん?どういうことだ?葉子はハッとする。
「あ、私ね。いまキャバクラで夜職もやってるんだ。」
そうなのか。僕は少し驚くが、まぁ洋菓子店のアルバイトだけじゃ大変だよな、とも思う。
「あ、そうなんだ。まぁ、葉子、人気ありそうだよね。」
「そう!ほんとそう!」ゲイ1が呂律のまわらない言葉で言う。
「マジで葉子強すぎ」ゲイ2だ。
「さぁ〜お兄さんも戻ってきたし!飲むよ〜」ゲイ3が言う。

葉子にだけ任せていられない。望むところだ。


結論から言うと、ゲイ三人組は僕たちに負けた。

僕は酔いを醒ませたハンデがあるから、正確には葉子に負けた。
ゲイ2は完全に机に突っ伏し、ゲイ1は腕を組んで頭を上下運動させている。ゲイ3はかろうじて元気そうだが、目の焦点があってない。
対する葉子は、というと僕が見たことないほどに酔っ払っていた。元気そうだがテンションが高すぎる。こんな葉子は初めて見た。

さすがに潮時かな…と言うことで店員さんを呼んでお会計をお願いする。
「いくらだった?」ゲイ1が言う。
「あ、大丈夫!私払うって言ったでしょ!」
「いや、俺も払うよ。葉子にだけ払わせるわけにはいかないし」と僕が言うが葉子はそれを遮る。
「大丈夫。意外と最近稼いでるんだ〜」
そうなのか。なんか申し訳ないが、今日は葉子の言葉に甘えよう。元はと言えば葉子が飲もうと言ったんだしな。

「さて、帰ろうか」と僕がいったところで事件が起きた。
ゲイ2が机に吐いたのだ。

「やっちゃったね」ゲイ3が言う。
「やっちゃったね」葉子が言う。

最悪だ…こんないい店で…。
僕は店員さんを呼びひたすら謝ってゲロ処理をした。他の連中は酔っ払っているから仕方がない。葉子が奢ってくれたし、いいとしよう、と心の中で何度も唱える。

僕ら五人はそのまま店を出、商店街を歩いていた。
ゲイ1とゲイ3がゲイ2に肩を貸している。これ、本当にちゃんと帰れるのか、と僕は思う。僕だって相当酔っ払っている。何か問題が起きても対処はできないし、もう早く帰りたい。でもダメだ。葉子がずっとゲイ3と話している。楽しそうだ。
僕は、葉子がこんなにテンションが高くなって楽しそうに話しているのを見たことがなかったため、どうしても帰ることができなかった。

そして案の定、ゲイ2がまた吐いた。

なかなかに見事な吐きっぷりだ。ゲイ2のゲロは放射線状に宙を舞い、地面にバシャバシャと落ちていった。ゲイ1とゲイ3は驚いて支えていたゲイ2の肩から離れ、ゲイ2はそのまま吐瀉物の沼に顔を埋めた。
最悪だ…

「ねえ〜〜!!何やってるの!!」

あれ、葉子さん?
葉子はゲイ2に抱きついて肩を叩く。葉子もかなり酔っているようだ。
ゲイ1とゲイ3は慌てて近くの自販機に水を買いに行きゲイ2に飲ませようとする。僕はもう諦めることにした。しばらく様子見しよう。そう思ってタバコに火をつけ、5mほど四人から距離をとった。

しばらくしてゲイ2は水を飲み始めた。
少し容体が安定してきたので5m離れながらも僕はかなりほっとした。しかし、それより問題は葉子かもしれない。ずっと心配そうにゲイ2を介抱しているが、介抱している様子がおかしい。そもそも吐瀉物が服についていることに葉子は気づいているのだろうか。

通りがかりの人たちが僕らをおかしなものを見る目でジロジロと見てくる。実際おかしな人たちだと思うが、いい気はしない。というかそもそも僕も路上喫煙をしているので見ないで欲しい。

