神秘主義者の遺書

「もし自分自身を愛するなら、すべての人間を自分と同じように愛している。他人を自分自身よりも愛さないならば、ほんとうの意味で自分を愛することはできない。自分を含め、あらゆる人を等しく愛するなら、彼らをひとりの人間として愛しているのであり、その人は神であると同時に人間である。したがって、自分を愛し、同時に他のすべての人を等しく愛する人は、偉大であり、正しい」

ーーーーーーーーマイスター・エックハルト

いつもくだらない話しかしない女だったんです。
名前はここではSということにさせてください。だいたいの場合Sは体を交わした男の話をしていました。肌が白くて顔立ちが整っていたので男には不自由していなかったですし、男とのセックスについて面白く話す能力に長けていたので、その手の話が好きな若者にとって絶好の飲み相手でした。私はSの姉と親しく、Sも私も週末にチェロを弾く趣味を持っていたので、Sの姉の紹介で音楽仲間と何度か飲みにいきました。私とSが会う時は、大抵の場合どちらかの友人を連れてきていたので、二人きりで話す、という機会はほとんどありませんでした。

ただ、1度だけSと二人で話したことを覚えているんです。短い時間でしたが、普段、酒を飲んでいる時には見せない表情をしていたので、よく覚えているんです。

3年ほど前、Sと出会ってから半年ばかり経った時、Sに男を紹介してほしい、なんて言われたので大学のサークルの友人を紹介しました。(その友人も弦楽器をやっていました。)上野かどこかの汚くてうるさい居酒屋で僕らはいつものように飲んでいました。僕の友人はSのことが気に入ったようで、好きな音楽家やら今の仕事やらを熱心に聞いていました。2時間くらいでビールを3人で20杯は飲んでいました。僕も流石に酔っ払ってきていてトイレに立ち、帰った時には二人はいなくなっていたんです。店員に聞くと、会計を済ませて出ていってしまったらしい。僕はため息をついて店を出ました。何回かこんなことがあったのでSと友人に電話をかけることもしませんでした。

それから2週間くらい経ってその時の友人から電話がかかってきたんです。僕は切ってやりたい気持ちを抑えて電話に出ました。その友人は大学の時から仲が良かったですし、まあ、その時の土産話も聞いてみたかったと言うのもあります。電話に出て話を聞いて僕は呆れました。友人には当時付き合ったばかりのガールフレンドがいたらしいんですが、ガールフレンドにSとセックスをしたことがバレたというんです。僕はそもそも友人にガールフレンドがいることも知らされていませんでした。しかも、今から友人とガールフレンドとSで話し合うことになったから僕にもついてきて欲しいというのです。どうやら友人のガールフレンドはかなり腹を立てているようで、紹介した僕にも非があると言って聞かないそうなんです。僕もそんなことには首は突っ込みたくはなかったのですが、友人の強い頼みに押されて結局その場に行くことにしたんです。

場所は僕の自宅近くの田端のカフェでした。Sに連絡をとって先に二人で待ち合わせ、友人とその彼女を待っていました。Sは特に悪びれる様子もなく、ツンとして僕と話そうとしませんでした。僕も面倒なことに巻き込まれていい気分ではなかったので特に話そうとも思いませんでした。30分ほど黙って二人でコーヒーを飲んでいたら目を真っ赤に晴らした女性と僕の友人がカフェに入ってきました。するとSは突然席を立ち、僕の友人のもとにツカツカと歩いていって、ビンタをしました。結構な大きな音がしたので周りはみんな注目しましたが、僕の友人もその彼女も僕も呆然とする他ありませんでした。Sはそのままカフェを出ていってしまいました。

僕はさっきまで全く話そうと思っていなかったのにも関わらず、Sを追いかけなければ、と咄嗟に思いました。ですから僕は、呆然としたまま立ち尽くしている友人を一瞥したあと、すぐに追いかけました。

Sは大股で足早に歩きながら、泣いていました。僕が追いかけてきたからといって足を止めようとはしませんでしたし、僕はなにをいっていいかわからなかったのでSに追いついて、少し差を広げられて、僕が小走りになってまた追いついて、というのを繰り返していました。10分ほどそれを繰り返し、田端から西日暮里を過ぎたあたりのところでSは突然僕の方を振り返り、手を上げて僕にビンタをしようとしました。僕はなぜかそれを止めようとも思いませんでした。Sの手が僕の頬に触れようとしたとき、Sはそれをやめてヘナヘナと崩れて道でうずくまってしまいました。そのままアスファルトの中に溶け込んでしまうんじゃないかと僕は思いました。その日は、強い風は吹いていましたが、なかなかに晴れたよい小春日和でした。風がSの髪をバサバサと吹き荒らしながらSがアスファルトの中に沈んでいく手助けをしていました。Sは泣きじゃくっていてそのことに気づいておらず、アスファルトはその状況にニヤニヤしながらSを取り込もうとしていました。僕はアスファルトからSを助けようとしましたが彼女の肩に触れようとすると彼女はそれを強く払い除けました。違うんだ、僕は君を慰めるんじゃなく、助けようとしているんだ、と言いましたが、その言葉は音にならず、僕は口をパクパクさせているだけでした。気づくと空は黒い雲に覆われていました。バラバラと雨を降らせ、Sを濡らそうとしていました。Sはハッとそのことに気づき、宙を見上げ、自分の状況を理解しました。Sは膝までアスファルトに沈んでいましたが、プールから出るかのようにすんなりと抜け出しました。すると、黒い雲もゆっくりと去っていきました。

