「自分」なんてない
人間はひまだと「自分とは何なのだろう?」と考えるらしい。
これを大昔に否定した人物がいる。
ヤージュニャヴァルキヤである。
「自分については『に非ず、に非ず』としか言えない」
という言葉を残している。
私たちは自分というものについて認識しようとする。自分、というものは労働のために生きているのだ。とか自分、というものはこの愛する人を幸せにするために生きているのだ。などなど。これらすべては間違いである。
そもそも認識という行動の中で私たちが出会うことができるものは「認識されるもの」である。認識の対象となっているもの、と言い換えてもいい。「認識されるもの」を認識する主体となっている存在は認識することはできない。
なぜならば「認識する主体」を認識した時点でそれは「認識されるもの」へと転化しているためである。
この「認識する主体」を認識する主体が必要となってしまう。「認識するものを認識したぞ、と言い張っている認識するもの」を認識したぞ、といいはってる認識するもの、が存在することになってしまう。これは永遠に繰り返され結局のところ認識の主体は認識ができない。これを無限遡行という。
であるから、「自分」という存在については認識することは不可能であり、「自分ってこれではないよね」「あと自分ってこれでもないよね」と否定しかできないものなのである。
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