通りがかりの人たちの中で若い男性2人が近づいてきた。
しかも、葉子にだ。僕はため息をつく。そりゃあね、葉子は美人ですよ。僕も酔っ払って彼氏ヅラである。
「どうしました?」若い男性のうち身長の低い方が猫撫で声で葉子に話しかける。髪の毛がツンツンしていたので僕は彼をトサカと名付けた。しょうがないのでトサカに近づく。
「気にしないでください。ちょっと友人が酔っ払っちゃって。」僕はそういうがトサカは完全無視である。
「あれ、ミカさんじゃない?」もう一人の方が言う。無駄に前髪が長いので、僕は彼を前髪と名付ける。
「いや、ミカじゃないですよ、変なナンパしないでください。」僕だって酔っ払っているから結構強気だ。
「いや、ミカじゃん!学園の!ミカだ!」トサカが言う。
「ミカさん。こんなところで何しているんですか?」前髪である。
僕はため息をつく。
「いや、だから違うって。何言ってるんですか。もうほっといて帰ってください。僕らの問題なんで」
「は?お前知らないの?ここら辺で有名な風俗嬢じゃん。ミカ。俺らボーイやってるから知ってんのよ。」トサカが高圧的に言う。
こっちが訳がわからなくなる。
本当にそうなのかと思い、葉子の方を見るが、もう葉子もダメだ。全然焦点があっていない。かなり気持ち悪そうにしている。
「あ、ごめんちょっと誰かわからないけど、私、吐きそう、トイレ」
「おい、葉子大丈夫か。ついてくよ。」
「いい!一人で行く!大丈夫!来ないで!」
「ミカさん、俺がついていくよ〜大丈夫?」
「わかった」葉子がいう。
なんでトサカが良くて僕はダメなんだ。僕はショックを受けるが、本当に知り合いなのかもしれない。本当に仕事の仲間なら僕より信用できるのかもしれない。どう考えても外見がまともではないが…。そう思ったが、やはり信用できず少し距離をとって僕は二人についていく。そして二人は多目的トイレに入っていった。

葉子が吐いている音が聞こえる。どうやらトサカは本当に介抱をしてくれているみたいだ。僕は少し安心するが、多目的トイレのそばを離れないことにした。やはりトサカは信用できない。

しばらくして音がやみ、二人が話している声が聞こえる。小さくてよく聞こえない。何を話しているのかも僕には検討がつかない。

しかし、突然葉子が大声をあげた。
よくわからない大声だ。何を言っているのかがわからない。僕は驚いて多目的トイレのドアを叩く。
「おい!葉子!どうした?大丈夫か!?」
返事はない。葉子はずっと大声をあげている。
仕方がない。僕はドアを思いっきり蹴った。壊れたって知ったことか。どうせ俺だって酔っ払ってるんだ。3回ほど思いっきり蹴り、ドアにひびが入ったところで鍵があいた。トサカがニヤニヤしながら出てくる。
「大丈夫だって〜」
「何が大丈夫だ、お前何したんだ?」
「なんもしてないよ〜」
「葉子、大丈夫か?」
「大丈夫、あなたは気にしないで、もう大丈夫、帰っていいから」
なんで俺は何も説明してもらえないんだ、とイライラしてくる。そもそも葉子が夜職しているのだってさっき知ったのに、風俗だ、学園だ、っていったいなんなんだ。僕はトサカをにらめつけているが、葉子の肩を担いでいるのはトサカなのでどしようもない。なぜか葉子はこの男の方を信用しているようで何が何だかわからない。

葉子、トサカ、僕はゲイ2のところに戻ると前髪が2台のタクシーを呼んでいた。ゲイ三人組はもうタクシーで帰るところらしい。
一方の助手席にまた、知らない男が乗っている。もう、何がなんだかわからない。
頭がガンガンする中で僕は解決策が浮かばずにいた。
「じゃ、俺らタクシーで学園まで帰るから。」トサカがいう。
「いや、俺も乗せろ。お前らは全く信用ができない。いい加減にしてくれ。」僕はいう。
「いやさ、お兄さんわかってないかもしれないけど、こいつ学園の女なんだって。っていうかケントさんの女なんだけど。」前髪がいう。
「いや、何言っているかわからんがとにかくタクシーに乗るなら俺も乗せろ。どう考えてもお前らの行動はおかしいだろ」僕はイライラして声を荒げる。

「もういい。あなたは帰って!」

葉子がいきなり僕に叫ぶ。

「もういいの。私はあなたにこんなに迷惑かけたくないの!知らないでいて欲しかったの!本当にごめん!迷惑かけてごめん!今日は楽しかった!また会お?それでいいでしょ?もう今日は帰って」

僕は呆然とする。
何がなんだかわからない。
僕は一人、未知の世界に突然ワープして、僕だけ言葉がわからないのだろうか?葉子は何を言っているんだろうか?どうしてこんな奴らより、僕を信用してくれないんだろうか?

