「悟った」の構造
東洋哲学と西欧哲学の根本的な違いは「悟り」にあります。
西欧哲学の哲学者は決して「悟」りません。
「悟り」の定義はすべての真理を会得する、とできますが西欧哲学はそもそもこの悟りを許していません。あくまで科学的に真理を追究していく、というのが西欧哲学の真理への立ち向かい方です。ですから必ず後世のものの方が多くの知識を得ているということを前提とします。知識の蓄積は破壊を前提としており、後世の哲学者は知識を破壊し、更新していくことで真理に近づいていきます。(例を挙げるとすれば天動説⇒地動説みたいなもの)
これに対して東洋哲学は「悟」ります。
我々が師事する東洋哲学者は「完全に」真理を知っていて、それは疑いようもなく、我々は彼らの語った事柄を受け取り、咀嚼し、滋養とします。そうすることで我々は学びます。完全に西欧哲学と逆です。
正直、私はこのことに気が付いてからというもの東洋哲学というものに完全に興味を失い、西欧哲学ひいては科学というものに対して興味を持ってました。だっておかしいじゃん、なんで昔のひとの方が真理に近づいているのよ、どう考えても今の僕たちの方が賢いよ、という感じ。
しかしながら、これは東洋哲学の構造にきづいていなかっただけでした。東洋哲学の第一人者は本当に悟っており、我々は彼らから「すべて」を学ぶことが、本当に、できるのです。(いや、嘘じゃなくて。)
これについて説明していきます。
その前にこの構造を説明するためのエピソードを紹介しましょう。
長良はある日、橋の上で馬上の黄石公に出会う。すると石公は左の靴を落とし、長良に「あの靴をとって私にはかせろ」と命じる。長良はむっとするが、師匠の命だから、仕方なく靴を履かせる。その数日後、長良は再び馬上の石公と出会う。石公は今度は左右の靴を落として、「長良、あの靴を取って私にはかせろ」と命じる。長良はさらにむっとするのだが、「師匠からは「兵法の奥義」をゆくゆくはつたえてもらえるんだからしかたない」と、石公に靴を履かせる。するとその刹那、長良はなぜ石公が靴を履かせたのかを理解し、「兵法の奥義」について知り、奥義伝授は成功したのである。
これが東洋哲学の在り方について端的に表しているエピソードであるといえます。このエピソード上の「兵法の奥義」というものを「真理」と読み取っていただいても構いません。
このエピソードで重要なところを並べると以下の点です。
➊長良は師匠の靴を取らせるという行為に一回目は意味をもっていなかった。
➋長良は意味をもっていなかったにも関わらず二回目も靴をとった。
➌靴をとったのは石公を「師匠だから」と認めていたためである。
➍靴をとった刹那、長良は「兵法の奥義」を伝授した。
まず、長良は、この靴をとるという行為自体に本来は意味を持っていなかったのにも関わらず、二回目で意味を見出した、ということに重要な点が隠されています。これは、この「靴をとる」ということにゲーム性を見出したという意味が含まれています。「靴をとる」行為が一回だけでは、ゲーム性は見いだせないが、この無意味そうな「靴をとる」行為を二回やらせた、つまり、石公はこれを通して自分に何かを伝えたいに違いない、長良はそう感じたのです。
しかしながら、長良がそのように感じたことには理由があります。これが師匠と認める石公以外にされたものであれば、長良は決して「何かを伝えたいに違いない」という風には考えなかったでしょう。石公であるからこそ認めたのです。つまり、長良は石公に対して完全に自己を開放していた(簡単に言えば「超」素直になっていた)。こうでもなければ「なんやこいつ。無茶苦茶、靴落として。ボケとるがな」としか思わなかったはずです。
さて、そしてこの「靴をとる」という行為、これに本当に「兵法の奥義」なんてふくまれていたのか?これは「完全に含まれている」というのが解です。しかもこれ、実は「靴をとる」という行為でなくてもよかった。
➊石公がすでに「兵法の奥義」を持ち合わせていて(つまり「悟っ」ていて)、
➋長良が完全に石公に自己を開放しており、(つまり師匠に対して超素直になっていて)
➌かつゲーム性が認められる(つまりなんか謎があるっぽいな、と思わせられる)
この3つの条件を満たしていればなんでもよかったのです。
なぜならこの3つの条件を満たした時点で、「すべての真理」が抽出できるからであり、「靴をとる」ということからすべてを学ぶことができるからです。この構造が東洋哲学の構造です。
なんかこんなことを言ってしまうと「なんじゃそりゃ!うそつけ!」なんて思う読者の方々もいるかもしれませんが…いやいや、違うのですよ。
西欧哲学と東洋哲学の対比に戻りましょう…
西欧哲学は「今までの知識を破壊し、更新する」ことで知識を得るのに対し東洋哲学は「師匠をもち、師匠の言動を解釈する」ことで知識を得るという違いを持ちます。この知識の獲得の方法に違いがあるというのがここで言いたいことです。
西欧哲学の学び方では自己の投影でしか学ぶことが出来ません。つまり、いままで知られていることを自己に取り込み、それを投影することでしか学ぶことが出来ません。それに対し、東洋哲学は孤独ではありません。師匠がいるからです。すでに知られた知識を自分にとりこむだけでなく、行き詰まったら、師匠に聞いてみればいいんです。「師匠なら知っていると思うんですが、これってどう解釈すればいいんですかね?」師匠は何でも知っているため、弟子は必ず師匠から学ぶことが出来ます。この「自己ー他者」の関係だけでない「自己ー師匠ー他者」の関係であれば、哲学者は絶対に孤独になることはありません。そういう学び方の構造が違うという点で西欧と東洋は完全に異なっているんです。
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