「なんでついてくるのよ。」
「いや、なんでって…。なんとなくだよ。」
「あ、そう。じゃあ、なんとなくさ、海連れてってよ。海。」
「海?なんで海なんだよ。」
「なんとなくって言ってるでしょ。あなた確かカーシェアリング契約してるよね?それで。早く。」

僕はSに押されてとりあえずカーシェアリングサービスで車を手配しました。西日暮里はたまたまカーシェアしている車が多かったんです。なんだか人にかき回されてばっかりな日だな、とも思いましたがもう諦めていました。そんなこんなでSと海に行きました。

車の中でもほとんど会話はしませんでした。慰めようかとも思いましたが嫌がられそうでしたし、クラシック音楽の話もこの場にはそぐわない気がしたんです。

僕らは千葉の安房郡の海岸に行きました。Sが行きたいというからです。ついた頃にはもう夕方になっていて人は誰一人としていませんでした。

Sは海岸につくと砂浜まで走っていきました。そして水平線を少し眺めたあと、腕を気持ちよさそうに天まで伸ばし、そのまま仰向けに砂浜に倒れ込みました。まだ肌寒く、そこには海と夕日と砂浜とSしかいませんでした。僕はなんだか絵を眺めているようで、Sはその絵の中に完全に溶け込んでいました。

そこにいつもくだらない話しかしないSはおらず、合一化された、絵としてのSしかいませんでした。

僕がSに近づいていくと、Sは目を閉じてゆっくりと息をしていました。僕はなにかSに言葉をかけようとして口を開き、やっぱりやめて、Sのそばに腰を下ろしました。時間はゆっくりと流れ、イデアはレンズを通して世界に、僕達として投影されていました。

「ねえ、私ね、たまにこうしたくなるの。」

「世界に溶け込みたくなる?」

「溶け込む?なにそれ。」Sはそういってコロコロと笑いました。

「あ、いや違うんだ。」

「でも、そうなのかもしれない。溶け込む。溶け込んでるのかも。」

「あなたってさ、なんでチェロ続けてるの?」

「なんでだろう。単純に楽しいからじゃないかな。自分の表現で何かできるっていうのは楽器特有のものだと思う、からかもしれない。」

「そうね。表現。それもいいわね。私はね、バランスを取るためにやっているの。」

「バランス?」

「そう。世界との均衡。私はね、事務職やってるって言ったよね。」

「うん。」

「事務職ってね、25mプールを右往左往することでしかないの。」

「25mプール?」

「そう。ただ、決められたコースを泳ぐことでしかないの。私が新しい場所にたどり着くなんて誰も期待していないの。ただそこを右往左往してたくさん泳げたり、早いタイムを出せば褒められるの。でも、だからといってそこに何かが生まれることはないのよ。」

Sは夕日と砂浜と海に溶け込みながらそういいました。

「音楽はね。普段25mプールを右往左往する私に、海はあるんだ、って教えてくれるものなの。」

「でも、波にさらわれて帰ってこれなくなるかもしれない。」

「それでいいの。私はそうしてドビュッシーとストラヴィンスキーの中に沈んでいって死ぬの。それほど幸せなことなんてないわ。」

Sはそういって、砂浜に沈んでいた指を僕の指にからめ、Sと僕はそのまま砂浜に沈み込んでいきました。僕らはリンゴを食べる前のアダムとイヴになって自然と合一化され、イデアの一部になったんです。

僕らはその後一言も言葉を交わしませんでした。僕はそのまま彼女の家のある清澄白河まで送り、西日暮里まで車を返して、僕は田端の自宅まで歩いて帰りました。

Sが自殺したのはそれから2週間たったころでした。自宅で首をつっていたそうです。そしてSの足元のクッキーの缶に遺書が50枚入っていました。

一つ一つの遺書はとても短いものでとても遺書と呼べる代物ではなかったかもしれません。母親や弟、友人(そこにはSと一夜をともにした僕の友人宛のものもありました)にむけて本当に一言だけ言葉が書いてありました。箱根に行ったときは本当に楽しかったね、とか、そういうたぐいのものです。

ただ、僕宛てのものだけは違いました。

「あなたのことは、本当に嫌いだったわ。」


そう、一言だけ、残してありました。

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