しかし、葉子たちは4人でそのタクシーに乗っていってしまった。

奴らは葉子を乗せていってしまった。僕はどうすることもできなかった。帰る気にもなれない。僕はコンビニで水を買い足しどこに行ったかもわからないタクシーの軌跡をとぼとぼと追った。

結局、葉子はなんの仕事をしているのだろう。本当に風俗なのだろうか。トサカは多目的トイレで何をしたんだろう。嫌な予想がどんどんと浮かんでくる。何度も葉子に電話を掛けるが全く繋がらない。

クソッ、すぐに他のタクシーで奴らを追いかければよかった。葉子は帰れと言っていたけど、どう考えてもおかしい。

そんなこんなで僕は20分くらいタクシーが向かった方を歩き続けていると、葉子から、電話がかかってくる。

僕はそれをワンコールででる。

「葉子!大丈夫か!?」

「あ、大丈夫。てか。あいつら。まじで誰なん?」

「いや、俺が聞きたいよ。今どこにいるの。位置情報すぐに送って。」僕は興奮して声を荒らげてしまう。

「あ、ごめん。今送る。」

僕は葉子に位置情報を送ってもらい、すぐにタクシーでそこに向かう。そこには地面にうずくまる葉子がいた。

「う〜もうダメだ。ものすごく今、ケントさんに会いたいの。」

「ケントさんって誰なんだよ。」

「ねえ、ケントさんに会いたい。」

「わかった、わかったから。ケントさんには明日会おう。もう今日は家に帰って寝よう。」

「うん…。ねえ、あなたもついてきてくれる?」

「あぁ、葉子がいいならついていくよ。今どこに住んでるんだっけ。」

「六番町。」

「わかった。詳しい住所は後で教えて。」

そうして、僕らは葉子の家に向かった。

家につくと葉子はすぐにベッドで寝てしまった。これだけ酔っ払っているのだから仕方がない。僕も正直疲れた。

夜明け前、僕は足の痛みで目が覚める。僕の親指からは血が出ており、パンパンに腫れて膿んでいた。そして膿は蠢いていた。もそもそと僕の足の指を這い、僕の指を少しずつ腐食しようとしていた。ガンガンとした頭はその状況を理解することができず、僕になんの感情も与えなかった。膿は足指から少しずつ僕の内部に入り込み皮膚から筋肉の内部まで到達し、そのまま僕の胴体へと向かっているようだった。僕は膿の目的を直感的に把握していた。膿と僕は心が通っているのだ。膿は僕の目的を分かっているし、僕は膿の目的を分かっている。僕は膿を邪魔する気にもなれなかった。赤紫色の膿は少しずつ、日の当たらない筋肉の中で、確実に僕の腐食を進めながら、僕の胴体へと向かい心臓へと到達したがっていた。僕は膿の行動を黙殺し、また眠った。

目が覚めると、もう昼前になっていた。葉子はまだベッドで眠っていた。
僕は汗でベタベタになったシャツを脱ぎ、放ろうとする気持ちを抑えてシャツを畳んで自分のバッグに入れた。キッチンにいって洗い場にあるカップに水を注いで3杯飲み、身体中の汗を洗い流すために浴室に入った。葉子の家には洗面台がなく、廊下にそのまま浴室が設置されていたので浴室の中で全ての服を脱いでシャワーを浴びた。浴室はユニットバスだった。僕はシャワーを浴びながら2回吐き、3回頭を洗った。替えの服はもちろん持ち合わせていなかったので僕は浴室の扉にかかっていたタオルを下半身に巻いて、バッグの中の畳んだシャツと浴室のびしょびしょに濡れた服を廊下の洗濯機(なぜか洗濯機だけ高性能のドラム式だった)に入れて回した。一通り体を清める作業が終わって手持ち無沙汰となったので、洗い場で水を2杯飲んだあと、廊下の冷蔵庫を物色した。冷蔵庫には醤油やソースなどの調味料類と6パックの卵と干からびたネギと大量のビール、そして作り置きの何かしらが入った4つのタッパーがあった。流石にタッパーの中身を確認する気にはなれなかったので、諦めてネギを取り出して刻んだ。洗い場の下にあったステンレスの片手鍋に水道水を入れてわかし、冷蔵庫に入っていた日本酒と味覇とオイスターソースを適当に放り込んだ。卵を二つ取り出して撹拌し、沸騰したところで全体の三分の一くらいを流し込む。卵は重力で鍋に沈み込もうとするが、すぐに円形に浮き上がってくるので菜箸で軽く撹拌する。それを3回繰り返したあと、刻んでおいたネギを鍋に入れる。これは軽く火が通る程度でいい。

中華スープを二つお椀に注いで部屋に戻ると葉子は目を覚ましていた。
「本当に、昨日はごめん」消え入るような声で葉子がつぶやく。
「いや、いいよ。スープ作ったけど飲むか?」
「うん、飲む。」

葉子はスープを少しずつ飲みながら自分の職業のことについて話してくれた。実は数ヶ月前から風俗で働き始めたこと。オーナーがケントという名前であること。トサカと前髪とは知りあいではないこと。

「ケントって人とはどういう関係なの」
「関係って、普通にオーナーだよ」
「そう」
「ただ、本当に昨日はごめん。やりすぎた。」
「別に葉子は悪くないよ」
「ううん。結局私が良くないんだ。多分あの二人だって私の仕事の関係者だったし。私ね。」
「どうしたの。」
「あのね。私、DV昔受けてたでしょ。実はあの時、そんなに不幸じゃなかったんだ。結局ね、私はあの人のことが好きだったの。あの人が私に指図しても、それを聞くことが幸せだったの。私には何もないから、あの人に殴られるたびに私が変わっている気がして、あの人に近づいている気がして、辛かったけど、嬉しかったんだ。殴られても、私があの人の好みになれるなら、あの人と同じようになれるなら、私が間違ってるから、それでもいい気がしてたんだ。こういうのなんていう気持ちなんだろうね。愛ではないのは分かってたんだけどさ。」
そう言って葉子は弱々しく笑う。
「それでも、殴ることは君のためにならないじゃないか。」
僕はこの返しが間違っているとわかりながらも、かろうじてそう言う。そういうしかないのだ。
「ねえ、というかさ。」葉子が言う。
「何」
「なんで服着てないの。ずっと上裸。タオルしか巻いてないし。」
「なんかタイミングがなくてね。」
「タイミングがないとあなたはずっと上裸なんだ。」
「タイミングがなくても守るべきところは守ってるからいいじゃないか」
「昨日も私のこと守ろうとしてたもんね」
「守り切れていたかどうか怪しいけどな。今日もそうかもしれない。」
「やめて。私の服でも着て。」そう言って葉子はグレーのスウェットを投げてくる。
「パツパツだな」スウェットをきた僕はそう言って笑った。





彼女は28歳の年の瀬から音信不通になった。

そして、葉子は28歳の1月に、電車にはねられて死んだ。岐阜の山奥の線路沿いだったらしい。深夜、ほとんど電車が通らない線路を彼女はポツポツと歩いていた。どうやって線路内に侵入したのかもわからないし、どうして葉子が死んだのかもわからない。ただ、わかることは、僕は葉子を幸せにすることはできなかった、それだけだ。

葉子と僕は付き合ってはいなかった。いわゆるセックスフレンドだったのかもしれない。僕は葉子を愛していたが、葉子はヒモを買っていた。

彼曰く、葉子は時々暴れたらしい。それは全く突然に暴れる、とのことだった。突然に叫び、家のものすべてを彼に投げた。彼はそれを怒ることなく、いつも必死でとめた。

僕は彼女に何ができていたのだろうか?

僕は彼女の心をすこしでも明るくできていたのだろうか?

そんなことをいつも考える。

僕は葉子を愛していた。彼女の話し方、人との接し方、食べ方、飲み方、笑い方、そしてセックス、すべてを愛していた。

ただ、それは僕だけが感じた幸せであり、僕は彼女の本当の心の部分を癒やすことはできなかった。

僕は彼女が空腹のときにボスカイオーラ・ビアンコをつくった。たった、それだけの存在だったのだ。






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